「私が一家の大黒柱になる」飛び降りた兄、うなだれる父のそばで覚悟を決めた【ARCH CEO・中井友紀子2】

ARCH CEOの中井有紀子さん。

撮影:伊藤圭

不妊治療領域のDX(デジタルトランスフォーメーション)に邁進する、ARCH代表の中井友紀子(36)は、

「私は学生の頃から明確に『一家を支える大黒柱になって、事業を作ってお金を稼げる人になりたい』というKPIを持って社会人になりました」

とさらりと言ってのける。中井はあえて、目標達成の指標を意味するKPIという、ビジネスライクな軽やかな言葉を使った。志という意味合いだろう。彼女の複雑な家族関係と生い立ちが、キャリアを押し上げていくマインドのど真ん中に刺さっているのだ。

アルバイトを4つ掛け持ちした学生時代

ARCH CEOの中井有紀子さんの幼少期

幼少期の中井(写真中央)。

提供:ARCH

中井は1986年に千葉県千葉市に生まれる。2歳の時に母親が家を離れ、会社員の父がシングルファザーとして2人の兄と中井の3人を育ててきた。

友達から「いつも授業参観におばあちゃんが来るね」と言われることはあったが、ひとり親家庭で育てられている環境での苦労は、クラスメイトには極力見せないよう振る舞っていた。手一杯の父親の様子を見て、小学生の頃から自立していったという。自分の身の回りのことはもちろん、食事作りを始めとする家事も担うようになった。

父親は、子育ても教育も苦手なところがあった。6歳上と3歳上の兄が思春期に差し掛かると、コミュニケーション不全に陥り、次第に兄たちは家に引きこもるようになった。

対人関係を避けるようにして暮らす兄たちの様子を見て、中井は高校時代からバイトを始めたという。自身が大学に進学するための学費を工面し、兄たちの生活を支えるためだった。

「千葉ロッテマリーンズの球場でビールの売り子をしたこともありましたね。いろんなバイトをやれて楽しかったですよ。それでも、『家と私は違うもの』と捉えて、家族を背負わないことにしていましたね。そうやって、幼い頃から自分の心を守っていたのかもしれません」

千葉市内の外国語大学に進学してからもバイトは続け、4つ掛け持ちしていた時期もある。

その後、大きな変化が訪れる。中井が大学3年生の時、一番上の兄が高所から飛び降り、大怪我を負ったのだ。兄は統合失調症を発症しており、それ以前から自傷行為を繰り返していた。集中治療室に運ばれた兄の姿を見た中井は、それまで心の距離を置くことでギリギリ家族の体裁を保ってきた均衡が、ガラガラと崩れていくように感じた。

病院に駆けつけた時、父は兄の傍で「自分の命に換えてでも助けたい」と言葉にしつつも、すっかり肩を落として力をなくしているのが伝わってきた。中井はかえって冷静になった。

「兄の療養を考えたら、病院や行政の手続きも必要だったし、やることは山ほどある。そもそも統合失調症は長く付き合っていく病気。なのに、家族がこの調子じゃ、みんなダメじゃんって。

この時から、家族を支えるところを私がしっかりやる大黒柱になるしかないと覚悟を決めました。じゃないと、一家心中しかねないと思いましたから」

「稼ぎが良さそう」なネット業界へ飛び込む

OPT時代の中井さん。

オプト時代の中井は、新卒2年目にもかかわらず社内のビジネスプランコンテストに入賞した。写真左はオプト創業者の鉢嶺登。

提供:ARCH

兄の病気発症を機に、キャリア設定の変更を余儀なくされた中井は、「大黒柱になる」人生目標のため、就職先は「稼ぎが良さそうなインターネット業界」に的を絞る。2009年、新卒でインターネット広告代理店の「オプト」(現DIGITAL HOLDINGS)に入社した。

リスティング広告の運用チームに配属されたが、「このまま新卒の立場に甘んじていたらダメだ」という危機感を持っていた。中井は社内でビジネスプランコンテストが立ち上がったのを機に、スマートフォンのケースをキラキラにデコレーションできるECサイトの事業計画を作成。

彼女のプレゼンは、「新卒2年目の社員が、フレームワークを作って実効性のある事業計画を出してきた」と驚きを持って受け止められたという。すぐさま新規部署を用意され、運営責任者に就任。2011年に事業化されたが、失敗に終わった。

「このままだと、自分が定めた『生涯、兄たちを養えるように、大きな事業を作って稼げるビジネスパーソンになる』という人生上のKPIに全然届かない」

そんな焦りから、「事業規模の桁感を上げたい」と、2013年に「コミュニティファクトリー」に転職。同社は世界的にヒットしたカメラアプリを展開しており、爆速体制でスマートフォン対応を進めていたヤフーが買収した会社だった。その後、買収後の経営統合により、中井はヤフー本体に転籍する。

アプリ開発チームに所属した中井は、ポータルサイト「Yahoo! BEAUTY(ヤフービューティ)」のリノベーションを任された。

UI/UXデザインを刷新し、ブランド名を「TRILL(トリル)」としてアプリをローンチしたところ、翌月には約20万DAU(デイリー・アクティブ・ユーザー。特定の1日に1回以上利用や活動があったユーザーの数)を獲得。その実績が、1年の間に部長格、本部長格と一気に2段階駆け上がる、異例の昇進劇につながった。

「TRILL(旧Yahoo!ビューティ)は、ヤフーの中でも、目覚ましいほどグロースハックできた手応えがあって、ユーザーの定着率も高かった。このメディア作りに参画できたおかげで、『1億人全員に届くサービスを作る』という目線感を獲得できたことは大きいですね」

「ヤフーのお給料ではKPIに届きません」

TRILL時代の中井(写真下段中央)と社内メンバー。

TRILL時代の中井(写真下段中央)と社内メンバー。

提供:ARCH

かくして中井は2015年、28歳でヤフーの子会社「TRILL」の代表に就任する。彼女は若くしてトップとして社員をマネジメントする立場となり、凄腕経営者に囲まれながら、大所帯の指揮官としてのスキルを磨いていく。

「20代で若かったですから、トップとしては未熟だった。危ういところだらけだったと思います。今となっては『すごい顔ぶれ』の方達が、私が倒れないようにと心配して、それぞれ定期的に1on1で私の相談に応じてくれていました」

「すごい顔ぶれ」として中井が名前を挙げたのは、Zホールディングス現会長の川邊健太郎、ヤフー現社長の小澤隆生、当時のメディア責任者だった宮澤弦ら、凄腕の経営者ばかりだ。

人事のトップも含めて、エグゼクティブクラスの経営層が、中井の「人生上のKPI」を理解していた。中井は臆することなく彼らに「ヤフーのお給料ではKPIに届きません。独立させてください」と申し出る。

そんな矢先、父親が肝炎で倒れる。中井が29歳を迎えたばかりの頃だった。まもなく症状をこじらせ、敗血症になって病院に搬送された。家族の看病で汲々とする中井の窮状を知り、宮澤がこう提案してきた。

「独立は後回しでもよいのでは? しばらくは少し気持ちゆるめて働きながら、また出直せばいい」

一方、川邊はお薦めの物件を紹介。

「館山(千葉県)にいい物件があるから、不動産屋を紹介しようか? お父さんの療養をそこで見守ったらどうか?」

その助言通り、中井はCEOから身を引き、COOに就任。館山に家を買って実家を移した。

「次から次へと経営陣から提案がきて、私はそれに、トントンと助けられて今がある(笑)」

起業家宣言とともに退社

2016年、中井は夫と付き合って3カ月で結婚する。長男を授かり、17年に出産。産休に入った。

小児喘息を患い入退院を繰り返していた息子の子育ては、想像以上に大変だった。結局は復帰を諦め、しばらくは子育てに専念することにした。

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撮影:伊藤圭

「まさか自分が平和に家族が出来ると思っていなくて、望まないフリをしていたのですが、自分にとって子どもに恵まれた事は奇跡のように感じました。

だから、続けてもう一人子どもを産みたいと思ったんです。素直に家族が増えたことが嬉しかった。授かれるならば、何人でも欲しいと夫と話し合うようになりました」

ところが二人目はなかなか授からず、2018年から不妊治療を始める。そこで連載1回目で紹介したように、不妊治療の課題解決につなげる事業を着想。それは、日本全体の出生率の課題に向き合うような、途方もなく大きな挑戦だ。なおかつ、不妊治療中に自分自身が欲しかった、「働く」と「授かる」の両立を支援できる、やりがいある取り組みだと思えた。

中井は川邊にこう申し出る。

「残りの人生で解決したい課題を見つけてしまいました。退職して、大きな夢に向けて挑戦します」

川邊からは「不妊治療の大変さは自分でもよく分かる。頑張って」と背中を押された。

だが踏み出してみると、「医療は専門外だった自分が、ヘルスケアドメインでのスタートアップを立ち上げる難しさ」は想像以上で、分厚い壁に阻まれることになる。

(敬称略・明日に続く)

古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」に執筆多数。著書に『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)など。


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