REUTERS/Kim Kyung-Hoon
7月24日、国連「ビジネスと人権」作業部会の議長が日本に到着した。訪日目的は、日本政府と日本企業が人権問題にどう取り組んでいるかを調査するというもので、ジャニーズ事務所の創設者・故ジャニー喜多川氏による性加害をめぐる問題についてもヒアリングを行うとされている。8月4日には記者会見が予定されている。
時期を同じくして、こんなニュースも流れた。この秋のバレーボールのワールドカップに、ジャニーズ所属タレントは一切出演しないことになったという話だ。ジャニーズ事務所は約30年にわたりこのイベントのスペシャル・サポーターを務めてきたが、今年はある参加国から「ジャニーズのアイドルが大会に関わるのであれば出場を取りやめる」という抗議があったという。
これは当然という気がする。次々と告発者が出てきており、問題がまったく清算されていない現在、これまで通りにジャニーズを起用しようとした日本バレーボール協会や共催企業であるフジテレビは、問題の深刻さを見誤っている。
パターン化する「外圧頼み」
上記のような流れは、なんといってもジャニーズの性加害問題について、英語で報じられたことの影響が大きいだろう。2023年3月にBBCがジャニー喜多川氏による少年たちの性的虐待に切り込んだドキュメンタリー「J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル」を放映し、続いて4月にカウアン・オカモト氏による日本外国特派員協会での記者会見が行われ、いずれも大きな反響を呼んだ。
これによって流れが変わった。どんなニュースも、日本語でしか報じられていないうちは情報鎖国状態によって国外には漏れないが、いったん英語で報じられてしまえば、英語圏はもちろん、それ以外の世界中にも瞬時に伝わってしまう。
この4カ月の間に続々と告発者が現れ、その被害のスケールの凄まじさが徐々に明らかになりつつあるにもかかわらず、ジャニーズ事務所、メディア、日本政府の対応はとても十分とは言えない。告発者たちにしてみると、このたびの国連やバレーボールW杯の動きは、やっと自分たちの声が大きな組織に真剣に受け止めてもらえたと感じられることだろう。
この展開にはデジャブ感がある。2018年にBBCが伊藤詩織さんの事件(※)を取り上げたときのことだ。2018年に放映されたBBCの番組「日本の秘められた恥(Japan’s Secret Shame - Shiori Ito)」、またこれに先立って2017年12月に掲載されたニューヨーク・タイムズの記事「彼女は日本のレイプに対する沈黙を破った(She Broke Japan’s Silence on Rape)」がきっかけとなり、この事件は海外でも「日本の#MeTooのシンボル」として注目を集めることになった。
日本外国特派員協会の会見で記者の質問に答える伊藤詩織さん(2019年12月19日)。
撮影:竹下郁子
この時、英語圏の報道には、日本のそれと比較して明確な違いがあった。「山口氏は、安倍首相と近かったために特別扱いをされたのではないか?」という最大の謎を正面きって指摘し、突っ込んでいるものが多かったという点だ。
これは、この事件の顛末を聞いた人なら誰もが抱くであろう、ごく自然な疑問だと思うのだが、この点については、日本のメディアはそれまであたかも腫れ物に触るようだったので、その姿勢の相違が際立った。
伊藤詩織さんの事件の際も、このたびのジャニーズ問題に際しても、日本のメディア(特に大手新聞、テレビ)の及び腰ぶりが目につく。BBCの番組も指摘していることだが、喜多川氏の性加害問題は何十年ものあいだ噂されてきたことで、1980年代にはフォーリーブスのリーダーとして活躍した北公次氏による告発もあった。2003年には、東京高裁が、1999年の週刊文春の記事をめぐる訴訟で、性加害を事実と認定していた。
また、この話は一個人による不適切な行動というレベルを超え、ひとつの営利企業の在り方に関わる問題だ。しかも被害者の多くは青少年だ。なのになぜ、日本の報道ではこのような深刻な問題が真剣に追及されず、事実上黙認されてきたのか。なぜ、外国のメディアが報じるまでは日本人すら実態を知ることができない、などという状況になっているのだろうか。
上記のような出来事について振り返ってみると、日本はどこまでも外圧によってしか変われないのではないか、という疑念を今更ながら抱く。特に人権問題となると、ことのほか自浄能力が低く、外から厳しく指摘されないと明るみに出ず、そもそもまともな議論にすらならない。
「ミスター・ガイアツ」というあだ名で「ガイアツ」という言葉を英語圏にも知らしめたのは元駐日米国大使(1989-93年)マイケル・アマコストだが、本家本元のミスター・ガイアツは、1853年に来航し、日本を開国させたペリーだろう。それから170年が経つわけだが、日本は「できる限り変化を拒み、先延ばしにする」という部分においてはあまり変化していないように思える。
ワインスタインの性加害を暴いた命がけの調査報道
ハリウッドの重鎮として絶大な影響力を持っていたハーヴェイ・ワインスタイン。しかし2017年10月のニューヨーク・タイムズ報道を皮切りに、ワインスタインから性的虐待を受けたと主張する女性たちが次々に声を上げた(写真は2018年10月撮影)。
REUTERS/Mike Segar
ジャニー喜多川の性加害の実態(まだ氷山の一角だろうが)についてのニュースを読むにつれ、そのパターンが、ハリウッドの名プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのそれとよく似ていると感じる。
両者がそれぞれの国のエンターテインメント界において絶対的な権力を握っており、それゆえに何をしても許されるアンタッチャブルな存在であったこと、長年にわたりメディアも社内の人間も揃って見て見ぬふりをしてきたであろうこと、被害者たちは「売れるためには仕方ない、こういう世界なんだから」と諭され、黙らされてきたであろうことなどが酷似している(ただし、被害者の多くが十代の未成年、場合によっては子どもだったことや、被害者の人数がはるかに多そうであることを考えると、ジャニーズの問題のほうがワインスタインの何倍もひどいとも言える)。
ジャニー喜多川同様、ワインスタインも、権力を乱用して性加害を働いていることは長いあいだ業界内で公然の秘密だった。でも、それを暴くことはおよそ不可能と考えられてきた。ワインスタインは、芸能界、メディアはもちろん、政界(彼は民主党の大口スポンサーで、ヒラリー・クリントンやバラク・オバマとも近かった)にも、さらには国際的なスパイ組織にも強いコネクションを持っていた。
そんなワインスタインの性暴力は、どうやって暴かれたのか。どうしてそんなことが可能だったのか。それは日本でも可能なことなのだろうか。できないとしたらなぜなのだろうか。ワインスタイン報道の内幕について振り返ることで何かヒントが得られるかもしれないと思い、最近、記事や関連著作を読み返し、映画も見てみた。
不可能を可能にした3人の若き記者たち
ワインスタインの性暴力について徹底的に調査・糾弾したのは、ニューヨーク・タイムズのジョディ・カンターとメーガン・トゥーイー、そしてニューヨーカー誌のローナン・ファロー。一連の調査報道によって3人は2018年のピューリッツアー賞(公益部門)を合同で受賞し、一躍、時の人となった。受賞記事を書いた時点で、カンターとトゥーイーは30代中盤、ファローはまだ30歳にもなっていなかった。
受賞対象となったニューヨーク・タイムズの一発目の記事は2017年10月5日、ニューヨーカーの記事はその5日後の10月10日に公開された。彼ら彼女らはいずれも、多くの女優、元・現スタッフなどへのインタビュー、法的文書、企業の記録文書、社内のメールや書類を精査しながら、巧妙に隠された秘密を暴いていった。また、報復を恐れて証言したがらない告発者たちの信頼を勝ち取り(これが非常に難しい)、その心を徐々に開かせていった。
いずれの媒体も、一つ目の記事の後、複数回にわたるシリーズ記事を掲載することとなった。カンターとトゥーイーは、一つ目の記事が出た後の反響について、「まるでダムが決壊する様子を見ているようだった」と述べている。
10月5日の記事が出ると、数多くの女性たち(アンジェリーナ・ジョリー、グウィネス・パルトロウなど大物女優たちも含む)がニューヨーク・タイムズにコンタクトし、自分も実名で証言すると申し出た。記事の翌日、ワインスタイン・カンパニーの取締役会(全員男性)の3分の1が辞任し、2日後にはワインスタインが解雇された。
記事から約半年後の2018年5月、ワインスタインは、強姦と犯罪的性行為および性的虐待の容疑でニューヨーク市警に逮捕・訴追された。
女性やイスラム教徒などへの差別発言を繰り返すトランプに対し、抗議の声を上げる女性たち。猫耳の形をしたピンク色のニット帽(通称プッシーハット)は反トランプの象徴となった(大統領就任翌日の2017年1月21日、50万人もを動員したと言われる「女性のマーチ」が行われたワシントンで撮影)。
REUTERS/Brian Snyder
アメリカでは、2016年の大統領選前から、女性の尊厳を踏みにじるようなドナルド・トランプの発言が注目を集めるようになっていた。しかし、数々の告発や暴言にもかかわらず彼は大統領に当選した。その理不尽さに対する憤りが#MeToo運動の原動力だったと言っていいだろう。
そこに、ワインスタインの悪事を暴くこれらの記事がガソリンを注いだ。数十年間にわたり女性たちを力で抑えつけ、侮蔑的に扱いながら、富と権力によって守られ、何をしても許されてきたワインスタインは、トランプのイメージと大いに重なる。これらのパワフルな記事にインスパイアされ、それまで泣き寝入りしていた数多くの被害者たちが文字通り「Me too」と沈黙を破ることになった。
これら3人の記者たちがどうやって不可能と思われる取材をやり遂げたか、その過程でどんな困難を経験したかについては、彼ら彼女らがまとめた著書、『She Said(邦題:その名を暴け)』や『Catch and Kill(邦題:キャッチ・アンド・キル)』に詳しく書かれている。
『She Said』について、ニューヨーク・タイムズの書評は、ニクソン大統領のウォーターゲート事件について暴いたボブ・ウッドワードとカール・バーンスタイン(いずれも当時ワシントン・ポストの記者)による『All the President’s Men(邦題:大統領の陰謀)』のフェミニスト版のようだ、と書いていた。共通点は、圧倒的なパワーを持つ相手の不正義に、若いジャーナリストが体当たりし、綿密で忍耐強い調査によって相手の尻尾をつかみ、とうてい勝てそうにない勝負に勝つという展開だ。
そしてこの書評はこうも指摘している。このような古典的な調査報道は、実はまだアメリカでは機能している。フォックスの看板アンカーだったビル・オライリーはニューヨーク・タイムズに、富豪ジェフリー・エプスタインはマイアミ・ヘラルドに、ラリー・ナサール(女子体操選手などへの性的暴行の罪に問われた米女子体操五輪チームの元医師)はインディアナポリス・スターに、ロイ・ムーア(5人の女性に性的加害について糾弾されたアラバマ州の判事)はワシントン・ポストのスクープによって暴かれ失脚した、と。
2022年11月、監督らとともに映画『She Said』のプレミアに出席したニューヨーク・タイムズのジョディ・カンター(左から2番目)とメーガン・トゥーイー(右端)。
REUTERS/Mario Anzuoni
映画『She Said』を観たとき、一連の記事を読んだときとはまた違うことを感じた。記事を読んだときには、2人の若い女性記者の力量をただただ凄いと感じたのだが、映画を見ながら思ったのは、彼女たちを支え、守った上司たちのことだった。
ワインスタインのようなパワフルな人物を敵に回すということは、いくらニューヨーク・タイムズとはいえ相当な覚悟が必要だったはずだ。記者たちはもちろん凄いが、腹をくくってこの問題に取り組むと決断し、彼女たちを支え、おそらく存在したであろう社内政治にもワインスタイン側からの数々の脅しにも屈せず、徹底して部下を守り抜いた上司たちが本当に凄かったのだなと感じた。
最終的にこの記事を発表することにゴーサインを出した社の最上層部も、社の生命をかけての判断だったと思う。一記者がどんなに頑張ろうとも、パワーにはパワーとして、組織には組織として立ち向かわない限り勝てない。
なお、ニューヨーク・タイムズでは、2013年にシニア編集委員の5割が女性になっている。もちろんこれはニューヨーク・タイムズ創業以来初のことだ。映画では、カンターとトゥーイーを導き、最後まで寄り添って伴走するベテラン調査報道編集者(レベッカ・コルベット)役をパトリシア・クラークソンが演じている。コルベットも2013年にシニア編集委員に昇格した一人だった。意思決定層に女性を増やす意味は、こういうところにも表れるのだと思う。
「何が得か」ではなく「何が正しいか」
社内政治や外からの圧力は、当然アメリカにもある。ニューヨーカー誌のローナン・ファローは当初、ワインスタイン問題を、アメリカの3大ネットワークの一つであるNBCテレビの記者という立場で取材していた。さまざまな紆余曲折の末、NBCは、彼の取材した内容を放映しないことに決めた。ファローが一連の記事をニューヨーカー誌から発表することになったのは、それゆえだ。その経緯は、彼の著書に詳しく書かれている。
ニューヨーク・タイムズとニューヨーカーの記事が出た際、保守系メディアであるウィークリー・スタンダードのリー・スミスは、「メディアがこれまでワインスタインを暴かなかった理由は何か? 『書きたかったけれど、事実関係を証明するのが難しかったから』なんかじゃない。彼らはワインスタインを守りたかった。だから書かなかったんだ」と指摘している。メディアは、ワインスタインとの関係を悪くしたくなかったし、できればビジネスにつながるチャンスも欲しかった。自分たちのストーリーを彼の会社が買って映画にしてくれたら……という下心もあった。だから追及したくなかったのだ、と。
自己検閲や忖度は、程度の差こそあれ世界中どこにでも存在する。それだけでなく、抑圧しようとする側は、金とパワーとコネ、それに辣腕の弁護士チームを使って、あの手この手で脅したりなだめたりしてくる。
ワインスタイン事件の調査報道でカンター、トゥーイーとともにピューリッツァー賞を受賞したローナン・ファロー(左)。母は女優のミア・ファロー(右)。
REUTERS/Mario Anzuoni
ファロー自身も、取材の過程でさんざんプレッシャーや脅迫を受け、周囲からも命に気をつけるよう繰り返し警告されていた。彼の本を読むと、文字通り命がけだったことがよく分かるし、本当に、よく消されなかったと思う。母親である女優のミア・ファローは息子の本を読んだ後、彼に「何かもっと安全な仕事はないの?」と言ったらしい。
NBCが、社内外の事情(一つにはワインスタイン側からの圧力、もう一つには後に明らかになるとおりNBC自身が社内に重大な性的加害問題を抱えていたこと)から、ワインスタイン報道を握りつぶそうとした時、ファローに助け舟を出すのが、ニューヨーカー誌の名物編集者デイビッド・レムニックだ。
ファローは、著書の謝辞の中で「彼(レムニック)が僕とこの報道を守り続けてくれたことで、ジャーナリズムに対する僕の見方が変わり、人生も変わった」(和訳版謝辞より抜粋)と述べている。ニューヨーク・タイムズの上司たちと同じだ。
結局は、やるべき仕事をやると決め、どんな圧力にも屈しない信念を持った上司なり編集者なりがいるかどうかがとても大きい。特に、ワインスタインのようにパワーと財力を持つ人物を敵に回す場合には、組織的にも個人的にもさまざまな計算が働く。「何が正しいか」よりも、「何が得か」ということを考え始めてしまったら、彼のような人物を糾弾することはできなくなる。ここは、日本におけるジャニーズ事務所もまったく同じだろう。
「作品に罪はない論」への違和感
シンガーソングライターの山下達郎が、7月9日放送のTOKYO FM『山下達郎サンデー・ソングブック』でジャニーズ事務所の性加害問題に言及した。ジャニー喜多川を擁護するかのように聞こえる彼の発言は、このような義理やしがらみこそが、まさに長年の加害を覆い隠してきたのだということを残念ながらむしろ証明することになってしまったと思う。
彼は「ジャニーさんのプロデューサーとしての才能を認めることと、社会的、倫理的な意味での性加害を容認することとはまったくの別問題」であり、作品とタレントに「罪はありません」と述べた。
作品に罪はないので、その作品の後ろにあったものや、製作に関わった人のしたことがどうであれ、評価は変わらない。その延長で、それらの罪なき作品に関わってきた自分もまた「いち作曲家、楽曲の提供者」にすぎず、本件について責任を問われるような立場にはそもそもない……と言いたいように聞こえた。
この「作品に罪はない論」は、一職人のピュアな意見のようにも聞こえるが、本人の意図はともかく、「要は、この人にとっては他人事なんだな」と聞き手に思わせるものがあった。
「いち作曲家」とはいえ、無菌状態の中で、浮世から離れて音楽をつくっているわけではない。 作品が売れれば、それはジャニーズ事務所の商業的成功に貢献する。それによって喜多川氏はますます富と力を増す。山下氏ほどの大物であれば、自分の社会的影響力、社会的責任に無自覚なわけはないだろう。犠牲になった人々のリハビリのために多少の財産を寄付するとか、自らのプラットフォームを啓蒙活動に使うとか、そういう発想はなかったのだろうか。
山下は、SNSを一切やらないと述べていた。皮肉なことだが、もしSNSを見ていたら、今の世の中がそれほどシンプルではなくなってきているということに気がつくのではないだろうか。この5、6年だけをとってもセクハラや性的加害・搾取に対する人々の考え方は急速に変化してきたし、アーティスト、芸能人、スポーツ選手はじめ著名人に対する期待(社会問題に対して何らかの意見を持っているであろうという期待)も以前よりずっと高まっている。
1979年にワインスタイン兄弟が創立したミラマックスは、ずば抜けてセンスのいいプロダクションだった。1990年代に見た、今も心に残る映画、しゃれた映画の多くがミラマックスの作品だった。映画館で予告編が流れてくる時、冒頭にミラマックスのロゴが出ると、「またきっと面白い映画に違いない」とワクワクしたし、実際、多くが傑作だった。『セックスと嘘とビデオテープ』『パルプ・フィクション』『イングリッシュ・ペイシェント』『ライフ・イズ・ビューティフル』『グッド・ウィル・ハンティング』『魅惑のアフロディーテ』『恋に落ちたシェイクスピア』『英国王のスピーチ』……ちょっと思いつくだけでもこれだけ浮かぶ。どれも、今思い出してもいい映画だったと思う。
でも、だからといって今「才能あるタレントを輩出したワインスタインの功績に対する尊敬の念は今も変わっていない」なんて言えるかというと、私には言えない。それはいわゆる「キャンセルカルチャー」(過去の言動などを理由に対象の人物を社会から排除しようとすること)とも違うと思う。文脈抜きに功績だけを取り出して、どんなひどいことをした人でも優れているなら褒め称えるということが難しい時代になってきているのだ。
折しも、今、ブルックリン美術館でピカソ没後50周年記念の展覧会をやっている。タイトルは「Pablomatic」。ピカソのファーストネームであるPabloと、Problematicを合わせた造語だ。
MeToo運動が盛り上がるにつれ、女性をひどく扱った男性アーティストたち(既に亡くなった人たちも含め)に対する評価を見直すべきではないかという意見が聞かれるようになってきた。「女性は苦しむための機械だ(Women are machines for suffering)」という言葉を残し、実際に数々の恋人や妻を苦しませ、泣かせ、それを絵にし、何人かの女性には暴力も振るったといわれるピカソは、必ず槍玉に上がる一人だ。
このブルックリンの展覧会は、「MeTooの時代に生きる現代の我々は、身近な女性たちに対するピカソの残酷さ、女性蔑視的な姿勢をどう受け止め、彼のアートをどう見ればよいのだろうか。私たちはアーティストの作品とその人物を完全に分けて考えることができるものだろうか。できるとすればどうやって?」という問題意識に基づいて企画されている。オープン前から賛否両論になっていたが、そうやって人々が議論すること自体に意味がある、という意図だろう。
ピカソだけではない。映画監督のヒッチコック、ベルトリッチ、ウディ・アレン(皮肉にも、いちおうローナン・ファローの父親でもある)は、いずれも多くの名作を残した名監督と言っていいと思うが、それぞれに性的加害で告発されている。
フランス・パリで行われたセザール賞授賞式会場付近で、映画監督ポランスキーの受賞に抗議する女性たち(2020年2月28日撮影)。
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『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』『戦場のピアニスト』で知られるロマン・ポランスキーは、1977年に少女を強姦しアメリカで有罪になっているが、欧州に逃亡して映画を作り続け、芸術的には成功し続けている。2020年にポランスキーが『オフィサー・アンド・スパイ』でフランスのオスカーにあたるセザール賞の最優秀監督賞を受賞すると、路上ではプロテストが起こり、女優のアデル・エネルはじめ数人の俳優たちが抗議を示して立ち上がり、授賞式から退場した。
私個人はこれらの監督の作品を全面的に否定する必要は感じないし、多くの天才はおそらく聖人君子ではないので、そんな潔癖さを求め始めたらこの世から膨大な数の芸術作品が抹殺されるのではないかと思う。でも、「ウディ・アレンがやったことを考えると、もう彼の映画を見る気になれない」という人がいるのは理解できる。
山下達郎は、ラジオ番組で「このような私の姿勢を忖度、あるいは長いものに巻かれている、と解釈されるのであれば、それでも構いません。きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」と述べた。
これは先の「作品に罪はない論」と矛盾しているが、実際、このたびの発言を受け、「ファンだったのに残念」「もう聞きたくなくなった」「CDを捨てた」などという声が少なからず上がっている。今日の文脈において、作品とアーティストを完全に分けて考えるということの難しさが、山下自身の発した言葉によって、奇しくも証明されてしまったという感じがする。
沈黙が「加担」になっていないか
ジャニーズ問題を考えるとき、デズモンド・ツツ(南アフリカの聖公会司祭であり、アパルトヘイト・人種隔離政策の撤廃に尽力した神学者。1984年にノーベル平和賞を受賞)のこの言葉を思い出す。
「不正義を前にして中立でいるということは、抑圧者側につくことを選んだということである」
これは、ワインスタインの件についても当てはまる。彼の性加害行為は1970年代から始まっており、その間に声を上げた被害者もいた。なのに、メディアも、業界の関係者たちも、社内の人々(経営陣や人事担当者たちも含め)も、目をつぶり、耳をふさぎ、問題を放置してきた。それは、不作為を選ぶことによって、間接的に抑圧に加担したということだ。
ツツと似たようなことを言っている人は他にもいる。
「悪が勝利するために必要なたった一つのことは、善良な人たちが何もしないことである」
—エドマンド・バーク(アイルランド出身の英国の政治思想家・哲学者)「どちら側につくか、選ばなくてはならない。中立は抑圧する側を助ける。犠牲者を助けることはない。沈黙は虐げる側を勇気付け、虐げられる側を励ますことは決してない」
—エリ・ヴィーゼル(ホロコースト体験を自伝的に記し、1986年にノーベル平和賞を受賞した作家)「究極の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、それに対する善人の沈黙である」
—キング牧師
「何もしないこと」「黙っていること」は、つまり現状を受け入れているということだ。それは必ずしも無害とは限らない。中立を保ち、意見を表明しない(あるいは意見を持たない)ことによって、無意識のうちに不正義に加担していないか、私たち1人ひとり、日常生活の中でもっと自分に問うべきなのだと思う。報道機関に至っては、もっとそうだ。パワーを持つ者の言うなりになるだけならば、報道機関が存在する意味はない。
(敬称略)
渡邊裕子:ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、11月までアドバイザー。約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年、中東北アフリカ諸国の政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社、HSWジャパンを設立。複数の企業の日本戦略アドバイザー、執筆活動も行う。株式会社サイボウズ社外取締役。Twitterは YukoWatanabe @ywny