エーザイが、アルツハイマー病の新薬を開発した。
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8月21日、厚生労働省の専門家部会が、エーザイなどが開発したアルツハイマー病新薬「レカネマブ」の承認を了承したとNHKなど多数のメディアが報じました。
レカネマブは、アルツハイマー病治療にどんな影響をもたらすのか。専門家に聞きました。
※以下の記事は、2023年7月27日初出です。
日本では2025年までに、人口の約3人に1人が65歳以上の高齢者になる「超高齢社会」を迎えると言われています。加えて、2025年段階で、その高齢者の5人に1人が「認知症」になるとの予測もあります。
世界一の長寿大国である日本にとって、認知症への対策は長く健康に生き続ける個人のウェルビーイングを考える上ではもちろんのこと、膨張し続ける社会保障費を抑制するためにも非常に重要です。
認知症には、アルツハイマー型認知症や血管性認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭葉変性症など、さまざまなタイプが存在します。
この7月、認知症の原因の約6割を占める「アルツハイマー型認知症」(以下、アルツハイマー病)の治療に大きな進展がありました。製薬大手エーザイと米国のバイオジェンが開発したアルツハイマー病の治療薬「レカネマブ」が、米国食品医薬品局(FDA)に治療薬として承認されたのです。
このニュースは日本でも大きく報じられました。
国立長寿医療研究センターで、アルツハイマー病をはじめとする認知症の基礎研究に携わる飯島浩一博士も、今回、レカネマブが承認されたことについて、
「アルツハイマー病治療における、歴史的転換点と言ってもいいのかもしれません」
と期待を語ります。
なぜ、世界はレカネマブの薬事承認にこれほど沸いているのでしょうか。レカネマブは、アルツハイマー病治療のゲームチェンジャーになり得るのでしょうか。
7月のサイエンス思考では、飯島博士にアルツハイマー病の新薬レカネマブ誕生の意味と、これからの認知症治療の道筋を聞きました。
対症療法から「原因」の治療へ、画期的な治療薬
国立長寿医療研究センターで、アルツハイマー病をはじめとする認知症の基礎研究に携わる飯島浩一博士。
画像:取材時のスクリーンショットを撮影
エーザイらが開発した新薬「レカネマブ」は、アルツハイマー病の治療における画期的な治療薬だと言われています。というのも、レカネマブは早期の認知機能低下者(軽度認知障害:MCIを含む)に対する臨床試験において、認知機能の低下を27%抑える、つまりアルツハイマー病の進行を抑える効果が確認されたのです。これは世界初※のことです。
※2021年には、バイオジェンらが開発した「アデュカヌマブ」というレカネマブと似た作用を持つ治療薬が「条件付き」でFDAに承認されています。なお、現在も継続審議中で、正式承認には至っていません。
2021年に米国で条件付き承認となった、アデュカヌマブ。
Jessica Rinaldi/Pool via REUTERS
アルツハイマー病は、脳の神経細胞がダメージを受けることで脳が萎縮する病気です。病状が進行すると、人の顔や名前、時間や場所などを忘れてしまう「記憶」に関わる症状などが現れることが知られています。
その他にもアルツハイマー病の人には発症初期から、意欲がなくなったり、不安を感じやすくなったり、あるいは無目的に徘徊したり、介助・介護を嫌がって暴力を振るったりといった精神・行動面への影響が現れることがあります。
こういったさまざまな症状は「認知症の行動・心理症状」と呼ばれ、人によって症状の現れ方は異なります。
飯島博士は、
「(この違いが生じる)一番大きな要因は、おそらく『脳のどの領域が障害されるか』ということです。あとは、環境要因として病歴や心理的な問題が影響していると考えられています」
と話します。
これまでのアルツハイマー病の治療では、認知機能に関係した神経細胞間の信号の伝達を補助したり、神経細胞を死へと誘導する過剰な刺激を防いだりする治療薬が処方されていました。また、周辺症状に対しても、例えば抑うつの傾向がある人には抗うつ薬を処方する、といった治療がなされてきました。
ただこういった治療はいわゆる「対症療法」であり、アルツハイマー病の原因を取り除いているわけではありません。
神経細胞同士をつなぐシナプスのイメージ。
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薬によって生活に支障が出ないように症状を抑えることはできても、効果が切れると同じような症状が出てきてしまいますし、時間が経てば症状も深刻化していきます。
だからこそ、発症そのものを防いだり、病気の進行を遅らせたりする、「病気の原因」に作用する治療薬の開発が待たれていました。
そこに一石を投じたのが、今回、エーザイとバイオジェンが開発した「レカネマブ」です。
アルツハイマー病の原因物質を排除する
レカネマブの開発に携わった米医薬品メーカーのバイオジェン。2021年に条件付き承認された「アデュカヌマブ」の開発にも携わる。
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レカネマブは、世界初となるアルツハイマー病の「原因」に作用する治療薬です。
アルツハイマー病の原因として重要だと考えられている物質は2つあります。脳の神経細胞同士のすき間に蓄積する「アミロイドβ」と、神経細胞内に溜まっていく「タウ」というタンパク質です。
アミロイドβは、正常な脳内でも生じている物質です。本来は自然に排除されるものですが、年齢を重ねると脳内でアミロイドβを排除する働きが弱くなり、徐々に蓄積していくようになると言われます。
アルツハイマー病の人の脳には、アミロイドβが蓄積してシミのようになった「アミロイド斑」という模様が現れることが知られています。これがアルツハイマー病を定義するポイントの一つです。アミロイドβの蓄積がアルツハイマー病の引き金を引く要因であることは、遺伝性アルツハイマー病の家系でアミロイドβが蓄積しやすいことからも、ほぼ確実だと考えられています。
ただ中には、アミロイドβが蓄積しても、アルツハイマー病を発症しない人もいます。そこで重要になるのが「タウ」タンパク質です。
タウタンパク質は、神経細胞にとって重要な役割を果たすタンパク質である一方で、蓄積すると神経細胞の萎縮や細胞死を引き起こす毒性を持ちます。アルツハイマー病はもちろん、さまざまな脳疾患で、タウタンパク質の蓄積が見られるといいます。
アルツハイマー病の人の脳には、アミロイドβやタウというタンパク質が蓄積しているという(画像はイメージです)。
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アルツハイマー病を引き起こすメカニズムについて、現状ではまだ分かっていないことも多いとはいえ、飯島博士は、
「アミロイドβの蓄積が脳内の慢性的なストレス源になることで、本来の脳機能が少しずつおかしくなり、タウタンパク質の蓄積のような問題が顕在化してくるのではないか。そういう意味で、アミロイドβの蓄積が20〜30年かけてアルツハイマー病の発症を引き起こしているのではないかと考えられています」
と現状有力とみられる仮説について説明します。
こういったアルツハイマー病の原因に関する仮説が組み上げられてきたのは、2000年前後のことです。そしてそこから、大元の原因だと考えられるアミロイドβの排除を目的とした治療薬の開発が続けられてきました。
治療効果なし…からの大逆転
2023年7月に米FDAで薬事承認された、エーザイとバイオジェンが開発した「レカネマブ」。
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アミロイドβがアルツハイマー病の原因なのであれば、アミロイドβを生産できなくしたり、アミロイド斑を除去したりできれば治療が可能なはず——。
こう考えるのは、ごく自然なことです。
しかし、アミロイドβの生産を止める治療薬は副作用が大きく、開発は頓挫しました。そこで現在開発が進められているのが、脳内に蓄積したアミロイドβを除去する「抗体」を作り出し体内に投与する、レカネマブのような「抗体医薬品」です。
ただ、2014年に報告された、ヤンセンとファイザーが開発した最初の抗体医薬品候補である「バピネウズマブ」やイーライリリーが開発した「ソラネズマブ」 の臨床試験では、アミロイドβを減少させることはできたものの認知機能には改善が見られませんでした。
「この時、抗体医薬品はだめなのではないか……という空気になりかけました」(飯島博士)
その空気感を変えるきっかけになったのは、アルツハイマー病の診断技術の進歩でした。
今では、アルツハイマー病の証拠を画像で見つけることもできるようになっている。
REUTERS/Brian Snyder
アルツハイマー病の診断基準は、認知機能の低下に加えて、脳にアミロイドβとタウタンパク質の蓄積が認められることです。
そのため、かつてアルツハイマー病の確定診断をするには、死後に脳を病理解析するしか方法がありませんでした。
「今では、生存中に脳内にアミロイドβが溜まっているかどうかを確認することができるようになりました。その結果、アルツハイマー病はアミロイドβが蓄積し始めてから20〜30年後に発症するものだということも分かってきました」(飯島博士)
それまでに実施された治験の対象者は、アルツハイマー病をすでに発症した人、つまりある程度アミロイドβが蓄積し始めてからしばらく時間が経過した後の人です。認知機能に影響が出るほど症状が進行してしまった段階では、アミロイド斑を除去できたとしても、認知機能(傷ついた神経細胞)を回復させることは至難のわざです。
「これまでの治験は、実施するタイミングが遅すぎたのではないかということに気づき始めたわけです。そこで、抗体医薬品を見直す流れになっていきました」(飯島博士)
現在では、画像解析や脳脊髄液のバイオマーカー検査、さらに最近では血液のバイオマーカーを活用することで、かなり前段階からアミロイドβが蓄積し始めていることが分かるようになってきています。
こうした中で効果が認められたのが、レカネマブだったのです。
アルツハイマー病治療は転換期に
アルツハイマー病治療薬の点滴を受ける人。この写真は、2021年にFDAで条件付き承認をされたアデュカヌマブ。アデュカヌマブも抗体医薬品の一種だ。
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レカネマブの承認は、アルツハイマー病の進行を抑制することができる抗体医薬品の可能性を示す上で大きな一歩です。日本でも年内の承認に向けて、現在薬事審査が進められているとの報道もあります。
また、レカネマブはアミロイドβが蓄積し、かつ認知機能が低下している人を対象にした治療薬として承認されたものです。ただ、アミロイドβの蓄積が始まっているけれども、症状が出ていないような段階で投与できれば、より大きな効果があるのではないかとも期待されています。
認知症がアミロイドβの蓄積から数十年後に発症する病気であることを考えると、症状が出る前の早い段階から治療薬を処方して進行を抑えることができれば、人生100年時代の大半を認知症と無縁で過ごせるようになるかもしれません。
「抗体医薬(による治療)をアミロイドβが溜まり始めた発症前の段階から開始できれば、強力なゲームチェンジャーになる可能性があります」(飯島博士)
ただ、レカネマブにも課題がないわけではありません。治験対象になった人の中では、一部の人で脳が腫れたり、出血したりといった副作用も認められています。副作用を小さくすることや、より有効性の高い薬の開発が求められますし、レカネマブの場合は2週間に1回の点滴が継続して必要になる点も特徴です。
その点、現在米国で承認申請が進められている、米製薬会社イーライリリーが開発した「ドナネマブ」という抗体医薬品では、4週間に1回の点滴を数回行うだけでレカネマブと同じような効果が見込める可能性があることから、世界的に非常に注目を集めています。
抗体医薬品だけで、全ての認知症の課題を解決できるわけではない(写真はイメージです)。
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ただ、抗体医薬品でアルツハイマー病をはじめとしたすべての認知症の問題が解決できるわけではありません。
抗体医薬品は、遺伝的にアルツハイマー病の発症リスクが高くなるような人(APOE遺伝子のε4型を持つ人)に対して、非常に強い副作用が出てしまう傾向があります。また、認知症の人の中には、アルツハイマー病以外の認知症を併発しているケースもあります。
「診断法が進んで、 それぞれの疾患に対してアルツハイマー病へのアプローチのような基礎研究が進み、治療法が開発されています。治療薬と診断法の研究開発が両輪そろって進んでいくことで、治療環境はより良くなっていくのではないでしょうか」(飯島博士)
また、レカネマブやドナネマブは画期的な新薬ですが、あくまでも「進行の抑制」が主な効果です。神経細胞が萎縮し、症状が現れた段階から「回復」させることはかなり難しいとされています。
ただ、アルツハイマー病の原因を除去し、それ以上深刻化するのを防ぐことができるようになれば、そこから「回復させる」という次の一手を打つことも可能になるかもしれません。
飯島博士らの研究チームでは実際に、アミロイド斑を取り除いた後に、脳内で弱った神経細胞の修復能力や生存能力を高めるような治療法の開発に取り組んでいるといいます。
そのためには、アルツハイマー病の脳で神経細胞が失われる過程を明らかにしていくとともに、食事や運動などの介助的な療法との関係性を一つひとつ明らかにしていく、基礎研究や臨床研究が非常に重要になってくるといいます。
いずれにせよ、抗体医薬品の登場によって、現代はアルツハイマー病の治療の大きな転換期を迎えているといえそうです。
※編集部より:8月21日に厚生労働省の専門家部会が承認を了承したことを追記しました。2023年8月21日 21:50