ティングス・キャピタルの創業者、モーリス・ン氏(右から2番目)とその家族。2021年撮影。
Maurice Ng
モーリス・ン(Maurice Ng)氏が29歳の時に会社を辞めてベンチャーキャピタリストになるきっかけとなったのは、シンプルな一枚のスプレッドシートだった。
2020年初頭、ン氏はシリコンバレーのソフトウェア会社で6桁の給料をもらうという、夢のような仕事を手に入れた。しかし、世界的なパンデミックによって彼の人生設計は台無しになってしまう。サンフランシスコの新しいアパートで暮らすどころか、脱出したはずの場所であるニューヨークの実家に戻り、眠れぬ夜を過ごすことになった。新型コロナウイルス感染症が引き起こした緊急事態が、彼のゴールデンステート(編注:かつてゴールドラッシュに沸いたカリフォルニア州の愛称)での計画を狂わせてしまった。
「人生が一時停止したように感じました」とン氏は当時を振り返る。
「サンフランシスコのテック企業で働き、新たな生活がスタートしたと思ったら、振り出しに戻ってしまったのです。再び両親と暮らすようになり、ストレスを感じていました」
ある夜、午前2時を過ぎた頃、ン氏は「時間」について考え始めた。我々が使える時間がいかに少ないか、自分に与えられたわずかな時間でどれだけのことを成し遂げられるのか。普通の人からすれば、朝には忘れてしまうような、まどろみの中での思索に過ぎなかったもしれない。しかし、銀行員やプライベート・エクイティ投資家としての経験を持つ彼は、この難題について徹底的に考え抜こうと数字に注目した。
彼はノートパソコンでExcelを開き、「ライフカリキュレーターV.1.xlsx」というタイトルのスプレッドシートを作成した。あらゆる問題に立ち向かうために彼が磨き上げてきた方法、つまり財務モデルを作成することでこの問題に立ち向かうことにしたのだ。
2020年3月、世界が動きを止めたとき、多くの人が自分の人生や仕事について再考を迫られた。ン氏はまだ若かったが、自分に残された時間は有限であることを悟った。このことが、人生の目的、そして生きている時間をどう過ごしたいのかという思いに影響を与えた。
起業家を支援するために新たに1億ドルのファンドを立ち上げることを計画しているン氏は、ベンチャーキャピタルの歴史上最も不安定な時期に、この業界に足を踏み入れようとしていた。バリュエーションが下がって、ディールの件数が減り、金融危機もまだくすぶっている。しかし彼は不確実な事態には慣れていた。
自分に与えられた時間を計算
ン氏は財務モデルはこうだ。仮に平均余命を85年とすると、1年は365日、そこに85年をかけると3万1025日。そこから睡眠時間を33%引くと、2万786日という「地球上で過ごせる調整済み合計日数」になる。さらに、確実に費やすことになる時間を計算し始めた。
4歳から21歳まで1年ごとに、1日10時間、週5日、40週間学校で勉強すると仮定すると、2131日を学校で過ごすことになる。21歳から65歳まで1日10時間働くと仮定すると、労働時間は6618日になる。
ここから通勤時間として2000日強を差し引き、「通常の病欠」は255日、「重病による欠勤」は10日とする。1日3食、1年365日、1食1時間と仮定すると、食事に5817日を使うことになる。トイレは1日4回、1回あたり平均0.25時間として、1939日をトイレタイムとして計算した。
「これが私の思考回路なんです」とン氏は語った。
さて、人生における基本的な要素に費やす時間をすべて足して、「地球上で過ごせる調整済み合計日数」から差し引くと、何日残るのだろうか。1590日、4年余りだ。これが、彼が実現したかったことをすべて叶えるために使える時間だった。
「少しゾッとしました。私はずっと、お金のために自分の時間をただ削り取っていたのです。時間がどれほど神聖なものなのか、まったく理解していませんでした」
ン氏が死の恐怖に直面したのは、それが初めてではなかった。
故郷から8000マイル離れて
「お前の家族の内臓をえぐり出す」
香港にある彼の実家の壁に赤いペンキでなぐり書きされたそのメッセージを、ン氏は今でも覚えている。2008年、モーリス少年が18歳のときだった。母親は、近所の子どもたちのイタズラだとごまかそうとした。
「でも私もバカではありませんでした」とン氏は言う。父親が、経営難に陥っていた宝石店を立て直そうとして借金をしたことは知っていた。銀行から借りられなくなった父は、闇金融に頼るようになった。それからは、もう逃げ場はなかった。
1週間もしないうちに、彼らはニューヨーク行きの飛行機に乗っていた。
18歳だったン氏は、最初の夜、クイーンズ地区にある叔父の家の空き部屋で、子ども用の二段ベッドを4人で使ったことを覚えている。姉と母親が上の段に、彼と父親が下の段に寝て、ベッドが壊れないようにした。彼はその二段ベッドで、父親が故郷の債権者から怒りに満ちた電話を受けるのを聞いたという。「そのせいで私の心はめちゃくちゃでした」とン氏は語った。
「率直に言って、両親に対して冷淡でした。なぜこんな思いをさせるんだ、という怒りがあったのです」
それから2年間、彼は英語の学習に没頭した。新しい単語をマーブル・ノートにまとめ、常に持ち歩いた。他の中国語話者との付き合いを避け、自分の言語能力を高めてくれる人々とだけ時間を過ごすように努めた。
彼は数学の家庭教師を始め、さらにはマクドナルドで働きながら、月々1200ドルを捻出して両親に渡した。やがて彼は奨学金を得て、ニューヨーク市立大学バルークカレッジに入学した。彼は医学部進学を目指したが、父親の借金を返すには医者の給料では足りないと思い、すぐに金融業界に志望を変えた。
しかし、いざ就職活動を始めても、有名なビジネススクールの学位がなければ業界に潜り込むチャンスはなかった。Facebookでコロンビア大学やニューヨーク大学のMBAリクルーティングイベントを探し、履歴書を持参して、ピザやコーヒーを片手に参加した。やがてゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)のリクルーター(彼はナイジェリアからの移民だった)がン氏を気に入り、履歴書の手直しを手伝い、最終的には彼の助けもあってインターンシップに参加することができた。
ン氏はゴールドマンでのインターンシップをきっかけに、JPモルガン(JP Morgan)に就職することができた。その後、プライベート・エクイティ会社のファロール・アセット・マネジメント(Farol Asset Management)に転職して投資スキルを磨き、さらにソフトウェア会社のモメンティブ(Momentive)に移って戦略財務のポジションに就いた。モーリスはその過程で父親の借金を完済し、家族がまともなアパートに住めるようにした。彼は30歳を前に、自力で億万長者になったのだ。
負け犬の心理
こう考える人もいるだろう。夜中の2時にスプレッドシートの数字を眺めていたン氏は、人生の比較的早い段階で成し遂げられたことに関して、満足感を覚えていたのではないかと。しかし、彼の頭にあったのは、残された時間の少なさだけだった。
彼は夜明け前に起床するようになり、カレンダーには朝6時から夜10時までミーティングを詰め込むようになった。週末はアイデア出しと目標作りのために費やした。過剰とも言える量のカフェインを摂取し、食事も控え、起きている時間を最大限に活用しようした。
「自分が使える時間をひねり出すには、自分が機械になる必要があると思ったんです」
しかしその結果残ったのは、燃え尽き、疲弊しきった自分自身だけだった。
彼は、自分の時間を使って実際に何をしたいのか、どうすればこの世界に影響を与えられるのかを考えることに集中することにした。そして、自分に可能性を見出してくれたゴールドマンのリクルーターに思いを馳せた。
「私は、かつての私のような負け犬(アンダードッグ)を支援したいと思ったのです」
そして、ン氏は高収入の仕事を辞め、ティングス・キャピタル(Tings Capital)を設立した。これは、彼が言うところの「アンダードッグの心理」を持った、過小評価されている起業家に投資するために設立されたアーリーステージのベンチャーキャピタルファンドだ。彼はこれまでにエンジェル投資家やファミリーオフィスから5000万ドルを調達しており、近いうちにその倍を目指したいと考えている。社名の由来は、偉大な成功が目前に迫っているときに感じる高揚感(Tingly feeling)からだという。彼のホームページはバターの色をしているが、これは決して諦めない小さなネズミの物語にちなんでいる。
ハイテク産業やベンチャーキャピタルが混乱に陥っているにもかかわらず、今のン氏には自己疑念などないように見える。ティングス・キャピタルはまだ投資をしていないが、彼は自分がベンチャーキャピタル界の国際連合になるつもりであり、いつの日か、自分の名前を冠した博物館ができるだろうと話してくれた。
「いい車に乗って、上質で贅沢な生活をするのはありがたい。それはそれでいいんです。でもいつか、本当に歴史に名を残すことができたらいいなと思っています」
かつては「ライフカリキュレーターV.1.xlsx」から来る不安に駆られていたン氏だが、今はただ、穏やかな気持ちでいられるようだ。まるで、死の恐怖をスプレッドシートに閉じ込めることに成功したかのような気楽さで彼は話す。さらに、カフェインの摂取は控えめにし、もう残された日数にはこだわっていないとも話してくれた。
「結局は、なるようにしかならないという事実を受け入れるしかないのです。ビクビクする理由はありません」と彼は言う。
「明日がどうなるかなんて分かりません。カレンダーの予定がどうなっていても、誰かが会議をキャンセルすることだってあり得ます。電車に乗り遅れるかもしれないし、遅刻するかもしれない。最悪、車に轢かれるかもしれません。だから、人生には自分ではコントロールできないことがあるという事実を、受け入れる必要があるのです」