東京・京橋の味の素本社ビル。
撮影:Business Insider Japan
専門知識はあるけれども、根暗でコミュニケーションができず、社会常識も知らない。大学のポスト獲得競争は苛烈を極め、だからといって民間企業に就職しようにも、頭が固くて使えない——。
「博士」について調べると、そんなネガティブな偏見ばかりが溢れてくる。
「そういう『偏見』が博士人材の活用を妨げている要因なのではないかと思っています。確かにそういう人は一定数いるかもしれませんが、そういう人だけではない」
食品大手・味の素でR&B(Research and Business)企画部に所属する立上陽平さん(33)はそう語る。
立上さんは、京都大学大学院農学研究科で「根粒菌」と呼ばれる土壌に窒素を固定する役割を担う微生物の研究に携わり「博士号」を取得。その後、味の素への就職した。
日本ではこの春から、企業への博士人材の活用促進を目的とした税制優遇策が始まろうとしている。アカデミアの世界を離れた博士たちは、企業でどう生きるのか。不定期連載で追いかける。
アメリカ留学やめて味の素へ。決め手になったのは……
味の素でR&B企画部に所属する立上陽平さん。博士に対するネガティブな偏見が、能力のある専門人材の活用を遅らせる要因になっているのではないかと指摘する。
撮影:三ツ村崇志
立上さんは、博士課程後期(以下、博士課程)に進学を決めた当時のことを、「キャリアプランなんてものは存在しなかった」と笑いながら話す。ただ、研究を続ける中で、国内の大学に残る選択肢は考えないようになったという。
「海外でポスドク(任期付き研究員)をするか企業に就職するかの2択で考えていました。最終的には研究そのものよりも、社会実装をやりたいと思っていたんです。そう考えると、1度大学の外について見識を持つ必要を感じていました」(立上さん)
立上さんは、博士課程3年目の春に味の素からの内々定を得ると、同年の夏には日本学術振興会の海外特別研究員(海外PD)にも内定。支援を得ながらアメリカ・エネルギー省(DOE)にある生物系の研究室でポスドクとして働く選択肢を得た。
味の素へ就職するか、渡米するか。立上さんは当時、「かなり悩んだ」というが、最終的に味の素への就職を選んだ決め手の一つは、非常に現実的な問題だった。
海外PDとして所属する予定だったDOEの研究室があったのは、アメリカの西海岸。生活コストが非常に高い。一方、海外PDによる支援金は、研究費も含めて年間で500万円ほどだった(当時)。
「正直、生活できないと思いました」(立上さん)
※編集部注:所属予定の研究室の主催者と給与交渉をするケースもある。立上さんは交渉前に最終判断したという。
加えて、学振による支援は2年。
「その間に次のポジションを見据えて研究しなければなりません。ということは、後半に転職活動をするとして、1年である程度成果を出さないといけない。研究計画は提出していたものの、そこまで自信を持ってイメージできませんでした」(立上さん)
結局、立上さんはよりビジネスの現場に近く、「発酵」という観点から自身が研究していた微生物の知見も生かせる味の素への就職を決めた。
企業内研究者から「社内起業家」へ
食品大手の味の素は、研究開発人材を採用している。
撮影:三ツ村崇志
大学に残った場合の博士のキャリアといえば、博士号を取得後にまず任期付きの研究員(いわゆるポスドク)から始まり、助教や講師、そして准教授、教授へとステップアップしていくイメージが一般的だ。ただ、任期のない(無期雇用の)教授や准教授といったポストは狭き門だ。最近では大学発ベンチャーを起業するといった選択肢も増えてきてはいるものの、そこまでキャリア選択に幅があるわけではない。
一方、立上さんは「企業では、(雇用の)安定性が大きい」とした上で、「研究者の役割も色々あると思います」と語る。
実際、立上さんは、入社後4年は大学時代の専門に近い微生物を使った発酵製法の開発や、菌の育種などの研究に携わっていたというが、2020年に味の素の社内起業プログラム「A-STARTERS」に挑戦。第一期のプログラムを勝ち抜き、現在は「社内起業家(イントレプレナー)」として事業開発を進めている。
「研究開発をベースに、そこから最後の顧客に届くところまでの事業開発を全て自分でやってみたいという思いがありました。今は研究もやりますし、事業計画も書いています」(立上さん)
一般的な研究者のイメージとは異なり、自分で手を動かして実験をしたり、論文を書いて成果を公表したり、いわゆる「研究」の時間が少なくなることに拒否感はなかったのか。
「私の場合は、研究は社会貢献の手段でしかないと思っています。課題解決に結びつけたいという思いが一番なので。今は、いろんなことを学んで、研究者としてだけではなく、自分の未来の可能性を広げるために、会社の中でそういうこと(新規事業)をさせてもらっています」(立上さん)
博士は「新しい価値」を生み出すプロ人材
2021年にノーベル物理学賞を受賞した米プリンストン大学の眞鍋淑郎博士。「好奇心こそ研究活動の原動力」と話す。一方、企業内における研究では、好奇心だけを原動力にすることは難しい。
REUTERS/Mike Segar
企業とアカデミアでは、そもそも存在する目的が違うため、研究に対する方針は当然異なる。
「(企業での研究は)会社の方向性とその研究目的が合致しています。また、近い将来にお金を生み出せるかどうかが必要な要件となります。ほとんどの場合、研究の期間とゴールが絶対に決まっています」(立上さん)
一方、アカデミアでの研究は
「研究のゴール設定の自由度が高く、自分で決められる側面も強い。そういう意味で、イノベーションの源が生まれるのはアカデミアであることが多いと思っています。ただ、企業での研究とアカデミアでの研究に上下はなく、向いている方向が違うだけです」(立上さん)
とも立上さんは話す。
博士人材が企業内で活躍するには、こういった企業とアカデミアの違いを認識した上で、企業の評価軸に沿った「はまるポジション」を見つけることが重要だと言えるだろう。
一般的にアカデミアの研究者の間では、発表した論文の数や質、研究資金の調達具合などが重要視される。一方、企業の研究者は、
「例えば『すごく情報を集めてくるのがうまい』『研究に対してしっかりした考え方を持っている』『交渉力が高い』など、いろいろな判断軸があります。そしてそれに基づいて企業内のポストもあるように感じます。研究力×自分の得意なところを結び付けていく作業が必要となりますが、自分にはまるポストもあるので、その見極めが面白い」
と、立上さんは語る。
ではその中で、「博士」の価値はどこで示すことができるのか。
味の素では、意識的に博士を採用する採用方針を取っているわけではないという。立上さんも、実際に業務を進めていく上で「修士卒だから」「博士卒だから」という線引があるわけでもないと話す。
ただ、立上さんは博士の価値を次のように話す。
「後輩を指導したり、研究チームをまとめたりしながら論文を書く。企業と共同研究を回すようなこともある。博士課程では、そういった経験を積むことで『どうすれば研究できるか』という研究のバリューチェンーンを理解することができます。それが非常に大きい」(立上さん)
Shutterstock/Lee Charlie
研究とは、なにも巨大な装置を動かして実験をしたり、試験管で化学薬品を混ぜて反応を起こしたりするだけではない。そもそも「何を研究するのか?」という「テーマ作り」から、それを検証するための「プロセス構築」といった全体の流れが重要だ。
「博士」とは、こういった新しい価値を生むための研究の全体像を組み立てる力や、そのバリューチェーンを構成する一つ一つの要素を高水準でこなすことができるプロフェッショナル人材であることを、客観的に証明された人材なのだ。
「研究者として1人前だと見られているのだと思います。明言はされてないですが、新しい価値を生み出すことを期待されてるように感じはします」(立上さん)
国内で不遇な扱いを受けがちな博士人材。しかし、イノベーションが求められる現代において、一歩抜きん出るためには、企業にもこういった人材の価値を認識して生かす仕組みが必要なのかもしれない。
※「博士を生きる」は不定期連載です。博士の現状に対する課題感や新しいキャリアを開拓している方の情報をお持ちの方は、takashi.mitsumura@mediagene.co.jpまでご連絡ください。