撮影:千倉志野
今では和菓子のMISAKY.TOKYO(ミサキトウキョウ、以下MISAKY)の会社から海藻加工技術企業に転じようとしている三木アリッサ(31)がアメリカで起業し、法人登記をしたのは、2019年9月12日だ。この9月12日という日付には三木の特別な思いがある。
銀行員の父とアーティストの母の間に生まれた三木は、小学校までは日本とアメリカを行き来しながら育った。
2001年9月11日。ニューヨークのワールドトレードセンターやワシントンD.Cの国防総省などアメリカの中枢がテロに襲われたその日、三木はアメリカに遊びにきていた祖父母らとフロリダのディズニーワールドに遊びに出かけていた。
もしフロリダまでの飛行機のチケットが取れていなかったら、家族でワールドトレードセンターに観光に出かける予定もあった。
テロ直後、米本土への飛行機の離発着は全てストップした。それでも多くの人たちが旅先から家族の元に戻ろうと空港に詰めかけた。日本への帰国を決めた三木の家族も、ニューヨークのJFK空港で飛行機が飛ぶのを待った。
テロのショックからか空港に集まった人たちは打ちひしがれ、疲れ切っていた。椅子もいっぱいで、三木たちも床に座り込んでいた。
そんな中、赤十字のボランティアの人がお菓子を配ってくれた。ハリボーのグミベア。その小さなお菓子で、これから自分たちはどうなるんだろうという不安感が少し収まり、人心地つけたという。
その時の体験が三木に「お菓子の力」を感じさせ、和菓子事業を始める一つのきっかけになっている。あの時の思いを忘れないように、と翌日の9月12日を会社設立の日に選んだのだ。
スーツケース2つと貯金200万円で渡米
起業当初、自宅でMISAKYのレシピ開発に取り組む三木。
提供:Cashi Cake Inc.
三木が大学時代からさまざまなベンチャーや外資系企業でマーケターとしての経験を積んできたことは前回も書いたが、渡米時はアメリカで強力なツテがあるわけでも資金調達に成功していたわけでもなかった。
アメリカに持参したのはスーツケース2つだけ。1つは日本で購入した和菓子作りに必要な器具やゆずピールなど材料でいっぱいだった。起業資金は、貯金200万円だけだった。
それでも少しでも早くアメリカに、決断したのは、「時間がない」と感じていたからだ。今、食やアニメや漫画といった日本の食や文化は世界中で大人気だが、ドラマや映画では韓国のコンテンツが勢いづき世界を席巻している。
「日本のカルチャーや日本人のことが好きな人って、アメリカでは白人の30代40代が中心なんです。この世代がビジネスの世界で力を持っている今、もっと日本は自分たちの文化を海外に発信した方がいいと思っていて。そのチャンスは実はあと5年、10年ぐらいしかない。アメリカで勝負できるラストチャンスだと私は思ってるんです」
起業の地をニューヨークでもなくサンフランシスコでもなく、ロサンゼルスを選んだのは、新しいフードが生まれる土地だったからだ。
だが、ロスには日本の起業家も少ないため起業家コミュニティもなかった。毎日朝9時から昼まで家のキッチンでレシピ開発をして、午後から夜中の2時までは生活費を稼ぐために日本企業のマーケティングの仕事を請け負って働いた。
「最初は誰にも頼れず、友達もいなくて本当に寂しかった。発散する場所もなくて悩みを打ち明けられる人もいない。
たまに会う日本人や投資家には、『日本人の女の子なのに頑張ってるね』と言われるけど、そこには『どうせ成功するわけない、ま、頑張って』というニュアンスが含まれていたんですよね」
200万円の貯金はみるみる減っていった。ロスは車社会なのに自動車も買えず、自転車で移動していた。安い脂たっぷりのパンばかり食べていたら3カ月で15キロ太った。渡米した年の12月、外部にキッチンを借りるため20万円を支払わなくてはならない時、貯金は15万円を切っていた。
「どうしよーとなっていた時に初期の投資家の方からのお金が入って……入金を確認した時に、ほっとして『うわーっ』って声が出ました。
その方自身は一切甘いものは食べないのに、『アメリカで挑戦する』と言ったら、試作品もできてない時から投資をしてくれて。あの時は本当に救われました」
離婚後に倒れても立ち止まれなかった
MISAKYが評価され、海藻の加工技術の企業に軸足を移し、より大きな米市場に挑戦しようとしている時期に、私生活では大きな変化があった。結婚して7年の夫と離婚したのだ。
不登校の時期も長く、他人とうまく付き合うことができなかった三木にとって、大学時代にバイト先で出会った夫は初めて心を許せる相手だったという。
アメリカから帰国した三木は学校に馴染めず、小学校時代は不登校が続いた。いじめもあった。中学時代はほとんどを保健室で過ごした。
アメリカで生まれ育った三木にとって、日本の学校生活には違和感を抱く瞬間が多々あった(写真はイメージです)。
Milatas / gettyImages
「10年もずっといじめに遭っていると、自己肯定感がゼロになるんです。生きてる価値も意味も分からず、この世の中に自分の居場所はないと感じていました。自分で命を断とうとして救急車で運ばれたこともありました。
そんな私を社会復帰させてくれたのが元夫。本当に感謝しているし、私にとってはヒーローのような人でした」
マーケティングの仕事にはやりがいを感じていたものの、上司と合わず転職したこともある。そんな時も、元夫は「頑張ってるよ」「そのままでいいじゃん」と肯定してくれた。
ハードウェアのエンジニアだった元夫は、アメリカからリモートで仕事ができるようにとソフトウェアのエンジニアに職種転換して、三木の渡米から1年後、アメリカにも来てくれた。
「だけどある時から2人が目指している人生のゴールが少しずつズレて来てしまって。2人ともアメリカでギリギリのところで踏ん張って頑張っていたから、ヘトヘトで疲れてしまったいうこともあると思います」
離婚を決意してから、三木は体調もメンタルも大きく崩した。一方、会社は急成長を遂げようとしていた。2022年の売り上げは前年比で2.5倍に。体はつらかったが、日本にたびたび帰国して投資家や取引先を回り、資金調達に奔走した。
Cashi Cake Inc.のメンバーたちにも三木は支えられてきた。
提供:Cashi Cake Inc.
「どんなに私生活でつらいことがあっても、いろんな人にお金を出してもらい事業を始めて人も雇っていると立ち止まれない。いろんな人を巻き込んでしまっているので。
それに私が失敗したら『やっぱり女性では無理だ』と思われ、次の人たちが挑戦しにくくなる。ここで潰れるわけにはいかない。その思いに突き動かされている感じでした」
しかし、三木が体調を崩したことで、会社のメンバーは成長した。三木自身が動けない分、メンバーに権限を委譲していったからだ。
「1番ひどい時は倒れて寝込んでしまったのですが、当時のメンバーには私の危機を乗り越えられるだけの力ができていたんです」
(敬称略、明日に続く)
浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。週刊朝日編集部などを経て、1999年からAERA編集部。副編集長などを経て2014年から編集長に就任。2017年3月末で朝日新聞社を退社し、4月よりBusiness Insider Japanの統括編集長に。2020年12月末に退任し、フリーランスのジャーナリストに。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーター、ダイバーシティーや働き方改革についての講演なども行う。著書に『働く女子と罪悪感』『男性中心企業の終焉』『いいね!ボタンを押す前に』(共著)。
衣装協力:Desigual、ABISTE