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今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
アップルが同社のクレジットカード会員向けに、年利4.15%の預金サービスを始めました。これはカード社会のアメリカにスマホ決済を導入しようという狙いだと見る入山先生。顧客接点を多く持つBtoC企業が自社のサービスに金融機能を組み込む「エンベデッドネス・ファイナンス」の時代が来るとアップルの凄みはさらに増すかも、と指摘します。
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4.15%という高利率はなんのため?
こんにちは、入山章栄です。
いまの日本では銀行にお金を預けても、ほとんど利息がつきません。あるメガバンクの普通預金の年利は0.001%ですから、ほとんどゼロに等しい。
ところがこのたびアメリカで、年利4.15%というすごい預金サービスがスタートしたというニュースが入ってきました。
BIJ編集部・常盤
アップル(Apple)がゴールドマン・サックスと組んで提供している「Apple Card」というクレジットカードの会員に向けて、年利4.15%の利率がつく預金サービスを始めました。4.15%とはかなり高いですよね。もしかしたらアップルも「楽天経済圏」や「メルカリ経済圏」のように顧客の囲い込みをして「アップル経済圏」をつくろうとしているのでしょうか。入山先生はこのニュースをどのように読み解きますか?
いまアメリカでアップルが進めているのは、iPhoneに決済機能を持たせる仕組みづくりだと僕は思います。おそらくそのための布石として、年利4.15%という高金利でアップルの金融サービスの利用者を増やそうとしているのではないでしょうか。
アップルはApple Cardというクレジットカードを発行していますが、プラスチックのカードを持つというよりは、決済機能をiPhoneの中に組み込む使い方を想定しています。具体的にはiPhoneの画面を端末に読ませるとピピッと反応して支払いができる「Tap to Pay」というサービスを進めようとしている。
ここでアップルが使っているのが、「NFC」という非接触型の端末決済の技術です。NFCとは「Near Field Communication」の略で、われわれ日本人にはSuicaやFeliCaでおなじみの、かざすだけで情報を読み取る機能です。
いまや日本ではスマホで決済するのが当たり前になっていますが、実はアメリカはまだそこまで普及していないんですよ。
BIJ編集部・常盤
そうなんですか。意外ですね。
アメリカの決算手段はいまだにデビットカードやクレジットカードが主流です。そんなところへアップルは非接触型のスマホ決済を導入しようとしているというのが僕の理解です。
それを実現するには、アップルには2つ課題があります。
第一に、新たな決済システムを普及させるには、お金を払う側だけでなく、お店側にもそのための端末がなければいけないことです。なぜ日本でPayPayがこれだけ普及したかというと、我々ユーザーよりも、むしろお店側の導入が簡単だったことが大きい。PayPayは極論を言うとQRコードを印刷した紙1枚あればすぐに使えますからね。
一方Suicaなどに代表されるNFCは、情報を読み取るために専用の端末が必要です。これを導入するには、それなりにお金がかかる。いま日本中のコンビニでSuicaが使えるのは、単純に日本のコンビニに資本力があるから。小規模な個人経営のお店でSuicaが使えないのは、そういう端末を導入する経済的な余力がないからです。
ということは、アップルが同社の経済圏を築くには専用の端末を置かなければいけないけれど、それを置こうとするお店は限られるということです。
そして第二の課題は、アップルの端末であるiPhoneのシェアが、実はアメリカではそれほど高くないということですね。iPhoneは高いですしね。
iPhoneを持つ人はどういう層か
さて、ポイントはここからです。
そんなアメリカでiPhoneを使っている人たちは、それなりに所得が高い人だといえます。そんな人たちは、NFCが置けるような資本力のあるお店で買い物をするでしょう。
つまり、アップルはそういう富裕層に向けて、いままでアメリカにはなかった、iPhoneをかざすだけでピッと支払いができる仕組みをつくろうとしているのではないか。アメリカでは自己破産をする人が少なくありませんが、でもこの層の人たちはお金をちゃんと払ってくれる確率が高い。つまり与信がラクなはず。だからまずはそこをターゲットに定めたのだと思います。
特にいまアップルが力を入れているのが、2023年の4月から始めた“BNPL(Buy Now Pay Later)”というサービスです。これはその名の通り、「先に買ってあとでお金を払う」という仕組みです。「たまたま今だけお金がない」とか「来月になればお金が入るけれど、どうしても今すぐほしい」という人でも不自由なく買い物ができるというサービスです。でもこの仕組みも、やはり与信管理が重要にになりますよね。
最近はAIですぐに与信判定できるようになりましたが、いままでiPhoneを使ってきた富裕層であれば、過去の経歴から言っても「この人は踏み倒さない」「支払い能力もある」と判定できる。これらの理由からアップルは決済サービスに乗り出したのだと思います。
日常に金融サービスが「埋め込まれる」時代
そしてここから先は僕の考えですが、これからの時代はファイナンス(金融)がより重要になります。つまりわれわれ消費者の日々の行動には、「もっと気軽な金融機能がつけばいいのに」ということが、実はたくさんある。したがってあらゆるところでスムーズな金融機能が使えるようになると、世の中はとても便利になるはずです。これをエンベデッドネス・ファイナンス(埋め込み型金融)といいます。
その一例として、「学費」を考えてみましょう。僕のいる早稲田大学のビジネススクールは、ありがたいことにとても人気がありますが、2年間で学費が300~400万円かかる。そしてこれがいまは一括払いと決まっていて、受講者は学費を事前に払わないと入学できません。今まではこれが当たり前ですよね。
でも本来は、いまお金がなくても早稲田のビジネススクールを受けたい、MBAをとれば自分はもっと稼げるから出世払いであとで払いたい、という学生だっているかもしれませんよね。でも今の仕組みではこういう方は当校を受けにくい。われわれから見ても、潜在的に優秀な学生を逃している可能性もあるのです。
でも今後は、ファイナンスのテクノロジーと仕組みが発達すれば、「あなたは借金を踏み倒す人ではなさそうだから、学費を毎月〇万円ずつ、〇年ローンで払ってもいいですよ」となるかもしれないですよね。そうなればさらに優秀な学生に来てほしい学校側にとってもありがたい。
こんなふうに、われわれのありとあらゆる日常に金融機能がうまく入ると、世の中がすごく便利になりえるのです。これがエンベデッドネス・ファイナンスの一例です。
BIJ編集部・常盤
まだ少しイメージが湧かないのですが、それは金融機関がいろいろなサービスに乗り出すということですか?
金融機関も乗り出すでしょうが、BtoC系の事業会社のほうが顧客接点をたくさん持っていますよね。でも事業会社には金融機能がない。そこでその両者を取り持つプレイヤーが必要になる。これをイネーブル(enable:可能にする)という動詞に「~をする人」という意味をつけて「イネーブラー」といいます。おそらく新興のベンチャーやIT企業がイネーブラーの役割を果たすことになるでしょう。
いまの日本にも、すでにエンベデッドネス・ファイナンスに近い感覚でビジネスをしている会社があって、例えばそれがGOです。
GOでタクシーに乗って行先を告げると、もう降りるときには決済が終わっている。なぜなら目的地に到着する前に、AIが金額を割り出すからです。レシートはあとからオンラインで受け取ればいい。だからタクシーが停まった瞬間にサッと降りることができる。1秒でも早く降りたい多忙でせっかちな僕にとっては、これはすごく助かります。こんなふうに決済のタイミングをずらすのも、エンベデッドネス・ファイナンスの一例です。
オンライン上ではすでにアマゾン(Amazon)がBNPLに近いことをしていますね。支払い方法を選択するときに、「いまは払えないけれど、あとで払います」という選択ができる。それはその人のいままでの購買や返済の履歴から信用が測れるから。
これからエンベデッドネス・ファイナンスの時代が来ることを考えると、アップルは実に強いですよ。なにしろiPhoneという端末を持っている。アマゾンもBNPLに近いことをしていますが、残念ながら端末がない。人間は消費行動の大半を家の外で行うわけで、いつも持ち歩くスマホで決済ができたら、こんなに大きなビジネスはない。ここをアメリカではアップルが総取りできる可能性が出てきたかも、ということです。
BIJ編集部・常盤
アップルの預金サービスの年利4.15%というのはかなり思い切った利率ですが、まずはこれで利用者を増やすという狙いですね。
そうですね。まずはアップル経済圏に人を呼び入れるため、短期的な損得を抜きにして、高所得者層の顧客を誘導しているのだと思います。裏にゴールドマン・サックスがいることもあり、これくらい強気な金利を設定できるのではないでしょうか。
BIJ編集部・常盤
iPhoneで決済できるようになれば、当然グーグルのAndroidも追随するでしょうか。
可能性はありますね。でもアップルのNFCの仕組みは非公開なので、もしかしたらグーグルはアップルの軍門に下って、この技術を使用料を払って使わせてもらう、となるのかもしれません。分かりませんが……。
BIJ編集部・常盤
もしそうなったら、血で血を洗う争いになりそう。
ところで日本ではすでにQR決済が普及していますが、もしアップルが日本で同じようなことをやろうとしても、そう簡単ではないですよね?
それはとても鋭い指摘で、これから面白くなってくると思います。
日本ではいまPayPayかSuicaが主流でしょう。僕はSuica派ですけれど、昔JR東日本の偉い人に、「Suicaは宝の山ですよ! あんなに安定して決済できる技術はほかにない。Suicaをとば口にして、もっとエンベデッドネス・ファイナンスに進出すべきです」と力説したことがあります。
でもJR東日本は、まだそこに立ち入る気がないというのが僕が受けた印象です。ですからもしアップルが日本に進出すれば、PayPay対アップルの戦いになるのかもしれませんね。
BIJ編集部・常盤
今後の成り行きにがぜん興味が湧いてきました。面白いお話をありがとうございました。
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。