新刊『くもをさがす』で乳がんを公表した直木賞作家・西加奈子さん。
撮影:稲垣純也
「カナダでがんになった」
4月中旬に発売されたばかりの直木賞作家・西加奈子さんの新刊『くもをさがす』の帯に書かれた、言葉が目をひく。
今作で西さんは、2019年秋から語学留学のためカナダ・バンクーバーに家族で移住し、現地で「乳がん」と宣告されたことを明かした。
『くもをさがす』は日記をもとにして、自身の経験を構成した初のノンフィクション作品。
コロナの影響もあってカナダでがん治療を受けることを決めた西さんが、自身の抗がん剤治療の激しい副作用や両乳房を切除した手術、そして家族との生活を詳細に記録している。
厚生労働省によると、女性の乳がんは40代後半で発症のピークを迎え、女性が生涯で乳がんに罹患する確率は9人に1人。病とどう向きあっていくかは、働く世代にとっても決して他人事ではない。
西さんはなぜ、ノンフィクションという形でがんを公表したのか?
直木賞作家であり、日本を代表する人気作家である西さんにインタビューした。
「今日、乳がんだと宣告された」
2021年10月に前作『夜が明ける』を発売したとき、西さんはすでにがん治療を受けていたという。
撮影:稲垣純也
9月2日 ロナルド先生は、とても優しい先生だった。私のがんは、トリプルネガティブ乳がんだと告げられた。エストロゲン受容体とプロゲステロン受容体、HER2たんぱくが存在しないがん。乳がん全体の15〜20%がそれに当たり、予後が悪く、再発率が高い。(中略)
胸のしこりは、2.9センチになっていた。4ヶ月で、約2センチも成長したということだ。日本への帰国を待っていたらと思うと、ゾッとする。トリプルネガティブ乳がんに関しては、インターネットで調べていた。自分が、一番なりたくないがんだった。 『くもをさがす』より引用
2020年8月17日から始まった西さんの日誌には、「今日、乳がんと宣告された」と書かれている。
「日記は、がんを宣告された日から、体調いかんに関わらず毎日書こうと決めました。誰に見せるでもない、自分のためだけに始めた日記だったので『しんどい』としか書いてない日も、体力的・精神的に弱っていて文字が読めない日もありました」
西さんは日々の日記を読み返し、この経験をノンフィクションとして作品にしたいと思ったという。
「日記では『怖い』って一言で終わってしまった夜でも、その気持ちに間違いはなかったとしても、そんな一言で片付けられる夜ではなかったんです。もう一度、きちんと言葉にしたかった」
『くもをさがす』の原稿は、日記と同時進行で書き続けたという。日記を書いた数日後に原稿を書くこともあれば、数週間後に書いたこともあった。
「これまで書いてきた小説は、もちろんフィクションですが、嘘をついてきた覚えはありません。『正直であること』はずっと自分に課してきたつもりです。
でも『くもをさがす』は、過去のどの作品より正直だなって思いました。原稿を書きながら、作品そのものが誰かに読まれたがっているという感覚がありました」
カナダ人の看護師の言葉は「関西弁」?
時折、関西弁を交えながらインタビューに答えた。
撮影:稲垣純也
作中で登場する女性の看護師や医師が、関西弁で話すのもこの作品の特徴だ。
以下の引用は看護師と西さんとが会話する場面。
「カナコのがんはトリプルネガティブなんや、オッケー! 早(は)よ治そう!」
彼女たちと話していると、がんは死に至る病なのではなく、ただの風邪か、ちょっとこじらせたインフルエンザのようなものだと思っていられた。(中略)
「相変わらずめっちゃええ静脈やん。針さしやすいわ〜」 『くもをさがす』より引用
なぜカナダ人なのに大阪弁なのか?
「がん治療の前から、バンクーバーの女性の英語がどうしても大阪弁で変換される現象があった」と西さんは言う。
「男性の場合はたおやかな標準語に変換されるんですけど、バンクーバー女性の場合は、私が育った大阪のおばちゃんたちの、あの言語で再生されるんです。
その距離感とか、からっとした優しさとか、ぐいっと入ってくる感じとかがすごい似ています」
「すれ違いざまに全然知らない人から、英語で褒められることがあるんですけど『そのイヤリング素敵だね』じゃなくて、『ええやん!そのイアリング!』みたいな感じです。
看護師さんもみんなそうで、『どう体調?大丈夫?いける?』みたいな関西弁のニュアンスでした」
「かわいそうな患者」とは扱われなかった
撮影:稲垣純也
そして、そんな看護師の態度が、西さんにとって救いでもあったという。
「彼女たちは一貫してプロフェッショナルでした。本当に素晴らしい技術があって、素晴らしい姿勢を見せてくれた。
もちろん私は患者だったのですが、一度も『かわいそうな患者』として扱われたことはありませんでした」
抗がん剤治療によって髪の毛が抜け、体が痩せた状態であったとしても、その態度は一貫していたという。
「冬だったのでコート着て治療を受けにいったら『めっちゃいいやんそのコート!どこの?』って、看護師さんに聞かれるんです(笑)。
私は患者ではあるけど、『かわいそうかどうか』は私しか決められないことで、私を同じ人間として扱う、ということは徹底していました。彼女たちと私の間に違いはないという明確な態度がありました」
抗がん剤治療中に「コロナ感染」の悲劇
コロナ感染し、病院で隔離されて過ごした夜は「忘れられない」という。
撮影:稲垣純也
『くもをさがす』で書かれたがん治療中の経験は壮絶なものだった。
抗がん剤治療で体力が低下し深刻な副作用に襲われるなか、西さんの子供が頭痛を訴え、何時間も緊急外来に付き添ったり、西さんが車の運転中、事故にあったり、日本から一緒にカナダに渡ったネコが生死に関わる病気にかかったりと、予想外の事態が立て続けに起きる。
そして、全16回の抗がん剤治療のうち15回目が終わり、「もう上向くしかないやろ」と思っていた矢先に、今度はコロナに感染する。
「喉が焼けるように痛くて、パニックアタックを起こして呼吸もできなくて。隔離された病室で自分の排泄物と一夜を過ごした、あの夜のことは本当に忘れられません。『まだですか。もうほんとうに、許してください』という感じでした。
でも人生ってそういうものですよね。自分はここで終わりやって自分で決められることじゃないから」
「どうして私が。」
今まで、まさか私が、と思うことはあった。でも、どうして私が、と思うことはなかった。
この場合の「どうして」には、「どうして他の人ではなく私が」というニュアンスがある。そう思うことには、そしてそう思ってしまう自分には強い自己嫌悪が伴う。私は幸いにも、そう思わずに済んでいた。それよりも、「これが他の人に起こったことではなくて良かった」と思った。これが、大好きな人たちに起こったことで良かったと、それだけは心から思えた。
救急外来の個室で、でも私は、こう思ってしまった。
「どうして私が。」
どうして私にばかり、こんなことが起こるのか私が一体、何をしたというのか 『くもをさがす』より引用
両乳房を切除、再建はしないと決めた理由
約6カ月に及んだ抗がん剤治療のあと、西さんは乳がんの摘出手術を受ける。
手術では両乳房と3本のリンパを切除したが、乳房の再建手術はしないと決めていた。
将来もしも乳房再建の手術を受けたいと考えた場合に備え、乳首を温存する方法もあったが、西さんはそれもしなかった。
「私はラッキーだと思います。社会的に、特に女性の乳房と乳首は私が思ってる以上に重大事で、私の友達でも『胸は絶対に再建する。再建しないなんてありえない』という子もいました。
私は、再建していない私の姿が本当に素敵だと思っていて、彼女に写真を見せようか?と言ったのですが、『ごめんまだ見る勇気がない』と言われました」
「どっちが正しいということではないんです。
自分の体が望んでることに、彼女は彼女で耳を澄ましたと思うし、私は自分の心に、私はどうしたいかときちんと向き合えたんですよね。そしたら本当に要らなかった。今でも本当に満足してます」
バンクーバーで「ノイズ」から解放された
東京を離れたことで、西さんは「ノイズ」を感じなくなったという。
REUTERS/Ivan Alvarado
新型コロナの影響もあり、日本への帰国が厳しく制限された状況ではあったが、「カナダで治療できたことは結果的に私にはよかった」という。
バンクーバーの街には、日本で感じた「ノイズ」が少なかったこともその理由の一つという。
西さんはバンクーバーには「脅しのような広告や、ポルノのような写真が街にはなかった」という。
「特に女性は自分の容姿に関して、世界から愛されるかどうかを、あまりに多く問われ続けていると感じます。
私も若い頃、こういう髪型で、こういう体型で、こういう服装でってリストアップして『こんな私は世間から愛されますか?こんな私を私は愛していいですか?』って、自分のカルテを社会に差し出すような状態だったんです。
感情ですら社会にコントロールされたような感覚があって、これは決して大げさに言っているわけではないと思います。いま私たちの周りにどれだけ女性を脅すような広告があるか、脅すような言説があるか」
「作家のリンディ・ウェストは『完璧な体なんてものはまやかしである』って言っていますが、本当にそうです。完璧な体なんて、誰が決めたんやって思います」
小説にやっと追いついた
小説ではハッピーエンドを多く書いてきた西さん。「書いてきたきたことは、大げさではなかった」と話す。
撮影:稲垣純也
西さんは2004年の作家デビュー以来、もがき苦しむ人々がやがて希望を見出す小説を多く発表してきた。
2015年に直木賞を受賞した代表作『サラバ!』は、「自分が信じるべきものは、自分で決める」というテーマに貫かれた大作だった。
今作『くもをさがす』にも「自分のことは自分で決める」という言葉が頻出しており、『サラバ!』の登場人物たちと、西さん自身が重なって見えた。
「小説で私はずっと、人間は本来美しいもので祝福すべきものだと、ハッピーエンドの小説を書き続けてきました。
ただ、それでもやっぱり、どこか揺らぐところがあって、『こんなにハッピーエンドを信じているのは、自分に特権性があるからなんやろな』と。そういう環境にいるからそう言ってるだけで、本当に地獄を見てる人もいるやろうし……とかいろいろ考えてきました」
「でも『くもをさがす』を書いてるとき、自分の生って、やっぱり祝福すべきやし、すごく陳腐な言い方になるけど、『生きているだけですごい』と思いました。
いままでの小説は全然大げさではなかったなって。自分が書いてきたことは嘘ではなかったと、答え合わせになりました」
「小説の方が、私よりちょっと早いんです。改めて自分がこういう環境に置かれたことで、自分の作品にちょっと追いついた感じがしています」
西加奈子:1977年、イラン・テヘラン生まれ。エジプト・カイロ、大阪で育つ。2004年に『あおい』でデビュー。2015年に『サラバ!』で直木賞受賞。2019年12月から語学留学のため、家族と猫とバンクーバーに移住し、現在は東京在住。他の著書に『さくら』『ふくわらい』『夜が明ける』など。