マイクロソフト(Microsoft)は、2022年に傘下に置いたニュアンス(Nuance)と、出資先OpenAIの次世代大規模言語モデル「GPT-4」を組み合わせて、医療現場の技術革新を加速させようと動き出した。
Microsoft/Nuance/Business Insider Japan
マイクロソフトは2022年3月、197億ドル(約2兆1500億円)という巨額を投じた医療機関向け人工知能(AI)・音声認識大手ニュアンス(Nuance)の買収手続きを完了させ、ヘルスケア関連ビジネスを一気に拡大する体制を整えた。
ニュアンスはいま、対話型人工知能(AI)「ChatGPT(チャットジーピーティー)」の登場で一気に存在感を増した生成AI技術を、自社開発の次世代製品に搭載することで、医療現場に画期的な変革を起こそうとしている。
ヘルスケア関連団体が近ごろ主催した国際会議の場で、ニュアンスは同社が描く青写真の一部を示した。
ニュアンスは対話型AIや音声認識技術に強みを持ち、アップルのスマートアシスタント「Siri(シリ)」に基盤技術を提供したことでも知られる。
1992年創業、96年に医療現場向け音声入力ツールを開発したニュアンスは現在、ヘルスケア業界向けのSaaS(ソフトウェア・アズ・ア・サービス)を主力事業とする。
音声で医療記録を作成できるツールと言っても、一般の人にはいまいちピンと来ないかもしれないが、医師をはじめとする医療従事者にとってはまさに「福音」だ。
医療業界は慢性的な人手不足と働き過ぎによる燃え尽き症候群に悩まされており、その一因が際限なく増え続ける管理業務・事務処理にある。
「2015年の時点で、この(音声による自動医療記録という)構想の実現を熱望する医療現場の声ははっきりと聞こえていました」
ニュアンスのピーター・ダーラッハ最高戦略責任者(CSO)は今年4月、Insiderの取材にそう答えている。
マイクロソフト傘下に入ったニュアンス(Nuance)のピーター・ダーラッハ最高戦略責任者(CSO)。
Nuance
ダーラッハとジョー・ペトロ最高技術責任者(CTO)は、知り合いの医師10人にこのアイデアを売り込んだ。まだアイデア段階にも関わらず、「あれだけ大きな反応があったのは、私たちのキャリアの中でも初めてでした」とダーラッハは振り返る。
基本的には、話を持ち込んだ全ての医師が「もしそのアイデアを実現できたら、私の医師としての仕事環境は激変するでしょうが、残念ながら実現するとは到底思えません」との反応だった。
ところが、ニュアンスは独自の音声認識技術「Dragon(ドラゴン)」とAIを組み合わせることで、医師と患者のやり取りから臨床メモを自動作成するソリューションの開発を成功させる。
マイクロソフトがニュアンス買収を発表した2021年4月当時で、全米の医師の55%以上、医療機関の77%がニュアンス製品を採用しており、そのシェアはいまや圧倒的だ。
現在の医療業界向け主力製品「Dragon Ambient eXperience(DAX)」では、診察時のやり取りから症状、経過、治療などの臨床メモ(下書き)を自動的に作成し、それを医師が確認・編集した上でクラウドに保存する。臨床メモは医師の承認を経て、患者の電子医療記録(カルテ)に登録される。
マイクロソフトによるニュアンス買収後、DAXはヘルスケア分野に特化したクラウドサービス(Microsoft Cloud for Healthcare)に統合された。
ただ、課題があった。診察時の音声を記録し、臨床メモの自動作成を完了するまで数時間かかっていたのだ。
2020年以降、ニュアンスは自動作成高速化の実現に向けた研究開発を続けてきたが、それを急加速させたのが、マイクロソフトによる対話型AI「ChatGPT」の開発元OpenAI(オープンエーアイ)への大規模追加出資と提携拡大だった。
マイクロソフトとニュアンスは今年3月、ChatGPTの基盤技術である次世代大規模言語モデル「GPT-4」を組み合わせた臨床文書自動作成ソリューション「DAX Express」を発表した。
これまで数時間かかっていた臨床メモの自動作成はわずか数秒で完了するようになり、かつ精度も向上した。今年夏にもプライベートプレビュー(一部ユーザー向けに早期アクセスへの参加呼びかけ)開始の予定だ。
ニュアンスの臨床文書自動作成ソリューションを利用する55万人以上のユーザーにとって、「これは異なるステージにステップアップする根本的な技術変革です」と、ダーラッハは強調する。
会話の文脈を理解し、医療用語を操るAI
米医療情報管理システム協会(HIMSS)は4月17〜19日、シカゴの巨大コンベンションセンター、マコーミックプレイスで国際会議「グローバル・ヘルス・カンファレンス 2023」を開催した。
会場の一角には招待者限定の展示スペースが設定され、ニュアンスもブースを出展していた。Insiderはそこで、生成AIが医療現場にもたらす変革の一端を垣間見ることができた。
ニュアンスのブースには、模擬的な「急患クリニック」が設けられ、同社のコンサルタントであるジュリー・オコナー医師が、患者役のボランティアに来院の理由を尋ねていた。
オコナー医師の背後に置かれたスクリーンには、彼女と患者との台本のない会話をDAX Expressが一字一句記録していく様子が映し出された。
うっ血性心不全の既往症があるというその患者は「ここ数日、夜にベッドで横たわると呼吸が苦しくなります」と訴えた。さらに「足のむくみはありますか」とオコナー医師が尋ねると、「靴が少しきつい気がします」と患者。
こうした会話や医師の所見から精度の高い臨床メモを自動作成するには、文脈を理解し、専門性の高い医療用語を自由に扱えなければならない。
オコナー医師は、患者の下肢に「3+(プラス)レベルの孔食性浮腫」を確認し、足がかなり腫れていることを説明。肺の聴診では、肺炎や肺水腫の場合に聴かれる「クラックル(破裂性、断続性の雑音)」も認められた。腹部の「肝脾腫(肝臓と脾臓の腫れ)」は見られなかった。
こうした医師の発言に散りばめられた専門的な用語を、DAX Expressはいずれも正しく表記した。
診察の結果、オコナー医師は患者を救急病院に搬送すべきと判断。数秒後には臨床メモができ上がり、オコナーはそれを患者の電子カルテに登録、救急病院がいつでも参照できるようにした。
米医療情報管理システム協会(HIMSS)主催のカンファレンスで、生成AIを使った臨床メモ自動作成アプリのデモを行っている様子。
Nuance
実はこの臨床メモにはいくつかの間違いがあった。
例えば、当初は患者が「そのように身に付けました(I put on it that way)」と言ったと記録されたものの、DAX Expressが会話全体の文脈を理解して「少し体重が増えたようです(I've put on a bit of weight)」と、臨床メモの作成時に修正した。
こうした修正が全て自動的に行われたことを、現場にいたニュアンスの従業員が説明した。
それでも、最後に一つだけメモに間違いが残った。オコナー医師が口頭で所見を訂正した部分が正しく反映されていなかったのだ。彼女は浮腫の説明について、最初「孔が開いていない」と言った後、「孔が開いている」と訂正していた。
しかし、そのシステム側が犯した唯一のミスについては、自動作成された臨床メモを編集する最終段階でオコナー医師自身が修正し、結果的に正確なメモを電子カルテに登録できた。
ニュアンスは先述のプライベートプレビューを経て、今年後半にはより広範なパブリックプレビューへと移行する計画だ。
AIが救急医療や在宅医療を変革する
前節のカンファレンス会場でニュアンスは、AIを使った既存製品、開発中の製品、開発構想段階の製品を組み合わせた、救急医療や放射線医療、在宅医療の未来の現場を展示した。
例えば、救急担当の医師が患者の容体を診た上で必要な検査項目をリストアップし、チャットボットに「ヘイ、ドラゴン、胸部X線検査を頼んで」と指示すると、放射線検査部門にその指示がすぐに伝えられる。
2023年4月に開かれたHIMSS主催のカンファレンスで、ヘルスケア領域における生成AIの可能性について議論する専門家たち。
HIMSS
ドラゴンと呼ばれるスマートアシスタントはまだ開発構想の段階だが、単に緊急担当医の指示(今回の展示では胸部X線検査)を伝達するだけでなく、患者の健康記録から関連情報を引き出して、放射線科の医師やレントゲン技師に提供することもできる。
看護師用のモバイルアプリも開発中だ。
緊急入院した患者が数日経って回復し始めたころ、看護師が病室を訪ねて患者に体の具合を尋ねると、DAX Expressと同様にモバイルアプリが会話を記録していく。会話が終わった後、看護師が患者の尿量などを入力すると、看護記録が自動で完成する。
退院後も、AIが患者をサポートする。ニュアンスが開発中の総合ヘルスケアアプリは、治療歴や薬歴の管理、診察予約などのナビゲーション役を担い、患者とその家族をサポートする。
例えば、ヒスパニック系の患者が自分に処方されている薬のリストをアプリに要求すると、すぐにリストを表示した上で、それぞれの薬についてスペイン語で説明してくれる。
また、このアプリは健康維持や病気予防に関する疑問に答え、助言を提供するホームドクターのような役目も果たす。
患者役が、アプリに「ケトダイエット(炭水化物の摂取を制限し、適度なタンパク質を摂りながら脂肪の燃焼を増やす食事法)をやっているんだけど、何か問題ある?」と尋(たず)ねると、「ケトダイエットは血圧を上げる可能性があります。心臓の負担が大きくなるため、うっ血性心不全の既往症がある人にはお勧めできません」と答えた。
このように、ヘルスケア領域におけるAIの活用は、診察・治療の現場から、治療後のモニタリング、病気の予防まであらゆる分野に広がろうとしている。
マイクロソフトは2007年にローンチさせた個人向け健康・医療記録管理サービス「HealthVault(ヘルスボルト)」を2019年に中止するなど、これまでヘルスケア関連事業で目立った成果を上げることができなかった。
医療業界に確固たる地盤を持つニュアンスと、OpenAIの生成AI技術を組み合わせることで、今後急速な市場拡大が見込まれるヘルスケアAI市場における「一発逆転」を狙っているように感じられた。