安倍晋三元首相が銃撃され亡くなった事件から1年。東京都内で一周忌の法要が行われた。台湾の蔡英文総統は追悼のメッセージをTwitterに投稿した。
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自他ともに認める「親台派」安倍元首相の銃撃死から7月8日で1年が過ぎた。
それと前後して、安倍氏の遺言とも言える「台湾有事は日本有事」発言をめぐり、中国と台湾から真逆のコメントが出た。
中国を敵視し、日台関係の強化を求めた安倍氏の発言は、世論に働きかける訴求力を持ち、日米台の「暗黙同盟」を加速させた。
その一方、中国を敵視したツケは、日中関係改善を目指す岸田政権に重くのしかかる。
なぜ安倍氏は「台湾有事は日本有事」と語ったのか
まず、安倍氏の発言を振り返ろう。
2021年12月1日、台湾のシンクタンク「国策研究院」主催のシンポジウムでオンライン講演した安倍氏は、中国が「あらゆる種類の軍事的挑発を続けていくことを予測しなくてはならない」と警告。
台湾への武力侵攻は「必ず日本の国土に対する重大な危険を引き起こす」として、「台湾有事、それは日本有事です。すなわち日米同盟の有事でもあります」と述べたのだった。
この発言を受け、中国外務省の華春瑩・外務次官補は同日夜、日本の垂秀夫駐中国大使を呼び出し、「極端に誤った言論で中国内政に乱暴に干渉し、『台湾独立』勢力を強硬に後押しした」と厳しく批判した(日本経済新聞、2021年12月2日付)。
安倍氏はなぜこの時期にこうした発言をしたのか。
当時の台湾海峡情勢をトレースする。2021年4月、当時の菅首相とバイデン大統領は日米首脳会談を行い、以下について合意していた。
- 台湾問題を半世紀ぶりに共同声明に盛り込み、日米安保の性格を「地域の安定装置」から「対中同盟」に変更
- 共同声明の冒頭に、日本が軍事力を「飛躍的に強化する決意」を表明
- 台湾有事に備えた「日米共同作戦計画」を策定
菅氏は同年9月に辞任、翌10月に首相を後継した岸田氏は、安倍氏の台湾講演から間もない12月6日の所信表明演説で、台湾有事を念頭に「いわゆる敵基地攻撃能力も含め、あらゆる選択肢を排除せず」と述べ、日米の統合抑止力と反撃力を強化する方針を表明した。
日本の安全保障政策の大転換を進めるには、「台湾有事が迫る」という危機感を煽(あお)る必要があったと、筆者はみている。
銃撃事件から1年、台湾と中国が安倍氏発言に言及
安倍氏銃撃事件からちょうど1年が過ぎた7月8日、台湾の蔡英文総統は「『台湾有事はすなわち日本有事』と強調していた安倍元首相は、台湾の人々が最も懐かしさと親しみを感じる日本の首相です」と日本語でツイートした。
蔡氏だけではない。
游錫堃・台湾立法院長(国会議長に相当)は7月4日、沖縄・与那国島を船で訪れ、親台湾派グループ「日華議員懇談会」の古屋圭司会長と会った際、「この地を踏んで『台湾有事は日本有事』と述べた故・安倍晋三元首相の言葉を肌で実感した」と強調したという(日本経済新聞、7月4日付)。
一方、中国側は李強首相が7月5日、日本国際貿易促進協会の河野洋平会長のミッションと会談し、訪中を「高度に重視している」と評価。経済を中心に日中関係の改善に強い意欲を示した。
しかしその翌日、河野氏と会談した中国外交担当トップの王毅・共産党政治局員が語ったのは、「台湾有事は日本有事と言い立てるのはでたらめで極めて危険。日本各界は気を付けるべき」との警告だった。
王氏があえて安倍氏の「台湾有事は日本有事」発言に言及したのは、その訴求力と浸透力に懸念を抱いていることの表れではないか。
安倍氏発言の「分かりやすさ」
王氏が懸念を抱くほど、安倍氏の発言が「訴求力」と「浸透力」を持つのは、その論理が実に分かりやすいからだ。
2022年8月、ペロシ米下院議長の台湾訪問後、中国軍は台湾本島を包囲する大軍事演習を行い、台湾に向け発射されたミサイルは日本の排他的経済水域(EEZ)にも落下した。
ミサイル落下は日本が被害者という懸念を増幅する。被害者意識は世論の共感力と伝播力をもたらす。
米高官が台湾を訪問し、台湾海峡を米軍艦が通過するたび、中国戦闘機が台湾に接近するので、中国の台湾への「好戦的姿勢」は繰り返し可視化されることになる。
中国の台湾への武力侵攻は「必ず日本の国土に対する重大な危険を引き起こす」と、安倍氏が台湾講演で語った際、その根拠として挙げたのは、与那国島と台湾の距離が100キロ程度と極めて近いことだった。
米中軍事衝突が発生すれば、米軍基地と自衛隊ミサイル基地が集中する南西諸島が中国のミサイルの標的になるのは、誰もが思いつくシナリオだろう。
石垣島などではすでに住民の退避訓練が実施されているので、住民の間では有事への不安が高まっている。
安倍氏発言の「浸透」が日本の世論を変えた
安倍氏発言の訴求力と浸透力の強さは、日本の安保政策の変化ぶりを見れば、より鮮明になる。
岸田氏は2021年12月の所信表明演説で約束した通り、(1)防衛予算を5年でGDP(国内総生産)比2%に倍増(2)敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有(3)台湾有事の際に対中軍事作戦を日米で統合運用、を柱とする「国家安全保障戦略」など安保関連3文書を2022年12月16日に閣議決定した。台湾有事を念頭に置いた大軍拡路線だ。
このうち、敵基地攻撃能力(反撃能力)の容認は、戦争放棄をうたった憲法の精神に基づく「専守防衛政策」違反が濃厚だけに、さすがに世論も強く反対するものと筆者はみていた。
ところが、朝日新聞(2022年12月20日付)の世論調査によると、敵基地攻撃能力の保有に「賛成」が56%と、「反対」(38%)を大きく上回る結果が出た。
一方、防衛費を増やすための増税については、66%が「反対」し、「賛成」(29%)を倍以上上回った。脅威への対応には賛成だが、自らの懐は痛めたくないという、極めて現実的な反応だった。
2015年9月、当時の安倍政権が世論調査における過半数の反対を押し切って「平和安全保障法制(安保法制)」を成立させた時に比べると、世論の反応は対照的だ。
安保法制の主眼は、台湾有事で米軍支援を可能にする「集団的自衛権行使」の容認にあった。衆議院憲法審査会で参考人として意見を述べた有識者らが全員「憲法違反」と明言した経緯もあり、反対の声を上げる市民団体や学生たちが国会前で連日のように大規模な抗議デモを繰り広げた。
それが、敵基地攻撃能力の保有については、安保法制の時と真逆に過半数が賛成するという対照的な反応に至った。
分かりやすい安倍氏の発言が世論に浸透したためか、既成事実を容認する世論の翼賛体制化のためか、もしくはそれらの相乗効果の結果ではないだろうか。
台湾統一を急がない中国、台湾有事を煽る日本
バイデン米政権が台湾問題を米中対立の「核心」に据えたのは、アメリカ単独ではもはや中国に対抗できないとの認識からだ。
同時に、次のような「行動パターン」がよく見られるようになった。
- アメリカ側から挑発し、中国に競争するよう仕向ける
- 中国の軍事的・経済的に「過剰な対応」を引き出す
- 国内外で中国の威信や影響力を喪失させる
台湾海峡の緊張を冷静に見つめると、アメリカの意図的挑発に対し、中国が対抗措置で報復する「因果関係」が読み取れる。中国側はあくまで「受け身」なのだ。
習近平国家主席が描く国家戦略は、2049年の建国百年に「中華民族の復興」と「世界一流の社会主義強国」を実現すること。台湾統一は「中華民族の復興」と切り離せない歴史的任務であり、決して放棄しない。
習氏の台湾政策は平和統一にあるが、そのためには「主体的条件」と「客観的条件」が揃う必要がある。
客観的条件の代表格が台湾民意の存在で、統一支持はわずか数%程度にすぎない。民意に逆らって統一を強行しても、国内に新たな分裂勢力を生むだけで、統一の果実は得られない。
主体的条件の代表格が、軍事力だ。軍用機と軍艦、中距離ミサイルの数で中国はアメリカを上回るが、総合的軍事力では依然として大きな開きがある。
それに、核保有国である米中両国が衝突すれば、核戦争の脅威を増幅する。世界経済を破綻させる衝撃力という意味では、ウクライナ危機の比ではない。米軍と直接対峙する台湾有事はどうしても回避しなければならない。
中国が最優先するのは、2049年に中華民族の復興と世界一流の社会主義強国を実現する前述の国家戦略に加え、「共産党の指導」と「統一性」を維持することだ。
しかし、主体的条件と客観的条件が揃わないまま武力行使に踏み切れば、国際社会からの批判や経済制裁を受け、強国建設の柱と位置付けるグローバル経済圏「一帯一路」に赤信号が灯り、共産党の指導と統一性が揺らぐ恐れもある。
武力統一は「下策中の下策」なのだ。
安倍氏の「台湾有事は日本有事」発言は、安保政策の大転換を実現するプロセスで確かに大きな役割を果たした。一方で、バイデン政権発足以降の2年半、日本政府が(安倍氏の発言に沿う形で)有事の危機を煽り、台湾関与政策を進めたことで、対中関係は大きく損なわれた。
2022年11月、日中首脳会談はタイでようやく実現したが、首脳同士のシャトル外交を回復するには、白紙に戻ったままの習氏の国賓訪日という高い壁を乗り越えねばならない。
安倍氏の発言が日中関係に残したツケは意外に大きい。