研究者ビザで滞在できる期限が迫るなか、なんとかデンマークに残る手段を探そうと、研究と就職活動とでじりじりとした時間を過ごしたトルコ人のペテック・オヌルさんと夫のジョンさん。
撮影:井上陽子
これまでこの連載では、午後4時すぎには帰宅するような短時間労働の文化や、それでも経済競争力を保っていること、高い投票率に象徴されるような社会参加が日常に根付いていることなど、自分の属するデンマークの社会が「うまく機能している」と感じられる幸せについて書いてきた。
最近、米国に行く機会があったのだが、そこで旧友たちが語っていた社会の深刻な分断や格差などを聞くにつけても、北欧の国々はたしかにうまく機能している面が多く、人間らしく生きられる社会をつくっていると思う。
ただしそれは、いったんこのシステムの中に入れれば、の話。私のような非EU圏から来る外国人がデンマーク社会に入ろうとする時に目にする風景は、また違ったものとなる。
連載を読んでデンマークに住んでみたいと思った日本人読者には冷や水をかけるような話かもしれないが、今回の原稿では、デンマーク人の配偶者として移住することになった私の個人的経験とともに、デンマークで暮らしたいと願いつつも断念せざるを得ず、この夏、デンマークを去ることになった2人の非EU圏出身者のケースをまずはお伝えしたい。
その上で、欧州で最も厳しいとも言われるデンマークの移民政策はいかにできあがったのか、その背景にある考え方と最近の変化について取り上げてみたいと思う。
図書館で本を借りることすらできない
私が妊娠8カ月でデンマークに来たのは2015年、欧州難民危機の嵐が吹き荒れていた時期だった。デンマークは難民受け入れに消極的で、より寛容なスウェーデンを目指す中東やアフリカからの難民が流入するのを遮断したり、ドイツに送り返したりしていた頃である。
デンマークでは通常、医療費は無料だが、それはデンマークの社会保障番号(CPR番号)を持つ人に限られる。私の場合、配偶者ビザに基づく居住許可とCPR番号を受け取るまでに移住してから1年近くかかったので、出産費用を含む医療費は、その間ずっと全額負担だった。夫がデンマーク人でも、出産はあくまで私個人に紐づけられているので関係ない、とのことである。よりによって帝王切開の手術となり、約90万円の出費となった(これでも病院に2泊しただけの料金)。
CPR番号がないと、銀行口座も開けず、図書館で本を借りることすらできない。デジタル社会、キャッシュレス社会のデンマーク暮らしは、銀行口座やデジタル認証IDなどが揃っていればスムーズで快適なのだが、そうでないといきなり面倒になる。そんな宙ぶらりんな生活が1年も続くと、忍耐力を試されているような気分にもなった。
さらに驚いたのは、ようやくビザが下りる見通しになった時に、約5万2000DKK(約104万円、1デンマーク・クローネ=20円換算)もの“保証金”を夫の銀行口座から凍結するとの通知だった。保証金の金額は2018年に倍増され、現在の制度では11万DKK(約220万円)にのぼっており、お金が確保できないために家族で住むことを諦めたケースも報じられている。
ちなみにこの保証金は、永住権を取得するか在住10年が過ぎれば戻ってくるが、永住権の取得には、8年間連続して住んでいることや、語学試験の合格、フルタイムでの勤務年数が直近の4年間で3年半以上あることなど数々の条件があり、これまた難易度が高い。
と、ここまではデンマーク人の配偶者として移住する場合だが、非EU圏の人にとっては、就労ビザを取得するための年収制限のハードルも高い。最低年収額は最近まで44万8000DKK(約896万円)という条件だったのだが、深刻な労働者不足で海外からの労働力に頼らざるを得ない現状を受け、2023年4月からは37万5000DKK(約750万円)まで減額された。
その一方で、デンマークが欲しい分野の海外の研究者や、年収約1700万円以上の高収入の外国人が移住する場合は、一般のデンマーク人よりも安い税率で優遇する制度もあり、デンマークが国として欲しい人材かどうかで線引きする姿勢は、ある意味、とても分かりやすいとも言える。
デザインに憧れ日本からデンマークへ…直面した厳しい現実
カルデイラさんがデンマーク人デザイナーとともに使っていたコペンハーゲンのシェアスタジオ。工房にはプロトタイプを作るための3Dプリンターなどが並ぶ。
撮影:井上陽子
日本で生まれ育ったカルデイラ・エリナさんは、生活雑貨のプロダクトデザイナーとして日本で7年近く働いた後、デンマークに2020年にやってきた。シンプルかつ機能的なデザインで知られるデンマーク人デザイナー、セシリエ・マンツの作品に惹きつけられ、できればデンマークでデザイナーとしての仕事を得たいと思っていた。
6カ月間の学生ビザで入国し、留学生を受け入れるデンマーク南部の「フォルケホイスコーレ」(連載2回で紹介した教育機関)で学んだ後は、1年間のワーキングホリデービザに切り替えて職探しをする予定だった。ところが学校が始まってまもなく、デンマークはコロナ禍によるロックダウンに突入。ビザの更新ができなくなり、日本に帰国せざるを得なくなった。
それでもデンマークで働く夢を諦めきれず、今度はスウェーデンのワーキングホリデービザ(1年間)を申請し、昨年夏からはスウェーデン南部の都市・マルメで暮らし始めた。マルメからデンマークの首都コペンハーゲンまでは、電車で1時間の距離である。
フォルケホイスコーレにいた頃から、セシリア・マンツのスタジオをはじめ30社ほどに応募し続けたものの就職には至らず、代わりに、デザインスタジオでインターンとして無償で働くことに。そうして業界内部から見ていて実感したのは、デンマークのデザインスタジオへの就職はかなりハードルが高い、という現実だった。
「国が小さいので、そもそもチャンスが少ない。それに加えて、有名なデザインスタジオでも、驚くほど少人数で回しています。決断が早く、行動力もあるからできるんだろうなと。それでいて、子どもが小さいからと早い時間に帰ったりする。仕事の早さには驚きます」
小国でチャンスが少ないことに加えて、デンマークでの就職を難しくしているのが、就労ビザのハードルの高さである。
EU域外の人が就労ビザを取得しようとすると、最も一般的なのが「Pay Limit Scheme」と呼ばれる枠組みに基づいたビザである。ところがこれには、最低の年収が44万8000DKK (約896万円)以上という収入要件があった。
この収入要件については、デンマークの労働者不足を外国人労働者によって解消したいと考える経済団体などから、金額が高すぎると批判の声が上がり、2023年4月からは37万5000DKK(約750万円)まで減額となった。
これが今後どれほどの影響があるのかは分からないが、マルメ大学の長南トルングレンさや佳准教授(国際移民・民族関係論)によると、これまでは非EU圏から来た外国人学生が、コペンハーゲンのデンマークの企業への就職が内定直前だったものの、就労ビザの収入要件が満たせず、取り消しとなった例がいくつもあったという。
「デンマークと比べると、スウェーデンの労働移民政策は、これまでかなり寛容でした。スウェーデンにはブルーカラーの労働者が入りやすいシステムである一方、高度人材はデンマークや日本ほど優遇されていないという違いがあります」(長南准教授)
カルデイラさんはもともと、デンマークで学んだ後はデザイナーとして独立することを長期的な目標にしていた。だったら先に独立してしまおうと、日本を拠点にして世界中のクライアントと仕事をする方針に切り替えることに。マルメからコペンハーゲンに通い、週に2日はインターン、週に3日はシェアスタジオでフリーランスとして仕事をする生活を送った。「就職ではないけど、インターンをして、デンマークのデザインスタジオで学ぶというミッションは達成できた」とカルデイラさんは話す。
デンマークを出国する直前には、コペンハーゲンで毎年開催される大型のデザインイベント「3daysofdesign」に作品を出展した。
撮影:井上陽子
就活のライバルは常に100人以上
社会学者のトルコ人、ペテック・オヌルさんは、2023年に入ってからじりじりとした日々を過ごしてきた。デンマークに滞在できるビザの期限が迫り、新たな就職先を見つけられなければ、夫のジョンさんとともに出国せざるを得ないからだ。
研究者ビザでトルコ人の夫とともにデンマークに来たのは、2020年秋。トルコの大学で博士号を取得し、大学講師として働いていたが、研究奨学金を受けてコペンハーゲン大学で研究ができることになったためだった。知名度のある奨学金でもあり、研究期間後もデンマークの大学などに就職先を見つけて滞在できることを期待していた。
専門分野はイスラム諸国のジェンダー問題。研究期間後には、ポジションを探すために半年間の猶予期間が設けられていた。ペテックさんは8カ月間にわたって懸命に職探しをしたが、現実は甘くなかった。
就職先は大学に限定せず、民間企業やNGOにも広げたものの、いくら応募してもまったくひっかからない。業務管理やプロジェクト・マネージャーといったポジションでは、常に100人以上が応募していたという。
「就職活動のためのトレーニングに通って、履歴書の書き方といったコツを学び、アドバイス通りに人脈のネットワークを広げて、1社でも面接にこぎつけられることを祈りながら100社近く応募する。私のような外国人が何のつてもないデンマークで就職しようと思ったら、そんなプロセスを経る必要がある。アカデミック出身で職務経験がないのも、かなり不利だった」
8月からドイツに行くことが決まり、ストレスフルだったデンマークでの就職活動を振り返るペテックさん。
撮影:井上陽子
デンマークでは企業の深刻な人材不足がたびたびニュースになっている。それを聞いていてペテックさんがモヤモヤするのは、人材不足が起きているのは医療やITといった限られた分野だということだ。トルコに住んでいる友人のエンジニアからは、応募もしていないデンマーク企業から就職を打診されて断った、という話も聞き、ため息が出たという。社会学者であるペテックさんが就職先を探そうとすると、小国だけに就職のチャンスがぐっと小さくなってしまう。
ペテックさんは、デンマークの就職は厳しいと判断してほかの国にも目を向け始め、結局、ドイツの大学で1年間、研究をして過ごせることになった。「生活にも慣れてきていたし、引っ越しを繰り返すのはお金もかかるから、本当はデンマークにいたかったんだけど」と寂しそうだが、8月にデンマークを後にするそうだ。
実は外国人に頼っているデンマーク経済
欧州で最も厳しいと言われるデンマークの移民政策はいかにしてできあがったのか。移民政策と福祉国家が専門であるオールボー大学のクリスチャン・ラーセン教授は、移民が福祉国家の負担にならないよう、また、デンマーク人労働者の職を奪うことがないよう、綿密に設計されてきた、と説明する。
クリスチャン・ラーセン教授。
撮影:井上陽子
デンマークに外国人労働者が入り始めたのは、欧州が経済成長に沸いていた1960年代。当時、「ゲストワーカー」という立場でやってきたのは、主にトルコや旧ユーゴスラビアからの男性労働者で、一定期間の間仕事をした後は、それぞれの国に帰るという前提があった。
1970年代の経済低迷期に入ると、今度は、外国人労働者の流入を抑止する方向に強く動き始める。労働組合が強いデンマークでは、デンマーク人の職を奪う外国人が労働市場に入ってくることへの強い反発があり、政府もこの立場を支持。「デンマークの立場は単純で、デンマーク人労働者の競争相手になるような外国人労働者はできるだけ入れない、という考え方。これがごく最近まで続いてきた」とラーセン教授は解説する。
ただし、できるだけ入れないと言っても、EU域内の人々は例外である。EU域内では労働力の移動の自由が認められており、2000年代に東欧諸国にEUが拡大すると、ポーランドやルーマニアなどから外国人労働者がデンマークに続々と入ってくるようになった。
こうした人々が、デンマーク人のブルーカラー労働者の競争相手となるため、非EU圏から受け入れる労働者については、さらなる競合にならないよう、より細かい選別のフィルターがかけられてきた。就労ビザにかなり高い最低収入条件が課されているのもその一つである。
ラーセン教授が“フィルター”の例として挙げるのが、就労ビザの枠組みの一つである「Positive List」だ。これは、デンマーク国内の労働者ではまかなうことができない職業のリストで、化学者やITエンジニアなど細かい規定があり、このカテゴリーに当てはまる人であれば必ずしも収入要件を満たす必要はない。
ラーセン教授は、「はじめは開放的な移民政策を取り、移民が増えた後は流入を止め、その後はフィルターにかけて欲しい人材だけを選ぶ。こうした選別は、米国をはじめとして成熟した移民経験がある国にしばしば起きる現象だ」と解説する。
一方、配偶者ビザの条件の厳しさについては、2001年の国政選挙で第3党まで勢力を伸ばして以来、10年以上にわたって閣外協力といった立場で政権に影響力を及ぼしてきた極右政党「デンマーク国民党」の影響が大きい。例えば「24歳ルール」。2002年から導入されたルールで、外国籍の配偶者をデンマークに呼び寄せる場合には、カップルの両方とも24歳以上でないと居住許可が下りないというものだが、これは主に、結婚年齢が低い傾向にある中東地域からの移民流入を止める狙いがあった。
記事の冒頭には、私がデンマークで居住許可を得ようとした時に“保証金”として100万円以上が銀行口座から凍結されたと書いたが、非EU圏の配偶者が居住許可を得るための条件はこのほかにも、居住スペースが一定の広さ以上であることなど、いくつもある。こうした細かい規定にひっかかり、デンマーク人がいわゆる西側諸国出身の配偶者と住めないケースも出てきている。
デンマークの2大学から客員研究員として招聘された米国の大学教授(デンマーク人)の場合、米国人の妻と3人の子どもとともにデンマークで生活を始めたものの、米国人の妻に対する居住許可が下りなかった。デンマーク人である大学教授は16歳の時に渡米しており、これが「デンマークで高校レベル以上の教育を少なくとも1年受けていなくてはならない」という条件を満たせなかったためだという。教授は、デンマークのルールを「クレイジーだ」と言い、家族とともにデンマークを出ることになった。
ラーセン教授は、こうした“クレイジー”な条件を精査するため、政府が設置した小委員会の委員も務めたが、大きな変化の見込みは低いと予測する。「多少の問題はあっても、デンマークの政治家には、入ってきてほしくない移民を抑止する効果はあるとみなされている。これを変えるのは、政治的にほぼ不可能な状態だ」。
その一方で、デンマーク経済は、ますます外国人労働者に頼らざるを得ない現実にも直面している。2022年に仕事のためにデンマークに移住した人の数は、1997年に統計を取り始めて以来最高の人数を記録。今やデンマーク企業の4社に1社が外国人労働者に依存しているとのデータもある。
デンマーク経済を支える外国人労働者数は増えるばかりだ。
出典:デンマーク労働市場・人材採用庁
法律事務所「Bird & Bird」で雇用法を専門とするサーン・ペダーセン弁護士は、こうした現実に押されて、高度人材だけでなく低スキルの労働者にも労働市場の門戸を開くべきかどうかが、昨今大きな政治的な争点に浮上してきていると指摘する。
ペダーセン弁護士。
撮影:井上陽子
「デンマーク国民党が政治的な影響力を持ち始めた2001年以来、ビザの要件はどんどん厳しくなった。また、労働者を支持母体にしている与党・社会民主党にも、安い外国人働者は入れたくないという思惑があった。しかし、昨年から右派と左派の連立政権となったこともあり、政策はより中道にシフトしてきている」(ペダーセン弁護士)
就労ビザとして最も一般的な「Pay Limit Scheme」の最低年収額が、約900万円から約760万円まで引き下げとなったのは、その象徴的な例だという。
デンマークではルールが変わるのも早い。移住に興味がある人には、就労ビザの収入要件が引き下げになった今が、もしかするとまたとないチャンスなのかもしれない。
井上陽子(いのうえ・ようこ):北欧デンマーク在住のジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー。筑波大学国際関係学類卒、ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。読売新聞で国土交通省、環境省などを担当したのち、ワシントン支局特派員。2015年、妊娠を機に首都コペンハーゲンに移住し、現在、デンマーク人の夫と長女、長男の4人暮らし。メディアへの執筆のほか、テレビ出演やイベントでの講演、デンマーク企業のサポートなども行っている。Twitterは @yokoinoue2019 。noteでも発信している(@yokodk)。