サントリーの山崎蒸留所と創業者・鳥井信治郎。
吉川慧、サントリーウイスキー100周年会見資料
酒類大手サントリーの創業者・鳥井信治郎が、大阪府と京都府の府境にある山崎の地でウイスキーづくりを始めたのは、今から100年前の1923年のことでした。節目となる今年、サントリーは「これからの100年」に向けた取り組みとして100億円規模の設備投資に踏み切ります。
サントリーのウイスキーといえば、蒸溜所の名を冠した「山崎」「白州」をはじめ「角瓶」「トリス」「オールド」「ローヤル」「響」など、さまざまな価格帯でブランドを展開。定番のストレートやロックといった飲み方に加え、近年は炭酸水で割ったハイボールが定着。ウイスキーを楽しむユーザー層が広がったと言われています。
ただ、今日のようにウイスキーが広く愛されるまでには厳しい時代もありました。大正時代に発売した国産ウイスキーは不評で売れず、昭和末期〜平成期にかけては25年間にもわたって右肩下がりの時代を経験しました。
2月1日に東京・港区のサントリーホール内で開かれた記者会見では、サントリーの鳥井信宏社長らがサントリー幹部が登壇。100年の歩みをふり返りつつ、今年計画するウイスキー事業の方針について明かしました。
サントリーウイスキーの「これまで」と「これから」を、鳥井社長やサントリー幹部の言葉とともに俯瞰します。
「やってみなはれ」精神で国産ウイスキーに挑戦、山崎蒸留所が誕生
若き日の鳥井信治郎、鳥井商店、赤玉ポートワインと広告。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
鳥井社長によると、サントリーのウイスキーづくりは創業者・鳥井信治郎がこだわった「日本で本格・本物のウイスキーをつくりたい」という夢から始まりました。
1899年、信治郎は20歳の若さでサントリーの前身となった鳥井商店を創業。信治郎は鳥井社長の曽祖父にあたる人物です。やがて鳥井商店は「寿屋洋酒店」(サントリーの前身)に名を改めます。
1907年に甘口のぶどう酒「赤玉ポートワイン(現:赤玉スイートワイン)」を発売すると、これがヒット。信治郎は事業を拡大し、国産ウイスキーの製造に挑みます。こうして「やってみなはれ」精神で計画されたのが、日本初のモルトウイスキー工場「山崎蒸溜所」でした。
「日本で“本格・本物”のウイスキーをつくりたい」という 強い意志のもと、1923年に 「山崎蒸溜所」の建設に着手した。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
「信治郎は日本の自然、日本人の技が溶け込んだウイスキーをつくりたいという志を掲げました。しかし、ウイスキーは瓶詰めするまでにある程度の熟成が必要。多額の資金も必要でした。そのため周囲は猛反対したのですが、それを押し切って1923年に名水の地・山崎で山崎蒸留所の整備・着手。ウイスキーづくりを始めました」(鳥井社長)
1923年10月1日、山崎蒸留所が着工。信治郎は本格・本物の国産ウイスキーの製造に乗り出します(※編注:初代工場長には本場スコットランドでウイスキー作りを学んだ竹鶴政孝を招きました)。
山崎といえば、「本能寺の変」を起こした明智光秀を豊臣秀吉が討ち破った地(山崎の戦い、1582年)として知られますが、千利休が設えたとされる茶室(国宝「待庵」)が残るなど、古くから名水の里としても知られている土地です。良い水はウイスキーづくりに欠かせません。
山崎にある妙喜庵。ここに国宝「待庵」がある。
撮影:吉川慧
また、桂川・宇治川・木津川の合流点と天王山の間に位置する湿潤な低地でもあり、ウイスキーの熟成に適した環境とも言われます。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
失敗に終わった国産ウイスキー「白札」
1929年に本格国産ウイスキー「白札」を発売。しかし、当時の日本人の味覚には合わず、受け入れられなかった。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
山崎蒸留所の着工から6年後、1929年に国産のサントリーウイスキー「白札」を発売します。キャッチコピーは「醒めよ人!舶来妄信の時代は去れり」。本場のスコッチウイスキーと同様の製造方法で生み出されたものでしたが、これは失敗に終わります。
「本格的なスコッチの味わいを目指した『白札』は“こげ臭い”、あるいは“煙臭い”などの悪評が言われ、当時の味覚にはなかなか合わず、残念ながら市場で受け入れられない結果に終わりました」(鳥井社長)
味わいを深める上で欠かせない熟成期間が足りず、ブレンドも思うようにできず、スコッチウイスキー特有のフレーバーも当時は不評で売れませんでした。サントリーウイスキーは我慢の時代が続きます。(※竹鶴は1934年に寿屋を退社。のちに「ニッカウイスキー」を発売します)。
サントリーウイスキー初ヒット商品は「角瓶」だった。
日本人の味覚にあう香味を追求し、1937年に「角瓶」を発売。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
信治郎が目指した夢は、1937年に一つの形となります。「信治郎が日本人の繊細な味覚を追求して生み出したブレンド」(鳥井社長)を実現した「サントリーウイスキー12年」。これこそ、今も「角瓶」の名前で親しまれているウイスキーです。
角瓶のヒットは、サントリーウイスキーの評判を大いに高めました。すでに山崎蒸留所の建設着手から14年の月日が経過。「白札」の失敗と「角瓶」の成功は、おいしいウイスキーには熟成とブレンドがいかに大事なのかを示唆するものと言えそうです。
一方、当時の世の中に目を向けると二・二六事件(1936年)や日中戦争の勃発(1937年)など、日本社会が大きなターニングポイントを迎えた時代でした。次第に戦時色が濃くなり、1941年12月には太平洋戦争が始まります。
当時の経営状況について、サントリーはこう紹介しています。
「戦時下の経営は厳しいものがあった。『赤玉』をはじめとした寿屋の主力工場、大阪工場は海軍の指定を受けて航空燃料を製造する。負担は重く、経営は苦しくなったが、これが戦後に生きる。
はじめにイギリスに学んだ日本海軍はウイスキーを愛した。軍納品として『イカリ印』の名の特製ウイスキーを発注される。入手が困難となりつつあった原料の大麦の便宜を海軍が図ってくれるようになる。そのため山崎蒸溜所は戦時下でも細々ながら稼働できた。
戦争末期は原料の大麦とモルト原酒を守ることに懸命となる。山崎の谷に防空壕を掘り、大麦を運び入れ、貯蔵樽を隅に隠し、竹や草木でおおった。やがて終戦。大阪本社と主力の大阪工場は焼失。だが山崎蒸溜所だけは無傷だった」
戦後日本に美味いウイスキーを…「トリス」
1946年4月に発売された「トリス」。
撮影:吉川慧
終戦から間もない1946年4月に発売されたのがサントリウイスキー「トリス」です。
当時は物資不足から、闇市で粗悪なアルコール類が出回っていた時代。低価格でも良質な酒を提供したいという思いから生まれたウイスキーは、斬新な広告もあって戦後復興期の日本で人気を得ました。
1960代にはサントリーのウイスキーを取り扱う「トリスバー」が全国に普及。イラストはトリスのキャラクター「アンクルトリス」。寿屋の社員だったイラストレーターの柳原良平が描いた。
撮影:吉川慧
寿屋の宣伝部には、後の芥川賞作家・開高健や直木賞作家・山口瞳らが所属。トリスの「人間らしくやりたいナ」「トリスを飲んでハワイへ行こう」といった名キャッチコピーが生まれました。
高度経済成長期、団塊世代と歩んだウイスキー「オールド」
「ダルマ」の愛称で親しまれた「オールド」。
サントリー提供
1950年には酒類の配給統制・価格統制が撤廃され、戦後の統制経済から自由経済の時代へ。この年には太平洋戦争の開戦前夜に完成していた「オールド」を発売。戦争で発売が延期され、戦禍を免れたオールドは、およそ10年の歳月を経て日の目を見ることになりました。
ボトルの形状から“ダルマ”の愛称で呼ばれた「オールド」は、団塊世代のファンに愛された看板商品です。
1970年代に入ると、サントリーでは「二本箸作戦」と呼ばれるキャンペーンを展開。特に寿司店や天ぷら店、割烹料理店など、好んで日本酒が飲まれていた和食店での需要や家飲み向けの販売拡大を図りました。
サントリーによると「オールド」の販売数は1974年に500万ケース、1978年に1000万ケース、1980年には1240万ケースに到達しました。
販売数だけでなく「オールド」はサントリーの広告・宣伝のインパクトを語る上でも足跡を残しました。
小林亜星が作詞・作曲したCM曲「夜がくる」でも知られ、CMには開高健、大原麗子、リー・ヴァン・クリーフなど著名作家や有名俳優が登場。90年代のCMには長塚京三さんや田中裕子さんも出演。名コピー「恋は、遠い日の花火ではない。」が生まれました。
生産能力の拡大も図られ、1972年にはサングレイン知多蒸留所を設立。1973年には白州蒸留所(山梨・白州市)が竣工し、山崎とは違った原酒づくりを目指しました。
時代の変化…25年間の「ダウントレンド」に突入
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
ところが、1980年代に入るとウイスキーの需要に陰りが見えはじめます。
サントリーの森本昌紀常務(スピリッツカンパニー社長)は、時代とともに価値観が多様化。ワイン、焼酎、チューハイなどお酒の好みも多種多様になったことが背景にあったと分析します。
「1983年をピークにウイスキーは25年にわたる非常に長い、厳しいダウントレンドを経験します。時代の変化に伴って、味の多様化、嗜好の多様化というものは(低迷した)背景の一つに間違いなくあったと思います」
「全員が同じものを楽しむというよりは、それぞれ皆さんがお好きなものをという時代。そういった嗜好の変化というのがあったのだろうと思います」(森本常務)
サントリーによると、2007年には販売量ベースでピーク時の6分の1まで落ち込みました。
国産ウイスキー“冬の時代”に若手社員の一人だった森本常務は、当時の社内の空気について、こう語ります。
「実は当時、私も若いメンバーとしてずっと(ウイスキーの)仕事をやっておりました。確かに、すごく売り上げは厳しかった。ですが、今から思うと暗い雰囲気はなく、ああしよう、こうしようと非常に自由にトライをさせていただいた」
「当時は各部署の人間が一生懸命にウイスキーを何とかしたいという思いでやっておりました。創業者の思いを少しでも……という思いがあったと思います」(森本常務)
起死回生「ハイボール」で復活、ウイスキーが再び人気に。
サントリー提供
25年間の需要低迷を経て、2009年以降にウイスキー市場に復活の兆しが表れます。サントリーでは2008年に「ハイボール復活プロジェクト」を仕掛けて、これが功を奏しました。
アルコール度数を低く抑えられ、食中酒として飲めるハイボール。特に「角瓶」を使った「角ハイボール(角ハイ)」の販売量も多く、値段も手ごろなことも好条件でした。
折しも若者のビール離れが顕在化しつつあった時代。新たに開発した「角ジョッキ」でハイボールを飲むスタイルが若い世代に受け入れられていきました。CMソング「ウイスキーが、お好きでしょ」も話題に。
創成期のサントリーを救った角瓶は、ウイスキーの低迷に苦しんだサントリーの復活も支えたと言えそうです。
ハイボール人気でハイボール缶の市場も好調に推移。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
さらに、ハイボール復活プロジェクトにはウイスキー低迷期の反省点が活かされたと森本常務は語ります。
それは、ユーザーが外食店でウイスキーを飲む際の「飲用時品質」。つまり、外食店で顧客の口に入ったときに、きちんと美味しいウイスキーが提供されているかという問題でした。
そこで、飲食店にむけ美味しいハイボールの作り方を伝える活動にも力を入れたと森本常務は回顧します。
「(過去には)美味しい水割りの作り方を全国で一生懸命みんなで回ったりしましたが、角ハイも同様です。(飲食店の)アルバイトさんでも、美味しい状態でハイボールを(ユーザーに)出せることに非常にこだわったことが大きかった。専用の樽の開発もしました」(森本常務)
ビールのようにジョッキで乾杯できることが「角ジョッキ」の魅力。
サントリー提供
努力が実り、ハイボールがブームに。ウイスキーの価値はユーザーにも見直されるようになりました。
ところが、2010年代に入るとウイスキーの原酒が足りなくなるほどの人気に。一部のブランドでは、ネットオークションで高値で取引される事例も出てきました。
サントリーの歴史が示すように、良いウイスキーには熟成とブレンドが必要です。一朝一夕に出荷量を増やすことはできず、一部ブランドでは生産・出荷調整をせざるを得ない状況に。
作るのに時間がかかり、急な増産はできない。ウイスキーの宿命とも言えるでしょう。
「山崎」「白州」の100周年記念ボトル。
撮影:吉川慧
現在でも「山崎」「白州」などでは品薄状態が続きます。これまでにも販売休止になったり、小売店で希望小売価格を超えた値段で販売される例もありました。
こうした状況について、鳥井社長は「消費者の皆様にご迷惑おかけして本当に大変申し訳なく思っております」と陳謝。一方で、ウイスキーが長期間の熟成やブレンドなど完成までに時間を要するお酒であることに理解を求めました。
「供給を絞ったり、減らしてはいないですが、どうしても供給量の増加は限定的なものになります。かつ品質向上もずっと続けてきたので、(今後も)需要が増加する可能性がございます。お客様に心苦しいですが手に入らないことが続くと思う」
「熟成中のウイスキーというのは毎年増えていってる状況ですので、熟成が進めばもう少し供給が増えるとご理解いただければ」(鳥井社長)
“次の100年”を見据えて「100億円」規模の設備投資
サントリーの山崎蒸留所(2023年2月4日)
撮影:吉川慧
会見の中では、ウイスキー事業100周年を迎えた2022年から2023年にかけて「品質の向上と蒸留所の魅力を伝えるため」に山崎・白州の両蒸溜所で100億規模の改修を実施すると発表がありました。
山崎蒸留所では、50年以上前からある小規模な蒸留設備(パイロットディスティラリー)を改修。クリーンエネルギーを意識した電気式の蒸留釜も導入します。
白州蒸溜所では、原料の一つである酵母を自社で製造する「酵母培養プロセス」を導入。
さらに山崎・白州の両蒸溜所では、原料の麦芽を作る際の伝統的な製法「フロアモルティング」を復活。工場見学の施設も充実を図る計画です。
フロアモルティングはウイスキーの原料の一つ、大麦を発芽させて麦芽をつくる伝統的な製法。
サントリー提供
歴史を振り返れば、ウイスキー人気の勢いが失われ始めていた1980年代にも、サントリーは山崎・白州の両蒸留所の改修に踏み切っていました。
この改修後に仕込んだ原酒たちは、10年以上の樽熟成を経て世界的なコンペティション「ISC」で金賞を受賞しています(2003年金賞:山崎12年、2006年金賞:白州18年)。
鳥井社長も、過去のあゆみを踏まえて「(品質向上に向けた投資は)いまに始まったことではなく創業以来、脈々と受け継がれてきた歴史」と語ります。
ウイスキーはサントリーにとって創業者の“執念”とも言える熱意から始まった祖業の一つです。ウイスキーづくりの総責任者「マスターブレンダー」は創業家が代々務め、もの作りの哲学を受け継いできました。当代は3代目で、鳥井信吾氏(サントリーホールディングス副会長)が務めています。
出典:サントリーウイスキー100周年会見資料
100周年を記念し、山崎と白州の「プレミアムハイボール缶」を数量限定で発売することも発表されました。希望小売価格は350ml缶で1本600円と強気な価格設定ですが、使用するのはモルト原酒と水のみ。
鳥井社長は「(プレミアムハイボール缶を)出すかどうか、社内でかなり議論をした」と振り返ります。
「ボトルの供給の制約の邪魔をしない。ということで極めて限定的にハイボール缶をつくることになりました」
「これを高いととるのか安いと取るのかは非常に微妙なところの値段設定だと思っております」
「ご繁盛されてる居酒屋さんで非常に良い品質のいいハイボールを飲むと、450円〜550円ほどすると思う。『白州』という中身を考えると、レギュラー350ミリ缶で600円というのは非常にリーズナブルだと思っております」(鳥井社長)
サントリーの鳥井信宏社長。(2023年2月1日)
撮影:吉川慧
さらに鳥井社長は、業界団体が策定した国産ウイスキー「ジャパニーズ・ウイスキー」の自主基準が本格的に始まることも意識し、これからの100年に向けて意気込みを語ります。
「世界でジャパニーズ・ウイスキーが改めて色々な形で注目されたり、評価されたり、逆に品質が悪いと淘汰されるでしょう。品質向上と需要創造を次の100年も愚直にやっていくしかない」
「この50年を振り返っても、(ウイスキーが)ものすごく売れなかったときがある。次の30年、50年でも追い風、向かい風があると思います。けれども、品質向上を決して忘れずお客様に受け入れられることを信じてやっていきたい」(鳥井社長)
「ハイボールを(日本の)ソウルドリンクにしたい」と語る森本常務も、言葉に力を込めます。
「ウイスキーの成長の灯を絶対に消さないことを胸にしっかりと持ち、仕事に取り組んでまいりたい」(森本常務)
2023年、サントリーウイスキーの次の100年が始まります。