実証実験で使われているAIスーツケース。市販のスーツケースを改造して、カメラはもちろん、人工衛星からの電波をキャッチするアンテナやLiDARといったセンサーも搭載されている。内部には地図情報や音声解説情報をもつコンピューターも搭載されている。
撮影:三ツ村崇志
スマートフォンに目的地をセットした後、持ち手を握るとスーツケースは大きな車輪をくるくると動かしながら自律的に移動し始めた。
移動の途中で、周囲にある建物について、音声で説明もしてくれる。
東京都・お台場にある日本科学未来館(以下、未来館)らが開発している、視覚障害者向け自律型誘導ロボット「AIスーツケース」だ。
「目をつむってみてください」
開発に携わっている未来館副館長の高木啓伸さんに促されて目をつむってみると、「暗闇の世界を歩く」という慣れない環境の中でも、歩行をリードしてくれるスーツケースのありがたさを感じることができた。
しばらく進むと、突如スーツケースが停止。まぶたを開けると、高木さんがスーツケースの前に立っていた。
「目の前に人がいたり、障害物があったりすると、こうやって止まってくれるんです」(高木さん)
未来館では、1月28日から2月6日にかけて、AIスーツケース初となる「屋外」での実証実験を進めている。
視覚障がい者の「移動」に彩りを
実証実験に参加した山形敏行さん。実証中には予想外のトラブルもあったが、「そういうデータを取るための実証試験ですからね」と笑っていた。
撮影:三ツ村崇志
実証実験に参加した山形敏行さん(70)は、「今日は、いい体験をさせてもらいました。まだ開発に時間はかかるかもしれませんが、期待したい」と笑う。山形さんは、17歳のころに網膜剥離で失明し、全盲となった。
「外出の時には、いつもガイドヘルパーを利用しています。ただ、予約しなければならないので、急にどこかに行きたくなっても出かけられない。我々にとって、移動が一番のネックなんです。AIスーツケースのような技術によって、気軽に外出ができるようになってくれることを、視覚障がい者はみんな期待していると思います」(山形さん)
日本科学未来館・副館長の高木啓伸さん。
撮影:三ツ村崇志
山形さんが指摘するように、視覚障がい者の移動の自由度は低い。未来館副館長の高木さんらが、AIスーツケースを開発するのも、その課題意識を共有しているからだ。
「視覚障がい者の情報環境は、Webブラウザの音声読み上げなどの技術によって、2010年頃までにある程度改善されてきました。ただ、もう一つの困難である移動の問題がまだ解決できてない」
サイバーワールドではなく、実世界をアクセシブルにするような研究開発をしたい──。
2010年代半ば、そう考えた高木さんと、当時から共に研究していた浅川智恵子館長(当時はIBMに所属)は、スマートフォンを使ったナビゲーションシステムを開発していた。
ただ、開発の中で「限界」を感じたという。
「なかなか『街を楽しむ』というところを実現できなかったんです。
スマートフォンのナビゲーションでは、人の多さや、障害物の有無などに意識を張り詰めながら歩かなければいけない。もっと気楽に、他のことにも気を向けながら歩けるソリューションを作れないかということで、ナビゲーションロボットの議論が出てきました」(高木さん)
そこで自身も全盲の当事者である浅川館長から提案があったのが「スーツケース型」のロボットだったという。
浅川館長は、アメリカ・カーネギーメロン大学の客員教授も兼任しており、度々日本とアメリカを行き来していた。
「スーツケースを持っていると、前に障害物があった時も先にスーツケースがぶつかるので非常に安心感があると。『こんなに安心感があるなら、もう連れていってくれればいいじゃないか』と、自然な発想でした。また、街中でスーツケースを持っていても自然ですよね。街に溶け込んであるけるということも魅力的なところです」(高木さん)
施設情報などをもとに音声で周辺環境を伝える仕様にしているのも、「街を楽しんでもらいたい」という思いからだ。
「例えばセールをしているお店の看板を見つけて教えてほしいとか、行列ができているラーメン屋さんを教えてほしいとか、色々リクエストがあるんです。街を楽しむって、多分そういうことなんですよね」(高木さん)
AIスーツケースで道案内。実用化への壁
屋外でも走行できるように、車輪は大型のものを採用。モーターで移動する。
撮影:三ツ村崇志
AIスーツケースは、もともと浅川館長が所属していたカーネギーメロン大学とIBMを中心に開発を進めていた。その後、2019年に実用化を目指して、民間企業や大学らとともに次世代移動支援技術開発コンソーシアム(通称:AIスーツケース・コンソーシアム)を設立し、研究を加速させている。
今回実証試験で使用されているAIスーツケースには、人工衛星から位置情報を得るアンテナに、自動運転などに利用される空間認識に長けたセンサー(LiDAR)。加えて、周囲の環境を観測するカメラが搭載されている。
室内であれば建物の空間情報、屋外であれ地図情報や(お店や階段などの)施設情報をベースに、各種センサーによって得られるリアルタイムデータと組み合わせることで、AIスーツケースは自らの位置を把握して進むルートを決定する。
「カーナビのルートマップに近いイメージです。それに加えて、例えば視覚障がい者向けに『階段がなくて、エレベーターを使って移動するルート』などを提示してくれます」(高木さん)
人がたくさんいて道が通れなかったり、障害物があったりした場合は一度停止し、目的地までの別ルートを提示することもできる。
ただ、屋内と屋外では、技術的な難しさに違いもある。
屋内では、事前にインプットしてある建物の空間情報とLiDARでスキャンした空間情報を照らし合わせることで自分の位置を認識する。一方、屋外では人工衛星による測位が中心となり、ビルの陰などに入ることで影響を受けやすくなる。
また現実的な問題として、例えば歩道と車道の間のちょっとした段差や、路面の小さな出っ張りなどがスーツケースの移動を妨げることもある。実社会に適応するには、こういった細かなトラブルを想定した上で実用可能なものを完成させなければならない。
そのためには、今回実施しているような実証実験により、実社会で運用した場合のデータを積み重ねていく必要があると高木さんは言う。
実際、2020年には、三井不動産が管理・運営する商業施設「コレド室町」の施設内で、2022年には、北海道・新千歳空港内で実証実験を実現し、貴重なデータが得られたという。
ただ、社会に溶け込んだツールとして開発を加速させていく上で、実証に協力してくれる施設がなかなか見つからないことが悩みのタネだとも。
「AIスーツケースの実験をできるのは、ものすごく限られた施設だけなんです。分類としては、車椅子と同じ歩行補助車なんですが、なかなか実験の許可をいただけない。
社会実装するには、実証の場が非常に重要です。日本で新しいディスラプティブな(大きな変化をもたらす)技術を出したり、イノベーションを起こしたりしていくには、こういう実証実験を積極的に進めていくコンセンサスや文化を作っていく必要があると思っています」(高木さん)