不妊治療大国ニッポン。「仕事も友人もお金も全部なくす」現実を協力医と変える【ARCH CEO・中井友紀子3】

ARCH CEOの中井有紀子さん。

撮影:伊藤圭

自らが30歳を過ぎてから経験した不妊治療がきっかけとなり中井友紀子(36)が婦人科・不妊治療診療における事業を本格的に構想したのは、2019年のこと。

中井は手探りで医師を探し出し、「デジタルやデータの力を駆使して待ち時間を減らし、受診の負担を軽くする」といったビジョンを掲げ、一人ひとりに説得して回った。

だが、いきなり壁にぶち当たった。ゼロから不妊治療クリニックを立ち上げて受診体験の改革に挑む、仲間としての協力医がいつまで経っても見つからなかったのだ。IT業界出身で医療に関して専門外だった中井が医療領域の体験を変えようとしていることに、抵抗感を露わにする医師もいた。

「100人にアタックしても、医師たちに信用してもらうには程遠くて……。中には『君が医療を変えるのは大変だよ』と忠言する方もいました」(中井)

批判や厳しい言葉を聞いた日は、打たれ強い中井でも、さすがに凹んだという。

「玉砕の連続で落ち込みがピークに達すると、30過ぎた大人でも、三角座りしてしまうんですよね。家族には何度も目撃されていて、『家の隅っこで、本当に三角座りしている人がいるんだね』と後で言われました(笑)」

「諦めない才能」を武器に

toch clinic院長の市山卓彦。

toch(トーチ) clinic院長の市山卓彦。

撮影:古川雅子

中井は医師探しに2年の月日を費やし、ついには市山卓彦医師(37)と出会う。

その頃、大学病院に勤務していた市山は、密かに独立を考え、メディアに強い人材を探していた。そんな折、市山はコンサルタント会社に勤める知人から「患者さん目線で先生と同じような課題意識を持って起業を考えている人がいますよ」と中井を紹介された。

病院を訪ねた中井は、市山の診察室でプレゼンを始めた。中井の話しぶりに市山はパッションを感じたという。

「彼女のすごさは、諦めないところ。それは才能だと思っていて。個人として叶えたいものが、全くぶれない。

話を聞いていて、彼女の感じている不妊治療の患者目線でのペインっていうのが、すごい見えてきたんです。まさにそれが、僕の解決したいペインと一緒だった。

僕は医療者側から、彼女は患者サイドからとアプローチは違っても、目指すところが一緒だと思いましたね」(市山)

市山と意気投合した中井は2021年にARCHを創業し、不妊治療クリニックの電子カルテ開発・患者向けの受診アプリなど市山が開院するのに必要なシステムづくりに没頭。翌22年5月に市山がtorch(トーチ) clinic(東京・恵比寿)を開院するのに間に合わせた。

波紋を広げて医療との接点を増やす

セントマザー産婦人科医院に勤めていた頃の市山。

セントマザー産婦人科医院に勤めていた頃の市山(写真中央)。

提供:ARCH

市山は以前、全国から患者が集まる北九州のセントマザー産婦人科医院に勤めていた。同院でのART(高度生殖医療)の実績は年間7000件にも上る。目の前に広がる風景から、ニッポンが抱える少子化の課題も見えてきたと市山は振り返る。

晩婚化に伴い、不妊症の夫婦は年々増加。現在、日本では5.5組に1組が不妊で悩んでいるとされている。下の図表に注目してほしい。他国に比べ日本では、不妊治療の患者の年齢構成が40歳以上と高い所にボリュームゾーンがある。

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提供:ARCH

「不妊治療大国」と言われながらも、高度生殖医療の妊娠率や出生率が高くないのは、検査や治療を受け始めるのが遅くなるがゆえに、選択肢を失っている現状があるからだ。

治療が長期化する一因でもあり、長く治療を続けても必ずしも授かれるとは限らない。そんな現実から、患者の心理は「先の見えないトンネルを歩いているようだ」とたとえられる。

中井が市山と挑むのは、主に2つの改革だ。

  1. 待ち時間などを解消して、来院しやすい不妊治療クリニックをつくる。
  2. 大人への性教育を通じて妊孕性(妊娠するために必要な力)への理解を深め、適切な時期に受診できる社会風土を醸成する。

特に2には、中井の「メディア力」が活きると市山は見ている。中井は若くしてヤフーの子会社「TRILL(トリル)」の社長を務めるなど、メディア企業トップとしての経験も積んでいるからだ。市山は、中井の一番の魅力は「世の中に石を投げて波紋を広げていく力」だと語る。

「中井と出会ってからは、医療の狭い世界で生きている僕なんかには絶対出会えないような人たちと、次々と縁がつながっていった。波紋を広げて人々の関心を引き寄せれば、医療との接点が増えてくる。みんなが課題に気づいていく。

彼女がARCH事業の立ち上げにあたり、確かな発信で人を巻き込んでいくプロセスそのものに、ものすごい意味があると思うんですよ。それも『いい医療づくり』の一部なんです」

不妊治療の肝・問診にこそ「DXが効く」

新生児。

不妊治療の患者には、経済的なペイン(痛み)だけでなく、離職など社会的なペインも存在する(写真はイメージです)。

撮影:今村拓馬

長年不妊治療の診療に携わってきた市山には、「医療の枠を超えた課題」を突きつけられた原体験がある。ある患者の言葉に衝撃を受けた。

「私が職場を移るときに、かつて担当した患者さんが、赤ちゃんを抱いて来てくれたんです。

その際、『先生、私たちはこの子を無事に抱くことができました』と感謝を述べつつ、笑いながらも、『私たちはこの子を抱くために、仕事も友人もお金も全部なくしたんですよ』と現実を話していたんですね。

医学的には課題をクリアできても、社会的、経済的なペイン(痛み)は見えていなかったと気がついたんです」

不妊治療を発端とする「社会的な痛み」の一つに、就労と治療の両立のしにくさがある。受診回数が多く、1回の受診での滞在時間も長いとなれば、仕事が継続しにくいのだ。

「私の母校である順天堂大学の公衆衛生学のチームが2020年に発表した論文では、不妊治療を受けている全国の女性患者のうち、就労との両立ができずに離職した人たちが6人に1人(16.7%)いた。

これはもうまずいな、こうした社会的な痛みにも本気で寄り添わないと少子化は止まらないなと僕は思ったんです」

実際の問診票。

ARCHが開発したアプリに届く、実際の事前問診票。

撮影:古川雅子

こうした社会的な痛みを取るのに、「問診のDXが効く」と市山は考えた。不妊治療の場合、問診で尋ねる内容は、夫婦の性交渉の回数、将来持ちたい子どもの人数など、「ごくパーソナルな情報」「家族での話し合いが必要となる項目」が多い。

ARCHが開発したアプリケーションを使うと、予約と同時に問診票が患者宛に届く。通常なら病院に到着してから記載する問診票を事前にアプリで済ませられれば、大事な診療に時間を割ける。

「事前に問診を取り、後日決済にすれば、院内での滞在時間は大幅に短くできる。でもこれは、DXの初めの一歩です」

市山が真に狙う不妊治療DXとは、「治療を長期化させないコンサル」を行うための情報網の構築だ。

「できる限り患者さんが途中で挫折しなくて済むよう、僕らもサポートしたい。例えば、月に2回の受診でも1年間続けたら負担になるが、1カ月に4回の受診だとしても、2カ月で終わることができれば、みんな頑張れるんです。

だからいかに治療を長期化させないプランニングができるかが肝になる。そうしたきめ細やかなコンサルには、情報がたくさん要る。そこにDXが効くと考えています」

中井は今、5歳と1歳の子どもたちの子育てをしながら、起業家として少子化の課題解決や医療革新に心血を注ぐ。「社会的な痛み」を取り除くモチベーションについてこう語る。

「今の子どもたちの未来って、問題を感じた私たち世代が動かなかったら、明るくなりにくいじゃないですか。どんどん若い人の人口は減っていて、彼らが背負うものが増えていく一方ですから。

将来世代に課題を先送りしないために、私が三角座りをする程度で未来にチャンスが切り開けるのであれば、子どもと過ごす大事な時間を費やしても、挑戦がどんなに難しくヘトヘトになっても挑み続けようと思ったんですよ」

そんな中井が目指す「自分の未来を自分でコントロールできる婦人科医療」とは? 最終回では、彼女が掲げる将来ビジョンを紹介する。

(敬称略・明日に続く)

古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」に執筆多数。著書に『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)など。


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