(写真は細菌のイメージです)
AlexRaths/Getty Images
私たちの身体は、細胞一つひとつが持つ生命の設計図「ゲノム」をもとに作られています。私たちが日々生き続けられるのは、ゲノムに刻まれた無数の「遺伝子」が絶え間なく働いているからにほかなりません。
人間の複雑な生命を構築するために働いている遺伝子の数は、実に「2万個」以上存在しています。しかし実は、私たちの身体の「中」には、この100倍以上の遺伝子を持つ存在が眠っています。
それが「腸内細菌叢」(腸内マイクロバイオーム:以下、マイクロバイオーム)です。またの名を「腸内フローラ」ともいいます。
腸内細菌といえば、ヨーグルトなどの乳酸菌飲料の中にも含まれている「ビフィズス菌」や「乳酸桿菌(ラクトバチルス)」などが知られています。「腸に良さそう」という印象から、積極的に食べたり飲んだりしている人も多いかもしれません。
実はここ十数年の間に、腸内に生息している細菌たちの生態系の複雑さが解明されていくと同時に、私たちの健康やさまざまな病気の発症・予防にも影響を与えている可能性が分かってきました。
それにともない、世界ではこの分野への投資も加速しています。国内外ではベンチャー企業が登場し、マイクロバイオームに関するサービスや、マイクロバイオームを活用した治療薬の開発(マイクロバイオーム創薬)が進んでいます。
実際、2022年11月には、世界初となる「ヒトのうんち(便)」から作られた治療薬がオーストラリアで承認されました。これもマイクロバイオーム創薬の一例です。
1月のサイエンス思考では、腸内細菌がもたらす健康へのさまざまな影響と、いよいよ応用段階へと進み始めている「マイクロバイオーム創薬」の現在地について、慶應義塾大学薬学部創薬研究センターで腸内細菌の影響について研究している、金倫基(キム・ユンギ)教授に話を聞きました。
腸内細菌は「忘れられたもう一つの臓器」
慶應義塾大学創薬研究センターの金倫基教授。
撮影:三ツ村崇志
「腸内細菌は『忘れられたもう一つの臓器』と言われることもあります」
金教授は、マイクロバイオームの影響の大きさをこう表現します。
冒頭で説明した通り、人の腸内に生息している細菌たちが持つ遺伝子の数は膨大です。金教授によると、全腸内細菌の遺伝子の数を合計すると、なんと300万個にものぼるといいます。
私たち人間が2万個の遺伝子によって「ヒト」としての非常に複雑な生命活動を維持できていることを考えると、その100倍以上もの遺伝子を持つマイクロバイオームが及ぼす影響の大きさやポテンシャルは計り知れません。
遺伝子の種類が多ければ多いほど、そこから生み出されるタンパク質などの物質は多種多様になります。
「腸内細菌叢には人が持っていない多彩な遺伝子があります。そこから作られるタンパク質や代謝物などが、生理機能を変化させたり、病気の病態(症状)を軽減したり、疾患を予防したりと、私たちにとって有益な影響を及ぼしていることが次第に分かってきました」(金教授)
例えば、肥満の人とやせ型の人の間では、特定の腸内細菌の構成比が異なることが分かっています。またある感染性腸炎(後述)は、マイクロバイオームのバランスが崩れることで発症することが知られており、腸内細菌のバランスを調整することで治療が可能になりつつあります。
「腸内」細菌といっても、その影響範囲は消化管だけにとどまりません。
マイクロバイオームは、宿主の免疫機能にも影響を与えていると考えられています。がんの治療薬の一種として知られている「免疫チェックポイント阻害剤」の治療効果が、マイクロバイオームの乱れや、特定の腸内細菌の有無によって変わりうることが報告されています。
研究途上ではあるものの、免疫チェックポイント阻害剤の効果が出にくい人に対して、腸内細菌を整えることで治療効果を最大化するような治療薬の開発なども進められています。
腸内細菌が「自閉症」や「うつ病」にも関係している?
脳と腸は互いに影響している。
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また、近年ではマイクロバイオームと「脳」の関係にも注目が集まっています。
例えば、自閉症スペクトラム症候群の患者のマイクロバイオームのバランスが、健康な人と異なっているとの研究結果が報告されています。マイクロバイオームのバランスを整えることで、自閉症を治療できる可能性についても研究が進められています。実際、マウスを対象にした研究では、健康なマウスの腸内細菌の中から、自閉症の症状を緩和する可能性を持つ物質の候補が発見されています。
ほかにも、うつ病の患者ではビフィズス菌や乳酸菌の割合が少ない傾向にあることが報告されるなど、腸内細菌と精神疾患(脳の機能)との間には強い相互作用(脳腸相関)があると考えられています。その影響の大きさから、腸は「第二の脳」と呼ばれることもあります。
このように、腸内細菌は人間のほぼ全身にわたって、さまざまな影響を与えていると考えられています。だからこそ世界では、「乱れた」マイクロバイオームを整えることで、病気の治療や予防を目指した「マイクロバイオーム創薬」が進んでいるのです。
「生きた細菌」を薬にする
マイクロバイオームを乱す要因はさまざまです。
例えば、感染症の治療のために「抗菌薬」(抗生物質)を使用すると、その影響で腸内細菌のバランスが崩れてしまうことはよく知られています。
ほかにも、ストレスや年齢、食生活、飲酒や喫煙といった生活習慣。さらには、感染症にかかわらず病気の治療薬(投薬)によってバランスがかなり変わることも分かってきました。
こういった腸内細菌の乱れを改善する方法はいくつかあります。
「まず第一の候補として考えられるのは、多くの企業が開発している『生きた細菌』を患者に投与する『生菌製剤』※でしょう」(金教授)
実際に、生きた細菌をカプセルなどに閉じ込めて(製剤化して)経口投与したり、座薬のように肛門から直接投入したりする治療法(経腸製剤)が研究されています。
※単一の細菌を製剤化することもあれば、複数の細菌を混ぜた「細菌カクテル」として製剤化することもある。
私たちの腸内に存在する細菌にもいろいろな種類がある。なお、腸内は酸素濃度が薄いため、培養自体が難しい細菌もいる(写真はイメージです)。
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金教授は、生菌製剤のメリットとデメリットについて、次のように語ります。
「普通の薬は特定の作用しか与えません。一方、生菌製剤では、投入した細菌が産生する複数の代謝物が相乗的に働くことで効果が期待できます。これはメリットである一方で、どの代謝物がどう効いているのか作用メカニズムを明らかにしにくいというデメリットにもなります」(金教授)
ただ、生菌製剤が腸に到達したとしても、投与した細菌がしっかりと腸に「定着」して増殖し、腸内細菌のバランスを整えられるかどうかは分かりません。
「人によって腸内細菌の組成が異なるため、同じ生菌製剤を投与したときに定着・増殖の仕方が変わってくると考えられます。腸内細菌カクテルがちゃんと効果を発揮しているかどうかを判断できる指標(バイオマーカー)のようなものが必要になってくると思います」(金教授)
「うんち」が薬になった
マイクロバイオーム創薬を進める企業や研究機関の中には「便ドナー」を募集しているところがある。
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他人の腸内細菌叢をまるごと「移殖」する、「便微生物叢移植法」という治療法の臨床研究も進んでいます。
この方法は、その名の通り健康な人の「便」、つまり「他人のうんち」を移植することで、そこに含まれている腸内細菌を「生態系ごと移植」する手法です。
実際に治療する際には、まず健康な人から採取した便を撹拌・濾過(ろか)して腸内細菌を抽出した「腸液」を準備。この腸液を内視鏡などで患者の大腸や十二指腸へと届けます。
この治療法は、抗生物質の使用後に腸内細菌のバランスが乱れることで発症する「クロストリジオイデス・ディフィシル感染症」という感染性腸炎に対して「非常に治療効果が大きい」(金教授)といいます。
オーストラリアのバイオームバンクは、世界初となるヒト由来細菌叢の移植用医薬品を開発。2022年11月に承認された。
撮影:三ツ村崇志
実際、2022年11月には、オーストラリアのバイオームバンク(BiomeBank)という企業が開発した健康な人の「糞便サンプル」が、世界で初めてヒト由来の細菌叢の移植用医薬品として、クロストリジオイデス・ディフィシル感染症を対象とした治療薬としてオーストラリアの規制当局に承認されました。同年11月末には、スイスの製薬企業であるフェリング・ファーマ(Ferring Pharmaceuticals)が開発した同様の医薬品も、再発性のクロストリジオイデス・ディフィシル感染症に対する予防薬としてFDA(アメリカ食品医薬品局)に承認されました。
日本でも、順天堂大学などで「潰瘍性大腸炎」という指定難病の患者に対して、便微生物叢移植法の臨床研究が進められています。
ただ、人の便に含まれているマイクロバイオームを「そのまま移植」する治療法には、その手法ゆえの課題もあります。
「他人の悪い微生物が含まれている可能性もあるので、安全性という面では少し不安もある治療法です。ですので、感染症を抑える特定の機能を持つ腸内細菌だけを絞り込んで、それを投与するような研究も進んでいます」(金教授)
アメリカのベダンタ・バイオサイエンシズ(Vedanta Biosciences)では、 金教授も発明者として開発に携わったクロストリジオイデス・ディフィシル感染症に対する防御機能を持つ特定のグループに属する8種類の生きた腸内細菌カクテル製剤を開発。2021年に第二相の臨床試験を終えています。2023年には、最終段階である第三相の臨床試験を実施する予定です。
「腸内細菌で治療」のフレーズには要注意
ヨーグルトの中には「特定保健用食品(トクホ)」に該当する食品もある。ただ、それでも表示できる「効果」は「腸内細菌のバランスを整えて、お腹の調子を良好に保ちます」という文言だけ。腸内細菌の生態系に介入して、より具体的な病気や健康上のリスクを解決することはそう簡単ではないようだ。
撮影:三ツ村崇志
このように、マイクロバイオームに介入することで病気を治療しようという臨床研究は、実際に実を結びつつあります。
ただ、注意しなければならないこともあります。
クロストリジオイデス・ディフィシル感染症など消化器系の病気を中心に、腸内細菌を整えることで治療効果が得られる可能性が期待されているものの、実際に治療効果が「確認」されているものはまだまだ限られているという点です。
民間企業の間では、腸内細菌叢や、女性の膣の細菌叢(膣フローラ)の組成を調査するようなサービスも出始めています。その中には、サプリメントなどのようなもので腸内細菌に「介入」しようとしているサービスも存在しています。
しかし前述したとおり、腸内細菌叢はもちろん、膣フローラについても、身体にさまざまな影響を与えている可能性はある一方で、実際に細菌叢の組成に介入する手法やその妥当性については、まだまだ知見が不足しているのが現状です。
特定の疾患や健康上の課題に対するアプローチとして、「何らかの効果がある」と思わせぶりなサービスや商品に対しては、注意深く接する必要があるといえます。
腸内細菌の世界の広がりに対する理解が加速してきたのは、2000年代に入り、あらゆる生物の遺伝情報を調べられるようになってきたことが大きく影響しています。
そう考えると、マイクロバイオームの研究はまだまだ始まったばかり。まさに腸内細菌は、人体の「フロンティア」とも言えるのです。
参考文献:「特集 病を腸から攻略する『マイクロバイオーム創薬』」『実験医学』2022年6月号。