撮影:伊藤圭
花冷えの3月下旬。朝からしとしとと雨が降る。この日は祝日ということもあり、JR恵比寿駅前のオフィスビルは閑散としていた。
だが、朝9時になり、ビル内のクリニックには患者が続々と集まる。待合室前の10席はすぐに埋まった。カップルの姿もある。開院して1年で、毎月800人もの患者が来院するという「torch(トーチ)clinic」(東京・恵比寿)の光景だ。
不妊治療を専門とする都市部のクリニックが満杯なのは、今や日常茶飯事。にも関わらず私が驚いたのは、滞在時間の短さだ。診察室に呼ばれるまでの待ち時間は、早ければ10分ほど。最初に診察室に入ったカップルは、受診後速やかにクリニックを後にした。滞在時間は、30分ほどだった。
「注力したのは、待ち時間を極力少なくすること。仕事と両立しながら通院できるよう、休日や平日夜の受診も可能としました」
同院をプロデュースするARCH代表取締役CEOの中井友紀子(36)は胸を張る。
滞在時間を大幅に短縮
東京・恵比寿に位置する「torch clinic」。
提供:ARCH
デジタル化やオペレーションの工夫により、待ち時間の短縮化を実現。従来の不妊治療のクリニックでは、院内の滞在時間が1〜3時間はザラだと言われるところ、同院では30〜75分。3分の1から5分の1まで短縮できたという。
その秘密は、診察の予約やオンラインによる事前問診、後日決済までスマートフォンアプリを使って済ませられるようにしたDX(デジタルトランスフォーメーション)にある。院内処方にしたことも、待ち時間の短縮化に寄与している。
「ありがたいことに、受診希望の方が増え、毎日夜まで予約が埋まっている状況です。いずれ婦人科の診療も担えればと考えているのですが、今は対象の方を絞り、不妊治療に特化しています」(中井)
私は以前から、取材を通じて「不妊治療を続けたいが、どのクリニックも待ち時間が長い」という悩みを多数耳にした。厚生労働省の2015年の統計によれば、不妊を心配したことがある夫婦が35%いるという。2.9組に1組の割合だ。
また、夫婦の18.2%、5.5組に1組が、不妊の検査や治療を受けたことがある、または現在受けていると回答。にもかかわらず、仕事と両立できない人が「34.7%」にも上った。
中井の前職は、デジタルメディアを主体とするヤフー子会社「TRILL(トリル)」(現在はdelyの運営)の社長。女性向けメディアを月間利用者数が2000万人以上に上る媒体に成長させた実績を持つが、彼女は医療については全くの専門外である。なぜ不妊治療領域のDXで事業展開を目指したのか?
不妊治療で味わった「二重の痛恨」
TRILL社長時代の中井(写真右)。
提供:ARCH
実は、中井自身が不妊治療を経験した。彼女が起業に至った理由は、それだけではない。治療を通じて仕事を振り返り、人生とキャリア、「二重の痛恨」を味わうことになったのだ。
2018年、2人目の子どもをなかなか授かれず、不妊治療を始めたところ、「多嚢胞性(たのうほうせい)卵巣症候群」と診断された。排卵しにくい疾患だ。
中井は2年半で3つのクリニックを渡り歩き、体外受精を含む高度な治療へと進んだ。当時は全額自己負担であり、トータルでかかった治療費は数百万円。また、採卵や胚分割した受精卵の移植のためには、頻回な受診が必要となる。待ち時間が長い病院通いは、仕事と治療を両立する上で大きな負担となった。
治療を通じて、妊娠するために必要な力である「妊孕性(にんようせい)」には限りがあることも知った。多嚢胞性卵巣症候群は月経が来ていても必ずしも排卵していないという症状で、女性の10%程度にみられる。
卵巣に卵は多いが専門医でも卵の質の扱いが難しいのだと医師から説明された時、「もっと早く受診すれば……」「月経不順があったので、ちゃんと自分の生理と向き合っておけば」と、後悔の念に駆られたという。
「当時の私は20代の終わりぐらいで、当たり前に授かると思っていたんですね。
でも治療を始めて調べてみたら、あなたは自力では授かりにくい病気なんだよと医師に告げられて。産みたいと思った時には、選択肢の幅が狭まってしまっていたことを知って、悔しい思いをしました」
もう一つ頭に浮かんだのは、「命を育むのに大切な情報を、自分はなぜ知らなかったのか。知って届ける側になっていてもよかったのではないか」という思いだ。彼女が取り組んできたのは、美容、ファッション、占い、恋愛といった、女性向けのコンテンツを届けるメディアだった。
振り返れば自分は、早くから月経に明らかに異常があったが、仕事の忙しさゆえ受診の機会を逃していた。本来、届けるべきだったのは、「日本の生殖年齢の女性の25%以上が月経困難症」「何らかの症状があれば、まずは婦人科に」といった、「気づく」ための情報ではなかったかと、反省の気持ちもあった。
「ヤフーでメディア事業を立ち上げた私は、いかに人を惹きつけるコンテンツを作るかばかりを考えていた。
でも、モテ方やメイク術をいくら発信したところで、自分の身体の変調に気づくのには何の価値もなかったなと。業績を伸ばしたところで、人生の役には立たないなと。それだけじゃ、一人ひとりの未来は変えていけないと思ったんです」
100人当たって1人の医師を探し出す
撮影:伊藤圭
どうしたら女性たちに「選択肢」を届けられるか。
中井が導いた答えは、「新しい医療受診の体験をつくること」だった。真に社会を変えるには、妊孕性の認知度を上げるだけではなく、若いうちから、気軽にいつでも受診出来る体制づくりが必要だ。
例えば、「ちょっと生理痛が重いな」と思ったら、体の状態を検査しに訪れる。そもそも生まれ落ちた時から減っていく有限な卵子がどのような状態で、どの程度あるかを早い段階で知る。的確に自分の状態を把握していれば、妊孕性を温存する治療を受けるなど選択肢が広がる。
こうした早めの受診に結びつけるためには、妊孕性の認知度を上げるための情報を届けるだけでなく、まずは「生理が来てお腹が痛い」と誰にでもある悩みに気軽に答えられるようなかかりつけ医に結びつけていく。そういう体験を増やしていきたいと考えた。
「自分の体を知った上で、選択肢を一人ひとりが考えられるところまで社会を持っていきたいんです。そのためには、若いうちからの性教育も必要でしょう。
気軽にいつでも受診出来る婦人科が、全国どこにでもあれば将来世代の未来感が変わって受診行動も変わる。不妊に至る手前のところに光を当てて、『世の中から不妊治療をなくしたい』と思ったんです」
まずは医師探しに奔走。受診体験を根本から変えるような医療機関をゼロからつくるには、中井の思いに共感を持ち、目指すところが一致する医師をいち早く探さねばならなかった。だが当初は、医師の知り合いは1人もいなかった。
起業を思い立った頃、第一子の長男は、まだ2歳。子どもを抱えながら、気づけば2年間で100人の医師に会っていた。
「最初は玉砕の連続でした。人海戦術でメールを送りまくり、会う人、会う人に『産婦人科の方をご存知ないですか?』と言って回って。ある時、美容師さんにも声をかけてみたら、思いがけず、医療業界のキーマンにつながったこともある。先入観なく声をかけたのがよかったかもしれない」
その一方で、編入で入れる医師国家試験についても調べ、自分自身が医師になる道も検討した。
「最悪、仲間になってくれる人が見つからなかったら、勉強しながら10年かけて自分が医師になるしかないのかなと。それでもやりたい事業なのか?と自らに問うてみたら、答えはイエスだった。だったら、どんな苦難を乗り越えてでも、是が非でも成し遂げようと思っていました」
torch clinic院長となる市山卓彦医師を「射止めた」のは、2020年10月のこと。翌年、ARCHを創業している。この劇的な出会いは、連載の3回目で触れる。
そもそも医師でもない中井が、既存の医療機関にはない特色を持つクリニックをプロデュースしようとは、実に大胆な構想だ。彼女のハングリーさはどこから来るのか? 次回は彼女の生い立ちに迫る。
(敬称略・明日に続く)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」に執筆多数。著書に『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)など。