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いかに効率よく、短時間で仕事を済ませられるか。
現代では、なにかにつけて「タイパ」(タイムパフォーマンス)が求められています。
ただ、なんでもかんでもタイパやコスパを求め、時間やコストを最適化していった先に、果たして幸せはあるのでしょうか。一見「無駄」に見える時間のかけ方や、あえて遠回りするような「余裕」の中にあるちょっとした気づきや発見が、私たちの人生に彩りを与えてくれるものなのでは……と、最近なんとなく考えてしまいます。
日々タイパやコスパを求め続ける価値観の中で、私たちはもしかしたら人生にとってかけがいのない「何か」を見つけるきっかけを失ってしまっているのかもしれません。
6月の「サイエンス思考」では、そんな「仮説」をもとに、タイパを求め続けることが人の「幸せ」にどんな影響を与えうるのか、2人の専門家の意見を踏まえて考えていきます。
取材を通して分かってきたのは、現代社会を「幸せ」に生きるために必要な“ある要素”でした。
「思い通りに時間を使える」と人は幸せになる
関西学院大学で、比較文化心理学を専門とする一言英文准教授。
画像:取材時のスクリーンショット
比較文化心理学の専門家として幸福感などについて研究している関西学院大学の一言英文准教授は、「主観的ウェルビーイング」という考え方にまつわるデータを踏まえて考えると、「幸福の要素」として次のようなことが考えられると話します。
「幸福の要素として自尊心や外交的な性格に加えて『コントロール感』が挙げられています。これが高い人は、性別、年齢、収入、民族性などにかかわらず、幸福度が高いと考えられています」(一言准教授)
例えば、欲しい物を自由に手に入れることができる金銭的に余裕がある状態や、人間関係が自分にとって好ましい状態であることも「コントロール感が高い状態」だと言えます。
「逆にコントロールを失った状態は、何をやっても結果が伴わない状態です。動物実験でも、何もできないことを学習してしまう『学習性の絶望状態』になってしまうことが知られています。人間の場合は、これが抑うつの一種だろうとも言われています。幸福とは対極にあるものです」(一言准教授)
時間を管理してタイパを求めることは、時間に対するコントロール感に関わっていると考えることができるのではないかと、一言准教授は話します。
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佐賀大学で教育における「時間管理」について研究する井邑智哉准教授の見解も同様です。
「タスク(仕事)の時間を管理することが上手で、目標設定や優先順位をうまくつけられるような人は、『時間をコントロールできる感覚』(時間コントロール感)が高まって、仕事や身体的なストレスが下がったり、満足感が上がったりすることが知られています」(井邑准教授)
自分で時間をコントロールできているという感覚。いうなれば、時間に対する「自己効力感」が高くなると人は人生に満足しやすいというのです。
井邑准教授によると、時間のコントロールと人の心理状態の研究は、1970年代ごろから始まったといいます。その後、1990年代ごろに研究の数が増え、注目されるようになっていきました。その中でアメリカの心理学者のメイキャンが示したのが、上述したような時間とストレスや満足感に関するモデルでした。
「後続の研究ではこの検証が行われてきましたが、いずれの研究でもこのモデルはある程度支持されています」(井邑准教授)
「時間をコントロールできている」感覚とは?
佐賀大学で、時間管理などについて教育的な側面から研究する井邑智哉准教授。
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仕事に置き換えて考えると、時間コントロールができているということは、期限までにタスクをうまく片付けることができている状態と言えます。きっちり仕事を完了することで、達成感や満足感を得ることができる……そう言われると、ごく当たり前のことのように思えるかもしれません。
では、もう少し深く「時間コントロールができている状態」について考えてみましょう。
実は、井邑准教授は、メイキャンが示したモデルを日本で検証し、論文で報告しています。「時間をコントロールできている」という感覚を深掘りすると、いくつかの要素に分解して考えることができるといいます。
井邑准教授らの研究では、時間コントロールに関連する要素として次の3つの因子があると説明しています。
時間コントロール感の要素
- 時間の見積もり:時間を決めて課題に取り組んだり、時間を事前に見積もって作業したりすることなど
- 時間の活用:空いている時間を活用したり、作業の優先順位をつけることなど
- その日暮らし:翌日の予定が決まっていなかったり、だらだら過ごしてしまったりすることなど
私たちは、この3つに大別される行動(時間管理行動)を通じて、時間コントロール感を得たり、失ったりしているわけです。
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さらに井邑准教授らの調査では、「時間の見積もり」「時間の活用」は時間コントロール感を高め、「時間の見積もり」には「不機嫌や怒り」「無気力」といったストレス因子を低くする負の相関があることも分かりました。そして逆に「その日暮らし」の傾向は、時間コントロール感の低下や無気力感を高める要因になっていたといいます。
ただ、その日暮らしの傾向がある人の中でも、時間コントロール感が失われないケースもあるといいます。
「何も考えずに時間管理をしない状態は、マイナスに働くのですが、『意図的にコントロールしていないというコントロール感』もあるのかもしれません。まったくの無計画と柔軟な生き方の違いのようなもので、時間コントロール感が高まるわけではないのですが、低下することもないようです」(井邑准教授)
タイパ志向で人間関係も良好。でも…
人の幸せには人間関係が不可欠だ。
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時間管理が上手で、時間コントロール感を得られている人は、満足感も高く、ストレスも少ない。そう聞くと、タイパを求めること、つまり時間管理をきちんとしようとすること自体は、それほど悪いことではなさそうです。
ただ、人の幸せを左右する要素は、なにも時間コントロール感だけではありません。
一言准教授によると、幸福学では、さまざまな人間関係「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)を持つことが、非常に重要な要素(幸福にとって比重の大きなもの)として考えられているといいます。
「幸福の非常に普遍的な要素として、他者との関係性があります。世界何十カ国で幸せとはどういう意味を持つかを尋ねた研究でも、その関係性は必ず上位に出てくるんです」(一言准教授)
タイパを追求し過ぎてしまうと、人間関係を損ね、結果的に幸せから遠ざかってしまうのではという懸念も湧きます。
この疑問について井邑准教授は、
「時間管理は、対人関係にはあまり影響がないようです。むしろ、時間管理の中でも『時間の活用』ができている人は、積極的な他者関係を築けているという研究があります」
と、時間管理をすること自体は、人間関係にとってポジティブな側面があると話します。
ただ、時間管理との強い関連性はないと前置きした上で、時間に追われたり、時間が足りないと感じたりする「時間不安」による人間関係への影響を指摘しています。
「『時間不安』が強い人は、話が遅い人を急かして怒ったり、仕事の遅い人に我慢できなかったりします。そういった要素が、対人関係に悪い影響を及ぼすことが予想されます」(井邑准教授)
コントロール感の喪失は、時間に限らず人を不幸せにするのかもしれない。
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また、「タイパを求めるべき」といった「すべき」という思考に支配されたり、仕事においてもタスク管理や目標設定に自由がきかなかったりなど、「行動基準」が自分の外に置かれるとネガティブな影響が生じる可能性が考えられるといいます。これは最初に説明した、コントロール感を喪失した状態に近いと、一言准教授は指摘します。
そう考えると、タイパを求める上では、あくまでも「自分が管理できる範囲」で考えることが前提となります。また、自律性を損なわないように注意する必要もあるでしょう。
幸せは2種類ある
幸福の中には、人生を振り返ってみたときに感じるような「認知的な幸福感」と、「今、楽しい」というような短期的に感じる「感情的な幸福感」という2種類の幸福感があります。
「例えば、時間管理という観点で考えると、時間管理ができない(タスクを予定された時間に終えられない)人が陥るのは『先延ばし』です。これは、“短期的な快楽に負けてしまう”ということなんです」(一言准教授)
先延ばしをして目の前のストレスから解放されることは、短期的に幸福感を味わう上ではポジティブな行動です。また、例えば1年後に控えている締切に向けた面倒な作業をするよりも、今、スマートフォンで好きなYouTube動画を見るほうが、短期的には「楽しい」、つまり幸せを感じることができるものです。
ただ、そんなことばかりを繰り返していると、1年後の締切直前にはひどい目にあってしまいます。どの立場で考えるかにもよりますが、感情的な幸福を追い求める先に、認知的な幸福が実現できるとは限らないわけです。
電車内で思わず触ってしまうスマホ。小さな時間の使い方次第で、後から振り返ったときの幸福感に違いが出るのかもしれない。まさにタイパ思考だ。
撮影:今村拓馬
タイパという考え方は、感情的な幸福感に左右されずに認知的な幸福を得る手法としてうまく活用できるかもしれない、と一言准教授は指摘します。
「次の30分に最低限これだけはするぞ、ということが決まっていれば、人は感情を制御する手立てになります。心理学では『感情制御』などと言われる手法です。
幸福を『成し遂げて得られるもの』だと考えると、自ずと長期的な概念になります。しかし、それに向かってやるべき、制御すべきものは今の(短期的な)自分の気分です。幸福を具体化するための方策として、タイパのような時間管理の手法があるといえるのかもしれません」(一言准教授)
幸せになるための「要素」とは
私たちが感じる「幸福感」は、非常に複雑に入り組んでいます。
先述した人間関係(社会関係資本)も協調的幸福感と呼ばれる幸福に関する重要な要素の一つですし、「人生の目的」や「有意味感」(意味があると感じること)という「心理的ウェルビーイング」という考え方もあります。
中には、自分の時間を他者のために使うことで、幸福感が高まるという研究もあります。
世界最貧国の一つであるブータンでは幸福度が高い一方で、日本ではそこまで幸福度は高くないように、社会環境・文化的な背景の違いも、私たちの幸せの感じ方に影響を与えています。国の違いだけではなく、田舎か都市部かでも、考え方に違いがみられるケースはあります。
その中で、タイパを求め続けることが幸せに密接につながっている社会もあれば、反対にタイパがストレス要因にしかならないような社会もあるかもしれません。
「私たちの社会のあり方と個人の幸福の基準は、強く結びついている」(一言准教授)
複雑な社会の中で、私たちが幸せになるには一体何が必要なのか。あなたの幸せにとって、大事なものは何なのか。一度考えてみた上で、タイパとの向き合い方を決めてみてはいかがでしょうか。