「働く」とはなにか。30冊の本で考える、仕事の本来と未来

ほんのれん旬感本考

編集工学研究所

「首尾一貫した目的があるだけでは人生を幸福にするのに十分とは言えないが、それが幸福な人生にとってのほとんど不可欠の条件であることもたしかだ。そして首尾一貫した目的は、主として仕事において具現化される」 

ー バートランド・ラッセル(哲学者、数学者)

はじめまして、編集工学研究所です。

本楼

編集工学研究所のオフィス兼ブックサロンスペース「本楼(ほんろう)」。6万冊の蔵書に囲まれて活動している。

編集工学研究所

編集工学研究所は、所長である松岡正剛が創始した「編集工学」を携えてさまざまな活動に取り組んでいるエディター集団。世界のあらゆる営みを「編集」ととらえ、人や組織や地域の「編集力」を引き出すのが私たちの仕事だ。理化学研究所との共同事業「科学道100冊」、無印良品の「MUJI BOOKS」、近畿大学の図書館「ビブリオシアター」のプロデュースなど、本の目利きをする仕事も多く手掛けている。

そんな私たちがいま取り組んでいるのが、「ほんのれん」というプロジェクトだ。

本でつながる「ほんのれん」

「ほんのれん」は、「本の連」でもある。「連」とは、江戸時代に俳諧や浮世絵などの多様な文化を生んだ有志のネットワークのこと。芭蕉や北斎のようなスターもここから生まれた。江戸時代の「連」のような生き生きとした創発の場を、「本」の力で現代に蘇らせたい。ほんのれんは、「問い」と「本」をきっかけに対話が生まれ、人々がつながり、気づきが連なっていくことを目指す場だ。

なにもかもが加速化する現代において、なぜあえて「本」なのか。大量の情報が勝手に選別されて自動的に届く時代だからこそ、本という「スローメディア」が担える役割は大きい。自分のタイミングで手に取り、自分のペースでページをめくる本は、読者のリズムで考える余地を提供する「遅い」メディアだ。情報過多に溺れる日々の中で、もどかしいほどの余白を抱えた本こそが、私たち自身が考え、悩み、慎重に選択するための手すりを辛抱強く差し出してくれる。

ほんのれんでは、小さなライブラリースペースをオフィスや学校に設置し、月ごとに特集テーマの「問い」と、その問いを考えるための5冊の本「旬感本」をお届けしている。この連載では、ほんのれん編集部の山本春奈が、旬感本を選書する過程の七転八倒の舞台裏をお見せしつつ、どんな本からどんな発見や驚きが得られたかをご紹介。立ち並ぶ本の路地にみなさんをお誘いして、毎月の問いを一緒に考えていきたい。

「働く」ってなんだ?

ほんのれん編集部が今回設定した問いは、「働くってなんだ?」。生活や環境の変化が多いこの時期に、改めて「働く」や「仕事」について考えてみたい。

「働く」を問うために、どんな本がヒントになるだろう。編集工学研究所では何かを考える際に、本を1冊ずつ読むのではなく、関係する書物30冊ほどを図形のように配置して、いっぺんに読み進める。所長の松岡正剛が「configuration(コンフィギュレーション)」と呼ぶ読書法だ。

30冊のうち読む必要がないと思ったものは途中でやめ、これは重要だと思った本は目次から最後までじっくりと精読する。そうすることで、テーマの系譜を追い、自分なりの見取り図を描くことができる。

コンフィギュレーション

編集工学研究所

働くの「そもそも」をほぐす

そもそも、働くとは何をすることだろうか。漢字の起源を紐解く『常用字解』には、「働」という字についてこう書いてある。

「働はわが国で作られた字であるが、明治以後の欧米語の翻訳語に使用したものであろう。(中略)のち中国でも使用されるようになった」
ー 白川静『常用字解』

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『働くことの哲学』は西洋の「働く」観の変遷を遡りながら、「仕事とレジャー」や「管理されること」「給料をもらうこと」などについて詳細に論じる。

撮影:編集工学研究所

これはちょっと意外だ。「働」という文字自体が、日本では明治期になってようやく登場したという。だとすると、今の私たちが日常的に使っている「働く」という言葉のルーツは西欧にあるのだろうか。

働くという概念の正体が気になり始めた編集部は、まずはストレートに「働くとは何か」に答えてくれそうな本を集めてみた。

なかでもラース・スヴェンセンの『働くことの哲学』は、「働くってなんだ?」の最初の「?」に十二分なヒントをくれそうだ。

忌避すべきものから、誠実に勤しむべきものへ

スヴェンセンいわく、古代からルネサンス期までの西欧世界では「労働=無意味な災い」と見なされており、これがルネサンス期以降、「労働=有意味な天職」という見方に転換して今日に至っている。

古代ギリシアの哲学者たちは、労働とは生活のためにやむを得ず行われるものであって、そのような必要に迫られた強制的な活動は人々を貶めるものだと考えた。特にアリストテレスやプラトンは、身体的拘束をもたらす労働がもっとも卑しむべき活動だとした。

このような考え方は古代ローマやユダヤ教、キリスト教の価値観に引き継がれていき、旧約聖書に描かれた「エデンの園からの追放」が象徴するように、労働は神から罰として与えられた義務であり苦役であるとされた。

これが大きく転換するのが、16世紀のプロテスタンティズムの登場によってだった。マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにしたように、宗教改革を牽引したマルティン・ルターやジャン・カルヴァンは労働こそ神から与えられた召命であると説いて、天から与えられた仕事、すなわち天職に誠実に励むことが神に仕える最上の方法だとした。この労働観の転換が、勤労と蓄財への意欲を解放して、後の経済成長と資本主義の発展につながっていく。

西洋社会の中だけでも、「働く」をめぐる価値観は時代を経てこんなにも変わってきた。そう思うと、今私たちが持っている「普通に」「ちゃんと」「しっかり」働くことという当たり前や常識も、揺さぶってみる甲斐がありそうだ。すると例えば、こんな疑問が湧いてくる。逆に、「働かない」とはどういうこと?

「働かない」もアリなのか?

資本主義と一体化して発達した勤労観は、「たくさん働き、もっと稼いで、ますます買って、より豊かに暮らす」ことを目指す模範的な労働者像をつくりあげた。人や機械がバリバリ働き、どんどん生産する経済では、作ったものを次々買ってくれる存在が必要だ。

こうして、近代以前は特権階級に限定されていた浪費・消費という活動が、徐々に労働者や一般の大衆向けにも解放される。大量生産・大量消費時代において、働き手は生産と消費を一手に担うことになった。平日に働いて、稼いだお金で週末にせっせと買い物する。私たちは休んでいる間も、消費者として経済活動に参加している。

真面目に働くのは優秀な消費者になるためか?と思うと、ではいっそ「働かない」という選択肢はアリなのか、気になってくる。トム・ルッツは『働かない』の中で、怠け者と呼ばれた人々への膨大なインタビューや観察を行い、いわば「働かないことの哲学」を探った。それはオスカー・ワイルドとフリードリヒ・ニーチェの次の言葉に凝縮されている。

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