「博報堂やめない連合」まで作った熱すぎる会社員。大切なのは「超自分発想」【畠山洋平2】

博報堂・畠山洋平

撮影:今村拓馬

博報堂で富山県朝日町の地域交通事業に携わる畠山洋平(43)は、今どきの大企業社員にしては珍しいほどの「愛社精神」がある。博報堂を愛し過ぎて、社員有志で「日本博報堂やめない連合」まで作ったほどである。

畠山が新卒で博報堂に入社した2003年は、1990年代半ばから始まった就職氷河期でも、大卒の就職率55.1%と最も厳しい年だった。

その超氷河期に、畠山は「働くなら日本の未来に貢献できるところ」と、当時の就職人気上位10社だけを受けると決め、いわゆる就職人気企業から5つも内定を取った。

新卒時代の畠山

新卒として博報堂に入社した直後の畠山(写真右上段)。

提供:畠山洋平

定年まで松下電器(現・パナソニック)で勤め上げた父親は、「何をやっているか分からない会社」という理由で博報堂への就職に反対したが、内定者懇親会に出席した畠山の気持ちは博報堂に傾いていく。

どうしても広告の仕事がしたかったわけではない。だが、当時の役員から「うちは多様な企業が顧客だからいろんなタイプがほしい、粒ぞろいより粒ちがいの人材を求めている」と聞くと、自分とは違う異能の人がいそうだと感じた。何より懇親会で一番ワクワクした。

「自分には特殊な才能があるわけではない。だったら、どのチームに入るかが重要。1番面白そうな人が多そうな会社に入ろうと決めました」

組合時代に企画した1500人の社員運動会

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提供:畠山洋平

畠山の「会社愛」を深化させたのが、入社10年目で経験した1年間の従業員組合の委員長の経験だった。

その時に手がけた一大イベントが社員1500人が参加する大運動会だった。

「会社への不満ばかり言っていないで、経営層ともっと話してみようよと。そもそもうちの会社全体を知るには、みんなが同じ体験を共有する場が必要だと思って、運動会を企画したんです」

その後、畠山は人事局に異動する。

2000年代後半になるとインターネットサービスが爆発的に広がり、広告業界にも大きな影響を及ぼしていた。ネット専業の広告会社も生まれ、これまでのビジネスモデルだけでは生き残れない、ビジネスの転換をという危機感が会社にはあった。

人事制度改革にも着手していた。

「日本企業の多くは大企業特有の考え方や縦割り組織が足を引っ張っている。我々のビジネスモデルも旧来の“広告代理店業”から抜け出せていない時に新しい人材を入れてもうまくいかない。

もともとうちは競合他社に比べると、組織の垣根は低くてフラットですが、それでも根本的に会社のあり方やビジョンを変える時に来ているのではないかと感じました」

畠山は組合と人事という2つの仕事を通じて、従業員一人ひとりの声を徹底的に聞く機会を持ちつつ、会社全体を俯瞰する視点を得られたという。その経験を活かし、新たな博報堂のビジョンを策定する仕事にも関わった。

わらしべ長者作戦で自治体行脚

2019年春、39歳で畠山は担当してきた自動車メーカーの担当部長に昇進する。

会社が脱広告会社を模索している時期に、得意先も今のまま車を製造して売るだけでは生き残れないという危機感を持っていた。

この2つの危機感に対して、畠山は一つの仮説を立てた。得意先の顧客である地方の生活者の暮らしを豊かにすれば、どこかで自動車メーカーのビジネスになるだろうと。北海道から九州までツテを頼って自治体を訪問し始めた。その数は300にも上るという。

博報堂・畠山洋平

撮影:今村拓馬

「僕はわらしべ長者作戦と言っていますが、こういうことを考えていると相手にぶつけていくと、じゃあ、この首長に会ってみればと紹介してくれ、どんどんつながっていくんです。朝日町もうちの社員が町長と知り合いだったんです」

とはいえ、当時の畠山は100人以上の部下がいる部長で、既存事業では着実に利益を出し続けなければならなかった。自治体を回るのは自分の時間の20%までと決めた。

それができたのは、自身が部長で働き方に関して裁量があったことと同時に、直属の役員が結果さえ出せば自由にさせてくれるタイプだったからだという。

大企業での新規事業がうまく実を結ばないのは、挑戦に対して会社としての覚悟が決まっていないことと、中途半端な時間軸での結果を求めるからだ。むしろ役員ら経営層の覚悟が問われているのだ。

ボーナスは減ったけれど

ノッカルでチケットを使っている様子

ノッカルのサービスを利用する人の顔を実際に見たことで、畠山の決意はさらに固まった。

撮影:今村拓馬

ノッカルあさひまちの実証実験が始まったのは2020年。畠山が朝日町の事業に注力する分、得意先の自動車メーカーに直接的に使える時間は減った。収益に貢献できていないと、ボーナスも減った。だが、畠山には後悔はなかったという。

「当然だと思っていました。新しいことをしようとすると、既存のビジネスに貢献できる時間は減るので。その状態も受け入れたのは、自分と会社と社会の未来のために、この事業をやり切ると自分が決めたからです」

畠山には忘れられない光景がある。ノッカルの実証実験をしていた時、1人の高齢者の女性から感謝された。コミュニティバスが走っていない週末にスーパーに行けるようになったと。

「おばあちゃんの笑顔を見た時に、もう実験だけで終わらせちゃいかん、と思ったんですよね。

会社の経営層に納得してもらうには2000万人の高齢者がこの問題で困っているという大きな絵を描く必要はありますが、一方で僕は本当に困っている人、n=1に向き合えなければこの問題は解決しないと思ったんです」

博報堂のビジネス規模から言えば、朝日町の事業は1桁も2桁も小さいだろう。だが、実証実験の最中に畠山が局長代理に抜擢されたことを考えると、会社が彼のチームに期待していることもわかる。

ノッカルは社内でも評価が高く、今では博報堂DYホールディングスの財務・非財務情報を取りまとめた統合報告書にも事例として真っ先に出てくる。社会課題解決のキープレイヤーになりたいという会社の方向性の重要な事例として認められているという証左だろう。

大事にしている「超自分発想」

畠山が事業を考える時に、大事にしている軸は社会への貢献とクライアントの利益と会社の成長、そして自分の成長だ。社会と顧客、会社の三方良しだけでなく、中核には自分自身の「やりたい」という気持ちがある。若手にはこの考え方を「超自分発想」として伝えている。

と話しながら、畠山は突然ノートに文字を書き出した。そこには、「やりたい」「やりたくない」という2つの言葉と、それぞれの先に「やる」「やらない」の分岐。仕事をするにはこの4つの組み合わせしかないという。

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編集部作成

畠山は新人時代に就いたトレーナーの先輩から、やりたいと言ったことをやらせてもらえてきた。任せられた分、責任が伴うことも学んだが、「1番考えたヤツが1番エライ」と先輩から言われ続けた。

就職では根強い人気のある大企業でさえ、若手社員の早期離職が増えている。なかなか若いうちに権限が与えられないなど硬直化した組織に、嫌気が差して見切りをつける若手は後を立たず、どの大企業も若手を引き止めるのに躍起になっている。

それでも、と畠山は言う。

「大企業では新しい事業に挑戦できないという声も聞きますが、本気でやりたいと言い続け、さらにこれは会社のためにもなると言っていたら、止める人いますか。

ただ言ったからには最後までやり切ることです。人生で大事なのは、自分で言って自分で決めること。そういう人が増えれば、日本の大企業も変わっていくと思います」

(敬称略、続きはこちら▼)

(第1回はこちら▼)

浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。週刊朝日編集部などを経て、1999年からAERA編集部。副編集長などを経て2014年から編集長に就任。2017年3月末で朝日新聞社を退社し、4月よりBusiness Insider Japanの統括編集長に。2020年12月末に退任し、フリーランスのジャーナリストに。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーター、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』『男性中心企業の終焉』。


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