AIブームに後押しされ、企業は高額な報酬や資金提供のオファーをぶら下げて、AI分野の希少人材を勧誘しようとしている。
Tyler Le/Insider
2023年4月7日の午後、クリストバル・エイサギルレ(Cristóbal Eyzaguirre)はInsiderのZoom取材中にマテル社の「ホットウィール」のミニカーを見せた。パッケージに「Tesla Model X(テスラ・モデルX)」の文字が刻まれている以外は、普通の子どものおもちゃのようだ。
スタンフォード大学の博士課程に在籍するエイサギルレは、AI研究をする若者を一流企業に勧誘するためのプライベートパーティーや就職説明会、招待状なしでも参加できるテスラのイベントなどで手に入れたグッズの中で、このミニカーが一番気に入っているのだと言う。
「テスラのイベントはすごく好きです。すごく手が込んでいるので」とエイサギルレ(27)は話す。
テクノロジーのターニングポイントが10年ごとにやって来て、大学生をこの分野に誘い込んでいる。ドットコム時代には、コンピューターサイエンスに興味を持つ学生が増えた。オンデマンド・エコノミーで大成功したベンチャー企業の創業者の話が広まると、起業に関連する学位が人気になった。そして、ここ数年のWeb3ブームでは、仮想通貨やブロックチェーンに関する授業に学生が集中した。
そして今、学生や新卒者たちの間ではAIがトレンドとなり、彼ら彼女らの多くが次世代の偉大なテクノロジーのディスラプター(破壊者)となる企業の初期メンバーになることを望んでいる。
Insiderのインタビューに応じた12人の大学教授、学生、新卒者、業界関係者によると、多くの企業がAI分野で競争しながら、大学のキャンパスに人材を探しに来ているという。そして、学生を獲得するために、ちょっとしたグッズや企業ロゴ入りのウォーターボトルなどを配っている。企業は、年収数十万ドル(数千万円)台の給与、業界のトップクラスの人材と働くチャンス、学界ではお金がかかりすぎて解決できないような問題に取り組むための十分なリソースを学生たちに約束しているのだ。
コーネル大学のコンピューティング&インフォメーションサイエンス学部の学部長であるカヴィタ・バラ(Kavita Bala)は、こう語る。
「彼らは21歳の若い学部生の前にたくさんのリソースと金をぶら下げて、『これはすごい』と思わせ、そのまま消えていく。そういった企業に、学生たちが一斉に採用されていくのです」
エイサギルレのような学生は、シリコンバレーの約束の地に行くために、学問の世界に背を向けるべきかを考えなければならない。
業界の誘惑
即座に使える機械学習モデルを提供するスタートアップ、ハギング・フェイス(Hugging Face)は、こういったリクルートの動向に先手を打った。
2022年初頭、同社は大学の講義シリーズを開設し、世界中のコンピュータサイエンスの学生1000人以上に向けてバーチャルデモを行った。学生たちは同社のウェブサイト上でAI技術や学習ラボのオンラインデモを見ながら、授業を続けることができる。
「生粋のハギング・フェイスの社員のような新世代のデータサイエンティストを育てたいと考えています」と、プロダクトグロース担当責任者であるジェフ・ブーディア(Jeff Boudier)は言う。
大学を卒業したばかりの人材を採用するのは、長いゲームの始まりのようなものだ。
従来は、授業の初日が採用サイクルの始まりだった。しかし競争が激化するにつれて、企業は採用活動のスタート時期を早めているようなのだ。
マサチューセッツ工科大学(MIT)の工学修士課程に在籍するニティヤ・アタルリ(Nithya Attaluri)は、秋学期が始まった頃に採用担当者から連絡を受け始めたという。数カ月後、彼女はDeepMind(ディープ・マインド、アルファベット傘下のAI企業)に就職が決まった。さらに、コーネル大学4年生の多くが、夏のインターンシップを終えてキャンパスに戻ると、春からのフルタイムのポジションをオファーをされるとバラは言う。
博士号を取るために大学にとどまっている数少ない学生たちの専門知識は、ヘッドハンターにとっては金の卵だ。
コーネル大学のコンピュータサイエンス教授であるキリアン・ワインバーガー(Kilian Weinberger)はこう語る。
「学生たちは博士課程にいる間中、リクルーターからの連絡を受け続けています。でも、ほとんどの人はその誘惑に負けることはありません」
「いくつかのスタートアップや企業は、多くのスタンフォードの博士号取得者を辞めさせようとしたり、共同創業者にしようとしています」と話すのは、自動採用専門のスタートアップ、ムーンハブ(Moonhub)の創業者で最高経営責任者のナンシー・シュー(Nancy Xu)だ。彼女は現在、ムーンハブの事業に専念するためにスタンフォード大学のAI博士課程を休学している。
こうした企業の中には、大学院生を雇いたいと思うあまり研究を続けさせながらアルバイトをさせるところもあると、コールセンター自動化を手掛けるスタートアップ、Asappのパートタイム研究員でもあるワインバーガー教授は言う。
カーネギーメロン大学のAI・イノベーション修士プログラムのディレクターであるマイケル・シャモス(Michael Shamos)は、そうしたパートタイムのオファーが基本給で35万ドル(約4700万円、1ドル=約134円換算)を超えるのを見たことがあると言う。
彼らをフルタイムの従業員として確保するためにはさらに高額を支払わなければならないこともある。カーネギーメロン大学のAI修士課程の学生であるイリヤス・バンコール・ハミード(Ilyas Bankole-Hameed)は、50万ドル(約6700万円)近くに達するフルタイムのオファーを聞いたことがあると語った。
この気の遠くなるような数字は、多くの新卒者を惹きつけるのには十分だ。2011年、AIの博士号を取得した新卒者は、ほぼ同程度の割合でテック業界と大学に就職していた。スタンフォード大学のヒューマンセンタードAI研究所が発表した「2023年AI指標レポート」によると、2021年には、AI博士号取得者のうち、テック業界に就職した人の割合が学術界で職を得た人数の約2倍になったという。
しかし、給与は大学を捨ててテック業界に行く理由の一つにすぎない。大学教授や学生らは、実際の社会で応用される研究に取り組む機会があるということが業界の最大の魅力だと話す。また、しばしば学術界の魅力を落とす要因となり得る資金についても、スタートアップの世界にはベンチャーキャピタルやアルファベット、マイクロソフト(Microsoft)など大手企業の支援により潤沢にある。
「すべてのAI企業には、博士号を持つ人と持たない人の役割があります」と、DeepMindの研究者として就職予定のMITのアタルリは言う。「これからの5年間をどう過ごしたいか」を決めるのは、学生次第だと彼女は言う。
貴重な人材のプール
AI人材に対する熾烈な戦いが起きているのは、新しい技術の進歩を後押しするというより、むしろ企業のリーダーたちが後れをとることを恐れていることが一因だ。「毎日新しい『AIに関する記事』が出ている今の世の中では特にそうだ」とカーネギーメロン大学のシャモスは言う。
「この傾向は経営幹部層の間で見られ、企業のCEOは、生成AIの登場は自社にどんな意味を持つのかと懸念し始めています。私たちはAIに後れをとっているのだろうか、もしそうだとしたらどうすればいいのか、とね」(シャモス)
機械学習の専門家と企業をつなぐ求人のマーケットプレイス「トライブAI(Tribe AI)」は、2022年12月から2023年3月にかけて、データやAIプロジェクトに関して、サポートを求める企業の数が倍増したと語る。
ベンチャー企業グレイロック(Greylock)のコアタレントパートナーであるグレン・エバンズ(Glen Evans)は、同社が出資するアーリーステージのスタートアップ企業においても、この分野の専門知識に対する需要が高まっていることを実感している。応用研究分野の学者が特に求められているのは、「大規模言語モデルに対する業界の注目が高まり、全体的な採用数が増えているため」だと、彼はメールでの取材に答える。
ただ、自社の社員に大学院卒の知識やスキルを必要とするか、それとも学部卒の知識でよしとするかなどの企業の採用ニーズは、個々の企業の技術に対するアプローチによって異なる。
AIスタートアップの領域では2種類に分かれる。JasperやCopy.aiのように、OpenAIのGPT-4のようなサードパーティの大規模言語モデルの上にアプリを開発する企業が大半だが、中にはAdeptやCharacter.AIのように、基盤となるモデルから最終的なプロダクトまですべてをフルスタックで手掛ける企業もある。
こうした非常に複雑な技術を作るには、高度な技術を持つAIの人材が必要だ。
「学位がなくても、AIを理解することは可能です。しかし、医学部に行っていない医者を信用して手術することはないでしょう」と前出のバンコール・ハミードは語る。
また、こうしたエンジニアや研究者は希少で雇うには高い報酬が必要になるものの、この人材獲得争いは競合他社には真似しにくい防衛的なアプローチだと、VCたちはInsiderに語る。
グレイロックのパートナーであるサーム・モタメディ(Saam Motamedi)は「独自のモデルを構築してトレーニングできるコンピューターサイエンティストの数は世界でもごくわずかで、数百人どころではなく数十人しかいない」と述べる。
VCであるマドローナ(Madrona)のジョン・トゥロー(Jon Turow)は、「もしあなたが銀河系ほどの深い技術を持っているなら、これまでになかったものを発明することができるでしょう」と言う。
厳しい決断
とはいえ、そういった将来の展望をもってしても、十分な人材がこの分野に流れ込んでいないのは確かだ。SASの調査によると、銀行、保険、政府、小売など9つの業界の3分の2近くの企業が、最大のスキル不足はAIと機械学習であると回答している。
一方、一部の大学では、学士号しか持っていない学生がこの急成長する環境で働けるように、カリキュラムを強化している。
2022年秋、MITはAIと意思決定に関する専攻を新設した。ハーバード大学では、メタの創業者マーク・ザッカーバーグとその妻プリシラ・チャンからの寄付をもとに、AIを研究する研究所を開設した。コーネル大学では、AIに関心のある学生向けに2つの副専攻を設けている。
スタンフォード大学でコンピューターサイエンスとAIを専攻しているケビン・リュー(Kevin Liu)は、クラスメイトの多くがこの分野に新たな関心を持ち、起業家クラブやTelegramのチャットを新しく作ったり、同大学で人気の自然言語処理コースに学生が集中しているのを目にしたという。
学部生がこうした機会を得ることで、労働力不足が解消される可能性がある。カーネギーメロン大学の研究教授、リード・シモンズ(Reid Simmons)は、4年前に学部生向けのAIプログラムの創設に携わった際には、ほとんどの求人枠は修士号か博士号のある学生しか応募できなかったという。だが現在では、学部のカリキュラムが強化されているという認知が採用担当者にも広まり、「求人の多くが学部生でも応募できるようになっている」と彼は言う。
しかし、冒頭のエイザギルレのように、企業が魅力的な給料や特典をちらつかせても、学問の道に進む学生もまだいる。
エイザギルレはまだ博士課程の2年目で、卒業後もアカデミックな環境で研究を続けるか、急成長しているテック企業に就職するかは決めていない。彼は、大学院でのスローペースの研究、仕事量の負荷、研究室勤務の悲惨な給与などの苦しい状況も認識しているし、大金を稼ぐために大学院を選択する学生が減っていることも分かっている。しかし、学問についてはこう述べる。
「面白い研究ができますからね。僕らにとっては魔法のようなことを学べる場所なんです」