ジャック・マー氏がアント・グループの支配株主から外れた。
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「中国のIT業界はほんと前向きな話がないですね。リストラ、撤退、株価下落……。数年前は飛ぶ鳥を落とす勢いだったのに。来年は世界的に景気後退しそうなのに、この状況が続くんですかね」
2週間ほど前、年末の挨拶で電話をかけた中国VC(ベンチャーキャピタル)関係者と互いにため息をついた。IT不況やゼロコロナ政策による経済の混乱で、景気のいい話は滅多に聞かない。悪い話ならいくらでもあるが、「だらだら悪い」状況が続くと、人の関心も薄れてくる。VCにとっても、毎週ここで何か執筆しないといけない筆者にとっても、苦しい1年だった。
繫栄を謳歌していた中国IT業界が何の前触れもなしに冬に突入したのは、2020年11月、史上最大規模のIPOとして世界中から注目されていたアリババグループの金融子会社「アント・グループ」の上場が、3日前に無期限延期に追い込まれたことがきっかけだった。10月下旬に公の場で金融規制に“物申した”アリババおよびアントの創業者のジャック・マー(馬雲)氏は当局に呼び出され、以降表舞台に姿を現さなくなった。
その後、アントだけでなく親会社のアリババ、そのライバルであるテンセント(騰訊)、配車サービスのDiDi(滴滴出行)などビッグデータを手中にして強大な力を得たメガITには次々に当局のメスが入り、手足を縛られることになった。一方でファーウェイ(華為技術)など、通信や半導体に関わるIT企業は、米国にぐいぐい締め付けられるようになる。
世界的に景気後退色が強まり、中国は外需の縮小とゼロコロナ政策による国内経済の混乱という内憂外患に陥っている。それでも2000~2010年代に中国のイノベーションのけん引役であったIT企業への締め付けを続けるのかと思っていたら、規制の震源地だったアントを巡る大きなニュースが年末年始に立て続けに入ってきた。
マー氏の議決権、53%から6%に低下
1月7日、アント・グループは資本関係の見直しによるコーポレートガバナンスの刷新を発表した。最大の目玉はマー氏が経営権を持つ実質支配株主から外れたことで、中国だけでなく世界でも速報された。
アントの前身「支付宝(アリペイ)」はアリババのECプラットフォームの決済サービスとして2004年に誕生し、2011年にアリババから分社した。アリペイのユーザーは10億人を超え、そこから収集する膨大なデータによって個人の信用をスコア化し、決済、融資、保険など金融のあらゆる分野で革新的なサービスを生み出してきた。マー氏にとってはアリババに続く「第二創業」とも言える事業だ。
アントの株主構造は、長らく以下の図のようになっていた。詳細な説明は省くが、図にある井賢棟氏(アント董事長兼CEO)、胡暁明氏(前アントCEO)、蒋芳氏(アリババG副最高人事責任者)は実質的支配権を持つマー氏の「一致行動人」として議決権を行使するため、マー氏の株式保有率は約8.8%だが、関連会社を通じて実質的にアントの議決権の53.46%を握っていた。
ジャック・マー氏(马云)が実質的にアント・グループを支配していた。
アント・グループ
刷新後は関連会社の「一致行動人」に関する規約の効力を無効化するなどして、以下の図式になった。創業者のマー氏、アント董事長の井氏のほか、アント経営陣、従業員代表など10人の主要株主の議決権を独立させ、互いに関与しないよう見直した。マー氏の議決権比率は6.208%に下がり、アントを直接・間接的に支配する株主は存在しなくなる。アントは「議決権が透明化・分散化され、健全な成長に寄与する」と説明した。
マー氏の議決権は6%台に低下した。
アント・グループ
業務の切り離し、アリババとの経営分離進める
アントの上場に待ったをかけた当局の主な言い分は「金融業務を手掛けているのに金融業務のライセンスを取得することもなく、金融当局の監督を受けていない」というものだった。アントもこの批判を意識してか、2020年6月に社名を「アント・フィナンシャル」から「アント・グループ」に刷新し、金融よりもテクノロジーを前面に押し出す方針を表明した。水面下では当局とアント、アリババの間で綱引きが続いていたと推察できる。
2021年4月、国家市場監督管理総局が独占禁止法違反でアリババに巨額の罰金を科したのに続き、中国人民銀行、中国銀行監督管理委員会など金融規制当局はアントに要求している不当競争行為是正措置の内容を公表した。
アントは当局に従い、主に以下のような対応を行ってきた。
2021年9月:小口金融サービスを手掛ける「花唄」が、中国人民銀行が運営するデータベースに消費者信用データの提供を開始。
2021年末:消費者向け小口金融の「花唄」および「借唄」の分社化(当局から決済サービス(アリペイ)と消費者金融サービスの分離を求められたため)
ユーザー間の互助保険サービス「相互宝」終了。保険業のライセンスを保有していないことなどが理由。
2022年7月:アントの経営陣である井氏ら4人がアリババのパートナー(パートナーはアリババの経営陣を任命するなど、強い権限を持つ)から外れる。アントとアリババの経営切り離しが目的。
傘下企業は国有企業の出資受け入れる
アントと当局の関係正常化に市場からは期待が寄せられている。
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実は2022年12月30日にも、当局の姿勢の変化をうかがわせる大きな動きがあった。
重慶の金融当局が、アントの「花唄」「借唄」事業を継承するために設立された「重慶螞蟻消費金融会社」(以下アント消金)の資本金を80億元(約1600億円、1元=20円換算)から185億元(約3700億円)に増資する計画を承認したと発表した。
増資の内訳は50%の株式を持つアントが新たに52億5000万元(約1050億円)を出資し、出資比率と最大株主の座を維持するほか、杭州市人民政府が実質的な経営権を持つ杭州金投数字科技集団が18億5000万元(約370億円)を出資し、10%の株式を保有する第2株主になる。
国有会社が出資し大株主になることは、アントと当局の関係正常化を示すサインと受け止められた。そこから1週間後、今回のアントのガバナンス刷新が発表された。
1月7日には、もう一つ重要なシグナルが発せられた。
中国銀行保険監督管理委員会主席と中国人民銀党委書記を兼務する中国の金融監督トップ、郭樹清氏が中国プラットフォーマー14社の金融業務について「基本的に是正が完了した」との見解を示した。
具体的な企業名は出さなかったものの、アントのガバナンス刷新と同日に報道されたことから、凍結されていたアントのIPOが再開するとの観測が一気に強まった。
2022年12月15~16日に開かれた、翌年の経済運営方針を確認する中央経済工作会議でも、「デジタル経済の成長に力を入れ、監督管理のレベルを引き上げ、プラットフォーマーがけん引役となり雇用を創出し、国際競争を支えることをサポートする」ことが提言された。
中国は旧正月の春節(1月22日)が年度初めのため、年内にプラットフォーマーやフィンテック企業の「是正」に区切りをつけ、ゼロコロナ政策とその後の感染爆発で低迷する経済のカンフル剤としての役割を担わせようとの意図も見える。
香港証券取引所などは、上場の条件に「過去1年で実質支配株主に変更がない」ことを含めている。市場環境の悪化で、2020年時と比べると時価総額も期待できない。アントのIPOが大きく前進したとはいえ、年内の実現は難しいとの見方もある。中国の英雄だったマー氏も、相変わらず気配を消したままだ。
それでも、中国のIT業界にとっては小さくない光が灯されたのは間違いない。
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。