海外に遅れを取ったものの、日本でもようやく知的財産を対象とした税制優遇による投資促進策が導入されようとしている。半導体や電気自動車(EV)など戦略分野が主体となりそうだ。
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前回の寄稿「英エコノミスト誌、日本経済は高齢化で『頭脳停止』がすでに始まり、少子化対策も『政府は無力』と結論」は公開後に大きな反響があった。
意見や感想を筆者に直接お送りいただいた方も多く、その大部分が記事の趣旨に賛同する内容だったことから、日本経済の先行きを憂う向きが非常に多いことをあらためて認識できた。
ただ、前回寄稿では問題提起が中心となり、解決策に十分言及できなかったことが筆者としては心残りで、不完全燃焼を感じていた。
そこで今回は、英エコノミスト誌に「Brain freeze(思考もしくは頭脳停止)」と揶揄(やゆ)された日本の現状に対し、何らかの処方箋はないのか検討してみようと思う。
結論を先取りしておくと、筆者はある一つの政策に注目し、それが現状打開につながる可能性に期待したいと考えている。
ここ数週間の新聞報道などで、特許や著作権など知的財産を通じて得た企業の所得に優遇税率を適用する「イノベーションボックス税制」の創設を、経済産業省が検討していることを知った方もおられるのではないか。
筆者が期待するこの新たな税制を深掘りする前に、それが日本の戦略・政策の中でどう位置づけられ、どんな役割を果たすと考えられているのか、簡単に触れておきたい。
岸田政権の標榜する「新しい資本主義」構想では、国内投資活性化の重要性が強調されており、岸田首相も通常国会閉会に伴う記者会見時に「世界に伍して競争できる投資支援パッケージ」を仕上げていく意思を表明している。
そこで語られている「投資」は、大まかに言って「有形資産投資」と「無形資産投資」に分類できる。
前者の「有形資産投資」を政府や省庁が促進するという場合は、外国企業による日本での支店・工場建設など「対内直接投資」の誘致を指すことが多い。
岸田政権は6月半ばに閣議決定した「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」で、対内直接投資残高を2030年に100兆円とする目標の早期実現を目指すとしている。
対内直接投資によってある地域に大規模な工場が稼働すれば、そこに雇用が生まれ、所得が増加し、消費や投資が盛んになるので、投資誘致によって得られる経済効果は直感的にイメージしやすい。
半導体受託生産のTSMC(台湾積体電路製造)が進出を決め、2024年の出荷開始を目指して工場建設が進む熊本県菊陽町では、町内の一部の路線価(評価基準額)が前年比で19.0%上昇。九州7県全体で見ても同2.2%上昇したことが判明し、全国的な話題になった。
日本企業の国内回帰に期待するのは無理筋というものだが、外資系企業の対日投資が景気を押し上げる可能性には期待していいだろう。
世界ではすでに導入事例多数
一方、後者の「無形資産投資」を促すのが、知的財産に軽減税率を適用する「イノベーションボックス税制」だ。そもそも、どんな税制なのか。
関係者の議論の場となっている経済産業省「我が国の民間企業によるイノベーション投資促進に関する研究会」の【資料1】は、税制の「対象となる知的財産の範囲」を「特許権」「著作権で保護されたソフトウェア」などとした上で、「対象知財のライセンス所得」「対象知財の譲渡所得」「対象知財を組み込んだ製品の売却益」を優遇税率の適用対象(のイメージ)としている。
【資料1】経済産業省「我が国の⺠間企業による イノベーション投資促進に関する研究会」資料で示された「イノベーションボックス税制の概要」。
産業技術環境局 技術振興・⼤学連携推進課
同資料は、経済開発協力機構(OECD)が策定した「税源浸⾷と利益移転(BEPS、多国籍企業の所得操作による課税逃れ)」に関するルールを引用し、イノベーションボックス税制の対象となるのは「国内で自ら」研究開発を行って取得した知的財産から生じる所得のみとしており、そこで対内投資促進策としての政府の意図も担保されている。
2023年末にかけて、優遇措置の対象となる所得の範囲、税率、分野などを絞り込んでいくと各種メディアが報じている。世界経済の潮流を踏まえれば、半導体や電気自動車(EV)などが戦略分野として特定される可能性が高い。
同様の税優遇はすでに欧州の一部の国々で導入されていて、フランス(2001年)を皮切りにイギリス(2013年)、イタリア(2015年)、アイルランド(2016年)などが相次いで採用。アジアでもインド(2017年)、シンガポール(2018年)が導入し、本稿執筆時点ではオーストラリアや香港も議論を進めている。
また、常にイノベーション大国の筆頭に挙げられるアメリカも、「外国稼得無形資産所得控除(FDII)」と呼ばれる類似の税優遇制度を導入している。
アメリカ国内に本拠を置く法人が、国外で得た一定の所得について37.5%(2026年1月以降は控除率が21.875%に縮小)の所得控除を認めるもので、知的財産から得られる所得だけでなく、アメリカ国内で製造して輸出された高付加価値商品(例えばパソコン)の売上所得まで税優遇の対象となる。
上記のFDIIとともに「国外軽課税無形資産所得(GILTI)」と呼ばれる制度も用意されており、こちらは国内企業がタックスヘイブン(税負担の軽い国・地域)に置く無形資産から得た所得に課税する、いわば懲罰的な制度だ。
両者の組み合わせにより、国内企業が付加価値の高い雇用や資本を国外へ流出させることを防いでおり、日本が検討中のイノベーションボックス税制と政策意図が似通っていると言える。
税優遇は長期で円安にも「効く」
対象が有形資産であれ無形資産であれ、政府による対内投資の促進は、円相場の先行きにとっても重要な意味を持つ。
イノベーションボックス税制については、究極的な目標として日本企業ひいては日本経済の競争力向上が設定されているものの、それは端的に言えば、貿易収支の改善効果が期待されているということだ。
もっと言えば、有形資産を想定した対内直接投資の促進も、無形資産を対象にしたイノベーションボックス税制による投資促進も、結局のところは、日本が海外に財・サービスを輸出(販売)して外貨を獲得する能力を向上させるのが狙いであり、それを期待されている。
したがって、投資促進が首尾よく実を結んだとすれば、為替需給の改善も期待できる(外貨の獲得が進んで円転のため円買い需要が高まる)だろうから、長い目で見れば円安対策になる。
近年、日本の海外とのサービス取引状況を示す「サービス収支」の赤字幅拡大が著しい。その内訳として、デジタル、コンサル、研究開発の3分野が新たな赤字項目すなわち外貨流出源として目立ち始めているのは、深く懸念される問題だ【図表1】。
【図表1】日本の「サービス収支」の変遷。内訳は、青部分がデジタル・コンサル・研究開発分野を含む「その他サービス」。赤部分は「旅行」で、訪日外国人観光客(インバウンド)需要の成長と回復による黒字拡大が可視化されつつある。
出所:Macrobond資料より筆者作成
そして、3分野の赤字拡大は別々の問題ではないように思われる。
国際収支統計上の区分で言えば、「研究開発サービス」における劣後が、その果実とも言える「通信・コンピューター・情報サービス」や「専門・経営コンサルティングサービス」での劣後を生み、赤字拡大に寄与している可能性はどうしても否定できない。
日本より出生率の低い韓国の現在
前回寄稿は、冒頭でも触れたように、英エコノミスト誌の特集記事を紹介することに主軸を置いた。
日本に限らず「出生率が低下すること(≒人口動態が高齢化すること)でイノベーションが起こらなくなる」事実が判明しており、かつて知的財産権を武器に主導的役割を果たしていた複数の技術分野でことごとく失墜した近年の日本の実情は、すでにそうしたイノベーションの低迷が始まっていることを示唆している、というのが記事の指摘だった。
そのまま読めば、少子高齢化という人口動態の実際を踏まえる限り、今後も含めて日本の凋落は不可避の運命にある、ということになる。
しかし、実際は必ずしもそうはならないことを示す例が身近にある。
日本と同じく人口動態の問題を抱え、また日本と同様に同様に原油・天然ガスなど鉱物性燃料の輸入量も非常に大きい韓国は、2022年の猛烈な資源高の影響をもろに受け、やはり日本と同じように大幅な貿易赤字に転落した。
それでも、基本的な収支構造としては、黒字が維持されている【図表2】。
【図表2】韓国の貿易収支の推移。原油・天然ガスなど「鉱物性燃料等」は黄色部分。大幅な黒字を長期間にわたり維持しているのが、茶色部分の「機械および輸送機器」。
出所:Macrobond資料より筆者作成
足元を見ると、韓国は月次ベースではすでに黒字に転じている(2023年6月の貿易収支は18カ月ぶりの黒字を記録)。
一方の日本は、本稿執筆時点で22カ月連続の貿易赤字を継続中で、直近の2023年1~5月合計は約7兆円の赤字。比較可能な1979年以降で最大の赤字額を記録した2022年通年の約20兆円には至らないとしても、それに次ぐ赤字幅が23年も予測される。
日本と韓国の貿易収支構造の強靭度にはいまや比較にならないほどの差があり、それを背景とする競争力の差も今後顕在化してくると思われる。
日本の研究開発分野への人的・金銭的負担は、過去数十年にわたってアメリカや韓国、その他主要国に劣後してきたので、日本はいまそのツケを支払わされている状況なのだろう【図表3】。
【図表3】主要国の企業(民間)部門における研究者数の推移。2000年1月を100とした場合の比較。際立った低空飛行が続くのが日本(青線および三角マーカー)。
出所:文部科学省科学技術・学術政策研究所「科学技術指標2022」より筆者作成
ここまで述べてきたような日本の実情があるからこそ、岸田政権の進めるイノベーションボックス税制導入のような政策に期待するところは大きい。外資誘致のような対内直接投資促進策も含めて、思考(頭脳)停止と揶揄される日本を再起動するための処方箋になればと思う。
すぐに実を結ぶものではないにせよ、日本の実情に応じた正しい方向の政策アクションが採られている、ということだけは言えるだろう。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。