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世界の基軸通貨といえば米ドルだが、新興国では、特に左派政権の下で、その米ドルによる「支配」から脱却しようという動きが定期的に盛り上がるものだ。1月に再登板というかたちで就任したブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ大統領(ルラ大統領)もまた、そのような米ドル支配からの脱却を重視する政治家の一人だ。
(注)ロシアルーブルは不明、インドルピーは0.8%、ブラジルレアルは0.4%。
(出所)国際決済銀行(BIS)
そのルラ大統領は就任早々、隣国アルゼンチンを訪問した際、同国のフェルナンデス大統領に対して、米ドルによる「支配」からの脱却を進めるため、両国間の貿易決済に用いる共通通貨を創出しようと持ちかけた。厳密な意味での通貨統合ではなく、貿易決済にのみ用いる通貨を「デジタル通貨」で発行しようというのだ。
ブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ大統領。5月、ブラジリアでオランダのルッテ首相との会談後に歩く姿。
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ルラ大統領はこの「デジタル通貨」の名称を、スペイン語で「南」を意味する「スル(sur)」にしようと提唱し、このスルを南米全体(いわゆる、メルコスールと呼ばれる南米南部共同市場)に拡げようという理想も抱いている。メルコスール全体でスルが利用されれば、米ドルによる「支配」の脱却が進み、南米での市場統合も促進されるとルラ大統領は主張する。
さらにルラ大統領はBRICS諸国、つまりブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの間でも、貿易決済に用いる共通通貨を創出する構想を抱いている。ルラ大統領は有力な新興国であるBRICSの間で共通通貨が利用されれば、米ドルによる「支配」からの脱却が一段と進むと考えているようだ。そのため、BRICSの雄であり新興国の雄でもある中国に期待を寄せている。
実際にルラ大統領は、4月中旬に中国を訪問して習近平国家主席との会談に臨んだ際、BRICS 間で共通通貨を創設する構想を持ちかけたようだ。BRICS間で共通通貨を創出した場合、その信用力を提供するのは、他ならぬ中国となる。言い換えれば、中国を除くBRICS諸国で共通通貨を創出したとしても、その信用力は乏しいままとなる。
ルールベースでの経済運営は新興国にはまず不可能
4月14日、中国・北京で開かれた歓迎式典で習近平国家主席とともに歩くルラ大統領。
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仮にメルコスールが貿易決済に用いる共通通貨を創出し、さらにそれがBRICS間の共通通貨と統合した場合、米ドルを中心とする貿易決済の在り方は変わる。米ドルによる「支配」からの脱却も進むことになるだろう。とはいえ、それがルラ大統領の提唱するデジタル通貨の発行によって達成されるとは考えにくい。
共通通貨が信用力を持つためには、ユーロのような「通貨統合」が必要となるはずだ。しかしルラ大統領は、共通通貨を貿易決済に限定し、同時に各国の通貨を維持する構想を持つ。各国民が貯蓄手段・交換手段としても共通通貨を用いない限り、その信用力は高まらない。
通貨統合を図らないデジタル通貨の形態と採るとしても、決済通貨の信用力を高めるためには、各国が一定の幅で共通通貨と各国通貨の為替レートを維持する必要がある。そのためには、インフレを抑制するなどルールベースでの経済運営を徹底する必要があるが、それがブラジルなどの新興国に果たして可能なのかという根本的な疑問がある。
メルコスール諸国で米ドルによる「支配」からの脱却を訴えるのは、ほとんどが左派政権だ。共通通貨を提唱するブラジルのルラ大統領自身、同国を代表する左派の大物政治家であり、バラマキ志向が強いことで知られている。そうしたバラマキ志向が強い左派政権が、ルールベースでの経済運営を徹底できるとは、まず考えられない。
中国にとっても望ましいは言えないBRICS共通通貨
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BRICS共通通貨に話を転じると、その創設をブラジルから持ちかけられた中国が、この構想を支持しているとも考えにくい。
確かに中国は、米ドルに代わる決裁網として、いわゆるCIPS(人民元決済システム)の整備に努めるなど、人民元の国際化を重視している。しかし、ブラジルが提唱する共通通貨構想とは、必ずしも親和的ではない。
人民元の国際化を、中国が途上国を経済的に「支配」する動きと評する向きもあるが、そもそも中国が人民元の国際化を進めれば、中国は人民元が普及した第三国で生じた経済的なショック(財政危機や国際収支危機)のコストを、否応なしに負担せざるを得なくなる。そのため中国は、慎重に人民元の国際化を図ろうとしている。
同じ理屈で、中国がBRICS共通通貨に参加すれば、それが貿易決済のみの利用だとしても、他のBRICS諸国で発生した財政危機や国際収支危機の悪影響を中国は負うことになる。また共通通貨を守るためには、世界第2位の経済大国である中国が否応なしに危機対応支援の矢面に立たなければならない。そうした強い意志を中国の習近平政権が持っているとは考えられない。
それに、中国に並ぶ雄であるインドがBRICS 共通通貨の導入に前向きになることもないだろう。BRICS共通通貨に参加すれば、インドに対する中国の政治的・経済的な影響力は否応なしに強まる。国境問題や通商摩擦を抱える両国の関係は複雑であるため、インドからすれば、できるだけ中国の影響を排したいのが本音だろう。
先進国以上に一枚岩ではない新興国
2019年、ブラジリアで開かれたBRICSサミットで習近平国家主席とともに歩くロシアのプーチン大統領。
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ロシアもまた、BRICS共通通貨に対してネガティブなはずだ。
共通通貨に参加して、財政支出等、経済政策にルールベースでの運営が義務付けられた場合、軍事支出にも制限が科される。ロシアの場合、仮にウクライナとの間で停戦が成立しても、軍事費は長期的に高止まりせざるを得ない。そうした状況をロシアが受け入れるなど、非現実的だ。
ルールベースでの経済運営を余儀なくされるくらいなら中国の人民元を貿易決済に利用したほうが、ロシアには好都合となる。すでにロシア国民にとって、人民元は、利用が制限されている米ドルやユーロの代替通貨となっている。
こうして整理すると、ブラジルが提案するBRICS共通通貨構想は、「ブラジル以外の国にとっては不都合」な性格が強い。
いま、世界の構図を先進国と新興国の対立と捉える向きもあるが、一方で新興国もまた決して一枚岩ではなく、政治的・経済的な対立を抱えている。
したがって、米ドルによる「支配」からの脱却が新興国共通の目標だとしても、その手法で新興国が一致することは、まず考えられない。ブラジルが語る理想を中国やインドの現実が許さない。
ブラジルが提唱するかたちでBRICS共通通貨が生まれることはないし、仮に生まれたとしても、それが米ドルの地位を脅かすことはないだろう。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です