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今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
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英語で「生きがい」を何と言う?
こんにちは、入山章栄です。
「zen(禅)」「kawaii(かわいい)」など、日本語がそのまま英語になった例はたくさんあります。最近、それに加えて「ikigai(生きがい)」という言葉が海外で注目されているのだとか。これはどういうことでしょうか。
BIJ編集部・常盤
最近たまたま知ったのですが、いまや「ikigai(生きがい)」という言葉が、そのまま英語として通じるんだとか。先日読んだある記事によれば、きっかけはある外国人著者の『Ikigai』というタイトルの本が海外でよく読まれたことだそうです。
「生きがい」という日本語が翻訳されずにそのまま広まるということは、海外にそういった類似の概念がないということでしょうか。
おそらく常盤さんの指摘通りだと思います。この現象を経営理論で読み解くと、『世界標準の経営理論』でも紹介した、野中郁次郎先生の「知識創造理論(SECIモデル)」がこれをよく説明しています。
簡単に説明すると、われわれは言葉にしなくても、多くの「感覚」を共有しています。特に同質性が高い日本人なら「生きがい」的なものについて、いちいち説明しなくても互いになんとなく分かる。これを「暗黙知」といいます。
一方で、それは暗黙知的な感覚的なものなので、それをパキッとした言葉で説明するのはとても難しい。だからこそなんとか言葉を尽くして説明し、ときには新しい言葉を作ったりして、ピタッとはまるものはないかと探っていくのです。暗黙知の形式知化ですね。この場合なら、日本人のあいだで「生きがい」という言葉・形式知を作って、その感覚を共有したわけです。そうやってお互い共感できる形式知をつくっていくのが新しい知を生むことだ、というのが野中先生の知識創造理論の骨子の一つです。
日本語は暗黙知の宝庫
そもそも日本語は、欧米の言語と比べ、おそらくわれわれの暗黙知を表現できる語彙が豊富にそろっていると僕は思います。
なぜなら日本では基本的に歴史上ずっと一つの言語を使い続けている。もちろん海外の言葉も入ってきていますが、少なくとも1300年以上日本語を使ってきた蓄積があるので、語彙が非常に豊かです。だから日本語には、他言語にはない、独特の意味を持つ言葉が非常に多い。
例えば「粋(いき)」。「粋とは何か、外国人に説明してください」と言われても、「えっ、粋は……粋でしょ」としか言えないですよね。でもわれわれ日本人同士の間なら「粋」と聞いたら、「ああ、こういう感覚だよね」と瞬時に了解できる。
BIJ編集部・常盤
そうですね。さりげない親切を受けたりすると、「粋な対応だな」と思います。
僕と常盤さんは同じ日本人で同質性が高いから、「粋とは何か」を暗黙知で共感できているんですよ。
「しなやか」なんて言葉も、外国人に英語で伝えようとしたらちょっと説明に迷うでしょう。
BIJ編集部・常盤
「しなやか」かぁ……たしかに、「しなやか」と「やわらか」はどこがどう違うのかと聞かれると言葉に詰まります。
例えば、細い木の枝が風に揺れている。それを日本人が「しなやかだね」と言っているのを聞いて、外国人は「ああいうのを、しなやかというのか」と理解する。そこで覚えたての日本語を使ってみようと、「地震で家具がしなやかに揺れた」と言ってしまったりする。日本人には分かる微妙な違いが、外国人には分かりにくいのです。
その点で考えると、海外でベストセラーになったという『Ikigai』という本では、「生きがいとは、『必要とされる』『得意』『好き』『稼げる』の4つの要素が重なった部分のこと」と説明されているようです。今までの議論を踏まえると、申し訳ないけど、僕はこの説明はあまりピンときませんね。
(出所)「逆輸入される『ikigai(生きがい)』~ベテラン世代の充実した働き方を考える」insourceをもとに編集部作成。
BIJ編集部・常盤
実は私もです。入山先生はどこに引っかかりますか?
まず「稼げる」がちょっと違うし、「必要とされる」「得意」もちょっと違う気がします。「お金にならなくても、これが生きがい」ということはあるし、別に誰かに必要とされなくてもいいし、さらに言えば得意でなくても、本人がそう思うなら生きがいと呼んでもかまわない。
この4つの要素の中で一番近いのは「好き」だけど、それだけでは説明しきれませんね。
「なぜ死ぬのか」から「なぜ生きるのか」へ
なぜ、いま「生きがい」という言葉が海を越えて注目されているかというと、僕の考えでは、世の中が豊かで安全になったおかげで人々の平均寿命が伸びたからだと思います。
例えば中世の時代までは、人は生きていくだけで精一杯だった。だから、ほとんどの人が「生きがい」なんて考える余裕はなかった。産業革命が起きて衛生環境が改善され、医療が進歩する前の平均寿命は、せいぜい50歳くらい。乳幼児の死亡率も高かった。こういう時代では、「なぜ人はこんな簡単に死ぬのか」「死んだらどうなるのか」の方に人々の関心が行きますよね。
一方で、今だって戦争はなくならないし、大変な状況も多いけれど、最近は平和な先進国に暮らす健康な人であれば80歳とか90歳まで生きる時代になってきている。そうなると人は、「なぜ人は死ぬか」よりも、「なぜ人は生きるのか」「なんのために生きるのか」を考えるようになってきた、ということなのではないでしょうか。
生きるだけで精一杯だった時代は、周囲の人たちがいともたやすく死んでいくことに理不尽さを感じていたし、自分自身の死の恐怖を紛らわすために、宗教がとても重要でした。今は理不尽な世の中でも、自分は死んだら天国や極楽に行くんだ、と考えることで慰められたわけです。
ところが世の中が豊かで安全になり、人間が長生きできるようになると、「なぜ人間は死ぬのか」という疑問よりも、「どうして自分は生きなきゃいけないんだろう」という疑問のほうが切実になってくる。しかしその疑問に伝統的な宗教は十分に答えてくれないのかもしれない。
現に、いま世界中で若い世代の宗教離れが起きています。先日、イギリスでも無宗教の人の割合が3割を超えたと報じられていました。だから別の心のよりどころが必要になっている。
実は、僕はそれに応える新しいよりどころの一つが、例えばユーグレナのような社会貢献をめざす会社なのかもしれない、と考えています。この連載の第133回で、僕がユーグレナの出雲充さんに「ユーグレナって宗教ですよね」と言った話をしましたが、出雲さんには「ミドリムシでエネルギー問題や食料問題を解決したい。世界を救いたい」という、ある種の宗教的な思いがある。だから、若い人たちは出雲さんの気持ちに共感してユーグレナに入りたいと思うわけです。これはまさに生きがいを求める行為ではないでしょうか。
日本だけでなく世界中で、社会起業家や社会貢献が注目されています。それは多分、みんな生きがいを求めているから。だからこそ、この「ikigai」という言葉がピタッとはまったということなのかもしれません。
BIJ編集部・常盤
なるほど。「なぜ私たちは死ななければいけないのか」から「なぜ私たちは生きるのか」へと問いが変わった。そう考えると「ikigai」という言葉が広まったのも必然だった気がしますね。
みなさんにとっての生きがいはなんでしょうか。ときには自分にそう問いかけてみるのもいいかもしれません。
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入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。