想定より11年早い少子化。創りたいのは、初潮から閉経まで自分でコントロールできる未来【ARCH CEO・中井友紀子4】

ARCH CEOの中井有紀子さん。

撮影:伊藤圭

2023年3月、ARCH代表取締役CEOの中井友紀子(36)は、出資者であるANRIのイベントに登壇。たちまち会場はアットホームな雰囲気に包まれた。

というのも、中井が聴衆を前に笑顔で事業を語る際、1歳の娘を片腕で脇に抱いていたからだ。イベントの開催時間が保育園へ預けられる時間外であり、主催者に子連れでの登壇を許可してもらっていたという。

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提供:ARCH

ARCHは中井の娘が誕生した2カ月後、2021年に創業した会社だ。思えば事業を着想したのも、2人目の不妊に悩み、治療を経て授かることができた経験があったから。治療の過程では、身体的、精神的、社会的、経済的な「患者の痛み」が存在することも肌身に感じた。そうした経験なくしては、産み落とされなかった会社なのだ。

「もはや娘は、『隠れファウンダー』。彼女を望まなければ、知ることが出来なかった大切な事を気づかせてくれたので、ともに挑戦している感覚です」(中井)

「拡散力」で情報格差を埋める

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中井は産婦人科で血液検査をしただけで、排卵していないことが分かったという(写真はイメージです)。

撮影:今村拓馬

中井は3つの不妊治療クリニックに通い、30歳の頃にようやく多嚢胞性(たのうほうせい)卵巣症候群という不妊の原因を抱えていたことに気がつく。

「汲々に働いて、子どもが出来にくくなってから身を粉にして不妊治療をすることになって、続けられなくなって仕事を辞める。残念ながらこれが今の日本における不妊治療の現実です。『クリニックに駆け込んだ日が一番若い』とはよく言われますが、そうした差し迫った状態を私も味わいました」

妊孕性(産むために必要な力)には限りがあることも、不妊治療を受けて初めて知ったと打ち明ける。

「血液検査一つで排卵していないと分かった。それは不妊治療を行う医院を受診しておけばすぐに分かったことで、不妊の可能性に早期に気がつけた。なのに私は、20代の頃は忙殺され、月経周期の異常があっても『生理が来なくてラッキー』ぐらいに考えていました」

未来につながる選択肢自体を人に手渡していくには、情報という橋を架ける必要がある—— 。そう気付いたからこそ、「ARCH」(弓状の橋)の名を冠した事業に奔走してきた。中井が真に取り組みたいのは、情報格差を埋めて「産みたいと思った時に産めない現実とのギャップを解消すること」なのだ。

妊孕性の理解増進と、早めの受診の大切さの啓蒙には、メディアの「拡散力」が欠かせない。そうした発信は、TRILL(トリル)、ヤフーなどデジタルメディアを主体とする事業でマネージメント職を歴任した中井の得意とするところだ。

デジタルならではの「自然な介入」

「torch(トーチ)クリニック

東京・恵比寿に位置する「torch(トーチ)clinic」は月に800人もの患者が訪れる。

提供:ARCH

ARCHでは、フラッグシップの医療機関として2022年にプロデュースしてスタートした「torch(トーチ)clinic」を入り口に、不妊治療領域のDXを推し進めている。

現在は、予約・事前問診・事後決済までを一つの受診アプリで完結できるシステムを構築。さらに、メンタルの状態を事前の問診から抽出し、定量化する仕組みを取り入れた。

受診前の問診で、患者さんには10段階の「元気度」を尋ね、蓄積したデータとかけ合わせて気持ちの変動を可視化する。「うつになる手前」で医療者側からカウンセラーの介入へとスムーズにつなぐことも可能にした。

torch clinic が、かかりつけ医として必要なデータを積み重ねていけば、ライフステージに応じたコミュニケーションもできるはずだと中井は言う。

「自然に介入できればいいですよね。例えばお子さんを授かれたら、産んで3カ月くらい経った時にも、必要そうだと感知した場合に産褥期ならではのつらさをカバーしてあげられる。『つらそうでしたら、お話聞けますよ』と提案してみたり。デジタルだから実現できる優しさというのがあると思う」

電子カルテシステムも自社開発

ARCH CTOの椎野孝弘

ARCH CTOの椎野孝弘は、ヤフー時代は中井の上司だった。

そんな未来型の診療アプリ開発を一手に担っているのは、同社CTOの椎野孝弘だ。

椎野は、スタートアップの CTOを複数社歴任したスペシャリスト。経営者としての経験も豊富で、米国でMBAを取得後、IT企業2社をエグジットした経験を持つ。ヤフー時代は中井の上司でもあった。

中井の目指すDXは、彼女が掲げる大きな社会課題の解決からの逆算だけに、「飛び抜けてハードルが高い」と椎野は言う。

「アプリ開発にあたって、データ連携のために電子カルテシステムも自前で作った。僕らはIT畑出身で、医療のことは門外漢。それなのに婦人科・不妊治療診療に関するシステムを独自に作り替えるほどのとてつもない開発から始めたわけです」

だが医療者側、患者側の視点両面から、一つのソリューションに落とし込むのは一苦労だ。医療者の意向に耳を傾けると、モノの見方がエンジニアが考えるシステム開発の観点とまるで違う。「両者の考え方を擦り合わせて実現するのは予想以上にハードルが高い」と感じたという。

「ITと医療は水と油ぐらいに混ざりにくいカルチャー。両者とも専門性を背景に仕事をしているというのは共通していても、仕事の仕方、考え方、環境が異なる世界で生きてきたこともあり、お互いの考えがぶつかることもしばしばあります」

それでも中井には、逆風の中でも人を巻き込み、やがては目標達成につなげる「実行力」が備わっていると椎野は太鼓判を押す。

「ヤフー時代は、部長といえば40代以上という雰囲気だったのに対し、彼女は20代で部長に抜擢されたこともあり、とても異物感ある存在でした。他部署に協力を仰ぎに行った彼女が門前払いを喰らうこともしばしば。

そんな摩擦の中にあっても、彼女は一個ずつプロセスを踏みながら事業を前に向けていきました。複雑な生い立ちを跳ね飛ばしてきた人ですからね。粘り強いですよ、彼女は」

知ってほしい「リプロダクティブ・ヘルス」

厚労省の発表では、2022年の国内の出生数は約79万9千人。80万人を割った。想定よりも11年早く少子化が進んだことになる。社会としても、少子化の課題に向き合わねばならない局面にある。

中井は「そもそも婦人科にかかるカルチャーが醸成されていないこと」を問題視する。海外の製薬企業の調査では、日本の婦人科の受診経験者の割合は55%であり、約半数は未受診だという実態が浮かび上がった。

ARCH CEOの中井有紀子さん。

撮影:伊藤圭

「私たちが広げていきたいのは、患者が自分の未来を自分でコントロールすることにつなげてくれる、かかりつけ医としての婦人科/生殖医療のプラットフォーム。

ライフステージの早い段階から女性たちが選択肢を持つことは、『未来を創ること』にもつながっていきますから」

初潮を迎えて生理が不安だったら、それだけでも気軽に受診していい。気になる人は、卵子の状態を婦人科で把握しておけばいいし、仮に今しばらく産まないのであれば、月経をスキップするなどの方法でコントロールするという手段も取れる——。

そんなふうに、初潮から閉経まで、ライフステージを見据えて未来を自分でコントロールしていく「リプロダクティブ・ヘルス」の観点が世に広まればいいと中井は考えている。

なぜなら、不妊治療を通じて出会った婦人科の医師たちは、リプロダクティブ・ヘルスの考え方の大事さを伝えたい気持ちを強く持っていたからだ。「診察室で叫びたい気持ちでいる」という彼らの声を直に聞いた。

「婦人科医たちの本音を、私たちが利用者側に伝わるように変換して、拡声器のように叫んでいくことも重要だと思っています」

将来的には、自分の残存卵子がどの程度あるか、不妊治療をして採った卵の状態といった情報も、患者自身が把握できるようにしたい。そのため、それらの情報をアプリで提供し、利用者の代わりに過去の治療内容や気をつけねばならない事を記録し、将来の選択肢の幅を広げて実行できるようにするべくアップデートを重ねていく。中井はそんな構想を明かした。

「産む産まないは個人の自由です。ただ、知らないで選べない人がとても多いのも事実。より正確な自分の事を簡単な検査などで知った上で、いつどう授かりたいかから人生設計ができるようになると、未来観は変わってくるはずです。私は、みんなそれぞれの『人生の選択肢』を増やしていきたいんです」

中井の目は、すでに「変わりゆく未来」に向けられている。

(敬称略・完)

古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」に執筆多数。著書に『「気づき」のがん患者学』(NHK出版新書)など。


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