“経済学者版4ちゃんねる”と呼ばれる匿名掲示板「EJMR」の投稿者の発信元の中に、イェールやハーバードといった一流大学のものも含まれることが分かった。
Shannon Stapleton/Reuters
2009年10月、当時大学院生だったアーニャ・サメック(Anya Samek)は、アリゾナ州ツーソンで行われる北米経済科学会で講演することになり大喜びしていた。他の大学院生から、登壇するなんて「本当に勇気があるね」と言われるまでは。
サメックは知らないうちに、匿名掲示板「経済学の雇用市場の噂(Economics Job Market Rumors、以下EJMR)」の標的になっていた。これは、学術界と経済界における専門職の雇用について議論するために2008年に開設されたものだ。
投稿者らの言い分では、サメックは学部で比較的知名度が低い大学出身なのに、ポスドクで名門シカゴ大学に合格したのがまずかったらしい。
「このサイトの人たちは、マイノリティや女性、あるいは彼らがふさわしくないと思っている人が認められるのが気に入らないんだと思います。(投稿者は)私のホテルの部屋の場所を探し出して、私を待ち伏せしようと話していました」(サメック)
サメックは恐怖に襲われた。彼女について投稿していた人物はその学会に出席していたようで、彼女のプレゼンがいつ予定されているかも知っているようだった。彼女は早退して友人宅に隠れ、講演するときだけ戻った。
「彼らが誰なのかは絶対に分からないので、学界から去ろうかと本気で考えました。この恐怖はしばらく続きそうです」(サメック)
投稿者のIPアドレスを特定
この10年間で、EJMRは「経済学者版4ちゃんねる」として知られるようになり、経済学畑の人たちがこの掲示板でゴシップをやりとりしたり、ときにはヘイトスピーチが投稿されることもある。月間の訪問数は約250万件にのぼる。
2023年7月20日に開催された全米経済研究所(National Bureau of Economic Research)の年次総会で、ボストン大学のフロリアン・エデラー(Florian Ederer)は、イェール大学のポール・ゴールドスミス=ピンカム(Paul Goldsmith-Pinkham)とカイル・ジェンセン(Kyle Jensen)とともに、EJMRの投稿者のIPアドレスを特定する方法を明らかにした。その情報を使って、エデラーらは投稿者たちが働いていると思われる場所(ハーバード大学やイェール大学のようなエリート大学も含まれる)など、投稿者に関する重要な事実を明かしてみせた。
Insiderの取材に応じたエデラーは、EJMRが「極めてネガティブで、非常に有害で、女性差別的で、性差別的で、人種差別的」であることから、これを調査したいのだという。たしかに、EJMRの5カ月前の投稿には「女性の本質はセックスをして子どもを作ることだ」とある。6カ月前に投稿された別の書き込みはこうだ。
「魅力的で混血の黒人女性は、アファーマティブ・アクションの恩恵のほとんどを受けている。デニーズの従業員を襲う200ポンド(約90kg)のデブ女たちじゃそうはいかない」
すべての投稿がこれほどひどいわけではないが、EJMRには差別的な内容を嬉々として語る傾向の雰囲気がある。これ以外の投稿では、キャリア戦略についてのインサイトを提供し、関連する研究論文について論じているものもあるし、教員採用に関するゴシップの情報源という本来の目的でも使われてはいる。
それでも、全投稿のおよそ10%が、人種差別、女性差別、誹謗中傷など、何らかの形で「有害」であることが調査で判明した。エデラーによると、EJMRはとにかく印象がよくないため、経済学者のほとんどは投稿はおろかこのサイトを見ているなどと表立っては言わないという。
EJMRにおける偏見、罵倒、嫌がらせにどう対処するかは経済学者の間で何年ものあいだ話題になっており、2023年1月には米国経済学会の会長であるクリスティーナ・ローマー(Christina Romer)がこのサイトを「汚水溜」と呼んでいる。
投稿の1割が差別発言
今月20日にエデラーらのEJMRに関する研究がオンライン上に投稿されると、経済学界に衝撃が走った。ベイラー大学のスコット・カニンガム(Scott Cunningham)教授は、この研究をマーベル・シネマティック・ユニバースか『スター・ウォーズ』あたりの新作発表並みの、画期的な出来事だと言った。
#EconTwitterは盛り上がり、この研究を祝福するツイートと同時に、匿名だと思っていた人々を特定することについての倫理的な懸念もわずかながら見られた。EJMRの掲示板は、研究に対する質問、暴露されることに対するパニック、研究の存在に対する怒りであふれ返った。
7月20日にエデラーが自身のチームの研究結果を発表した際には2000人近くの視聴者がライブ視聴した。これは学会でその日、それまでに行われた他の講演の10倍にあたる。
研究の結論の大部分は、比較的幅広いものだ。中でも特に重要なものは、以下の通りである。
- ハーバードやスタンフォードなどの一流大学の人たちが、極めて人種差別的、性差別的な書き込みを行った。8年前、あるエリート経済機関で誰かが自身のラップトップを開き、EJMRに「white pussy(pussyは女性器を表す俗語)」について投稿したことは明らかである。ハーバード、スタンフォード、イェール、シカゴ大学、全米経済研究所本部のIPアドレスによる他の投稿の断片には、次のようなものがある。「レイプしがちな難民歓迎!!!!! - メルケル」「ビッチは超ブサイク」「中国系が白人の仕事を奪い、白人はそれに対抗して白いとんがり帽子をかぶる」
- 若手研究者だけでなく、上級経済学者もこのサイトに投稿している。毎年、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるホテル「ロイヤル・ソネスタ」のIPアドレスからの投稿は、このホテルで、この分野のトップ研究者の集まりであるNBER会議が開催される期間に急増している。コロナ禍のため会議がリモートで行われた2020年、2021年にはこのような急増は起こらなかった。
- ノートルダム大学、スタンフォード大学、コロンビア大学が大学からの投稿の最も多い割合を占めた。ノートルダム大学のIPアドレスは、研究機関のIPアドレスからの投稿の3.4%を占めている(ただし、他の大学の投稿者が、単に仕事中にEJMRを閲覧していないか、VPNを使っている可能性もある)。
- EJMRへの投稿の約10%は「有害」である。有害な言論の割合が最も高い上位25大学には、シカゴ大学、スタンフォード大学、コロンビア大学が含まれる。研究者らは、ヘイトスピーチ、罵倒、中傷、人種差別を探し出す機械生成データセットを用いて、女性差別と有害性を特定した。
- 研究者らがIPを特定できたのは、EJMRが一時的なユーザー名を作成する際に、ソルト、つまり、個人情報の保護に役立つランダムなデータセットを使用しなかったためだ。その結果、投稿者の身元を特定する鍵は、研究の抄録が公開された今年初めにサイトがその方法を更新するまで、丸見えだった。エデラーによると、ユーザー名とIPアドレスを結びつける方法を見つけ出すのに要した時間はわずか15分だったという。研究者たちは公開されているデータのみを使用し、その方法は同じIPアドレスから複数回投稿した人にのみ有効だった(論文にはその方法が詳しく書かれている)。
身元が暴露されるのを恐れるユーザーたち
一部の経済学者は何年もの間、EJMRへの投稿はこの分野の傍流の人たちによる荒らしだとして、軽視してきた。しかしこの研究によって、そのような仮説が誤りであることが暴かれた。最も影響力のある機関からも、極めて有害な言葉が投稿されていることが分かったのだ。
「この専門職は、ダイバーシティの問題には相当苦戦しています」と、オハイオ州立大学の経済学教授であるトレボン・ローガン(Trevon Logan)は述べる。経済学に携わる者が「特定の人たちに対して故意に敵意を向けるなら、我々の経済に関する意思決定のテーブルに就くべき人選にも影響を与えることになります」。
投稿の出処が明らかになった今、大学に措置を講じるよう求める声も出ている。Insiderはハーバード大学に対し、EJMRに投稿した教員を特定したり措置を講じたりする計画があるか質問したが、同大はコメントを拒否した。研究で言及された他の大学からもコメントは得られなかった。
この研究をめぐる議論の大部分は、実際には論文に書かれていないこと、つまりEJMRの投稿者を晒すことについてだ。マサチューセッツ大学アマースト校のイタイ・シアー(Itai Sheer)教授は次のようにツイートしている。
「このようなことを言わなければならないとは驚きだが、社会科学研究は特定の匿名の身元を暴露するために利用されるべきではない。研究過程に関連して、『罪のない人々』にするのは間違っていることを、『罪のある人々』にすることを許すような刑事司法制度は存在しない」
EJMRの投稿者の中には、この研究は違法であると主張する者もいる(エデラーによれば、研究者らはイェール大学の倫理審査委員会や法律顧問と緊密に連絡を取り合っているという)。
自分の安全が脅かされていると言う者もおり、うち1人は「私はエルドアンのトルコから投稿しているが、自分はもうおしまいだと思っている」と綴っている。ほかにも、トランスジェンダーの人たちに対する中傷語を用いながら、「黒人の犯罪性、女性の凡庸さ、トランスジェンダーの狂気に言及する」人にはみんなまとめて偏屈者というレッテルが貼られるのが不満だと書いている。
エデラーはInsiderに対し、自身と共同執筆者らは投稿者の名前を暴露しておらず、その予定もないと話す。彼らが共有した唯一のIPアドレスはEJMRの匿名の創設者のものであり、その者はかつて、自分のIPを当てられたら100万ドルをあげると投稿していた。
「我々はIPアドレスを回収していますが、これらのIPアドレスを報告することはありません。我々は集合状態でこれらを提示しているだけです。我々がIPアドレスを入手したとしても、この情報で個人を特定できるわけではありません。なぜなら、1つのIPアドレスに複数の人間が関わっている可能性があるからです」(エデラ−)
だが、ここには落とし穴がある。
「もし人々がタイトルナイン訴訟(Title IX。公的高等教育機関における男女の機会均等を定めた米国の教育改正法第9編のこと)を起こせば、我々の研究の情報を召喚し、訴訟に利用する可能性があるのは疑う余地のない事実です」(エデラー)
すでに進行中の訴訟もある。現在カリフォルニア大学サンディエゴ校の経済学教授であるサメックは2023年5月、EJMRの投稿者に対する法的措置に協力するよう米国経済学会に求める申し立てを開始した。7月20日朝の時点で、署名数は1000件に迫っている。
サメックは、女性やマイノリティは、彼女が10年以上前に遭遇したのと同じ脅迫や名誉棄損に今も直面していると話す。
「ある一流大学の上級教授からは、EJMRのコメントが原因で、彼のところのとびきり優秀だった大学院生が学界を去ったというメールをもらいました。
今年、就職活動をしていた大学院生からもメールが来ました。匿名投稿者から『もしおまえが私の研究機関に来て講演をしたら、おまえを探し出す』と脅迫する書き込みがあったそうです」(サメック)
サメックは現在、同じように誹謗中傷や脅迫の被害に遭った人たちに対し、自分に連絡するよう求めている。集団で法的措置をとれるようにするためだ。
「他の人たちはたいてい、誰かが非公開で何かを投稿したのなら、それを非公開なままにしておく権利があると思っています。(しかし)もし誰かが犯罪を犯し、非公開だと思っていたのに監視カメラの映像があったとしても、私たちは『それは非公開のはずなのに』とは言いませんよね。
ヘイトスピーチを投稿する人たちのプライバシーを守ることよりも、オンライン上の安全を優先すべきだと思います」(サメック)