撮影:今村拓馬
カミナシCEO、諸岡裕人(39)は、千葉県成田市に大正時代から続く和菓子屋の4代目として生まれた。
父親の勲(67)は、菓子だけでは将来、家業が立ち行かなくなると考え、1988年に機内食の食器洗浄などの会社を設立。空港に近い立地を生かし、空港施設のメンテナンスや周辺ホテルの客室清掃、ごみの収集運搬などへ事業を広げていった。
地元・成田市の祭りに参加する父、勲と諸岡。
提供:カミナシ
経営は、常に順風満帆だったわけではない。「創業時は、バブル真っただ中の人手不足時代。事業を受託したものの働き手が集まらず、顧客に『若気の至りでした。やっぱりやめます』と話したこともある」と勲は明かす。海外の取引先から突如、契約を解除されそうになったこともあった。
諸岡家の夕食は、勲がこうした経営の話を家族に聞かせる場だった。子どもだった諸岡が「お父さんは仕事の話ばかりだ」と文句を言うと、勲はこう返した。
「『門前の小僧習わぬ経を読む』という言葉もある。大人になったら役に立つかもしれないから、まあ黙って聞いていなさい」
諸岡は父が「キャッキャと嬉しそうに」仕事の話をするのを見て、子ども心に「経営って楽しそう」と思った。ピンチの話すら、波乱万丈の冒険譚さながらに聞こえた。
3人兄弟の長男で、親族中から後継ぎと見なされていたこともあり、いつしか事業を継ぐことを「既定路線」と考えるようになった。大学を卒業してから、3年間リクルートスタッフィングで勤務し、父の会社に入社。ただ同時に「父親が会社を興した32歳で、自分も起業してみたい」という思いもあったという。
夜11時から数十枚の書類チェック
父の会社で働いていた頃の諸岡(写真右)
提供:カミナシ
父の会社では、営業や収支管理など幅広い業務に関わった。中でもLCCのチェックインカウンターや羽田空港にあるJALの機内食工場など、新規事業の立ち上げを通じて自分も現場に入り、その実態を目の当たりにすることになった。
当時の諸岡にとって最もつらかったのが、若い社員たちがどんどん辞めていったことだ。
「食事をしながら『一緒にやっていこうぜ』と話していた若手が、数カ月で目に見えて疲弊し、『消防士になります』などと別の道を見つけて辞めていくのです」
父の会社に限らず、製造現場の多くは過酷な気象条件や重労働などのため、離職者が多い。しかし理由はそれだけではなかった。諸岡は離職者の1人が、ぽつりと言った言葉にショックを受ける。
「こんな作業をするために、僕は大学を卒業したんじゃありません」
「こんな作業」とは何か。例えば機内食工場では、工場の清掃の頻度や製造機器の衛生状態、食品の保管温度などを毎日チェックし、表に記入する。万が一、機内食を食べた人が体調不良などを訴えた場合、書類が適正管理の証拠となるからだ。
しかし外国人労働者が、不慣れな日本語で記入する日などもあり、抜け漏れやミスはどうしても起きた。
このため社員たちは毎日、業務が終わった午後11時ごろから、数十枚に及ぶ書類を1枚1枚めくり、目視でチェックしていた。アイデアも創造性も発揮する余地のない、こうした紙ベースの作業が意欲の低下を招いていたのだ。求人情報の口コミサイトにも「単純作業が多くて面白くない」と書かれた。
諸岡は定着率を高めるため、社員にバースデーメッセージを送ったり、勤続2年を超えた社員に旅行をプレゼントしたり、社内で部活動をしたりと手を尽くした。それでも事態はいっこうに変わらない。
「父の会社は機内食の製造や空港での搭乗手続き、ホテルの清掃など人々が安心・安全に移動するために欠かせないインフラを支えています。しかし業務がいくら重要であっても、仕事がエキサイティングでなければ、人は辞めてしまうのです」
賃金やキャリアでも報われない
現場では、終わりの見えない単純作業に疲弊した若手たちが次々と辞めていった(写真はイメージです)。
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離職率が高いもう一つの要因が、キャリアアップや賃上げの仕組みが不十分なことだった。ブルーカラーは、ホワイトカラーのように新人の時代に現場で「雑巾がけ」をすれば、いずれ職位が上がるといったキャリアラダーが明確でなく、何年も同じ仕事を繰り返す人も少なくない。
勤続年数が長くなり技能が習熟しても、相応の賃上げで報われるとは限らない。顧客が支払う事業委託費は限られ、たいていはぎりぎりの人数を確保するので精一杯だからだ。むしろ一定期間で離職する人がいるからこそ、賃金水準が抑えられ収支のバランスが取れる構造になっていた。
「終わりの見えない単純作業が続き、努力が賃金やキャリアで報いられることもない。これでは、自分は何のためにこの仕事をしているのか、と思うようになっても無理はありません」
働き手を単純作業から解放し、空いた時間で現場改善や効率化のアイデアを出してもらいたい。そうすれば生産性は高まり利益も増えて、仕事ぶりに報いることもできる—— 。諸岡はこう考えるようになる。後継者として、将来は自分が社員に給料や退職金を払い続けなければいけない、という危機感もあった。
「今のやり方を続けていては、自動化の波に乗り遅れて会社が淘汰されてしまうのではないかという思いも、マグマのようにたまっていきました」
作業を自動化できるITツールを探したが、現場にフィットする製品は見当たらない。ならば自分で作るしかないと、起業家らがプログラミングを学ぶための学校へ通い始めた。
しかし職場に戻ると、ミドルシニア世代の父親や経営陣に、諸岡の危機意識を理解してもらうのは難しかった。従業員すら「紙文化」があまりに当たり前で、負担だと自覚していない。
家業を超えて、ITを使って働き手を楽にするための事業を立ち上げたい。「32歳で起業」という目標が、本当の意味で具体化したのはこの時期だったという。
ブルーカラーは「異世界」。投資家に説明し形勢逆転
2016年ごろの諸岡はプログラミングスクールに通い、卒業制作のコンテストでは優勝した。
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起業を志した諸岡はしかし最初のうち、ブルーカラーの課題にがっぷり四つで向き合うことを避けた。現場の苦労を嫌と言うほど見せられてきた目には、BtoCビジネスの方が「キラキラ」しているように見えたのだ。
ホテルの客室清掃から発想を得て「忘れ物管理サービス」などを投資家にプレゼンしてみたが「箸にも棒にもかからなかったですね」。むしろ投資家たちから苦笑とともに「諸岡君、君の提案したサービスに近いプロダクトは、もうアメリカにあってね……」と教えられる始末。
しかしある起業家の集まりで、「まだ事業のアイデアがないので、現場の話をします」とブルーカラーの実態を話すと、形勢が逆転した。参加者から口々に「そんなことがあるんですか!」「もっと話を聞かせてください」と言われ、諸岡は「自分の強みは現場にある」と改めて認識する。
父親とは入社以来、事業を巡って衝突することも増えていた。しかし「キラキラ」した分野に心ひかれることもなく、人のやらない現場仕事を手掛けてきた父の正しさも、この時しみじみと分かった。
2016年12月、諸岡はカミナシの前身に当たる会社を創業。起業すると聞いた勲は、驚いたものの「まだ若いんだし、失敗してもそれはそれでいいだろう」と考えた。後継者問題も、諸岡の弟が2021年、父の会社に入社することで収まった。
そして2021年、勲は自社に「カミナシ」のサービスを導入した。
「現場も便利になったと非常に喜んでいます。新人のモチベーションを高め、定着率の上昇にもつながると期待しています」
勲の現在の「老後の夢」はカミナシの上場だという。「証券取引所のセレモニーで、裕人が鐘を鳴らす時に隅っこに立たせてほしい。それ以上の楽しみはないですよ」と笑った。
しかし2019年、カミナシは上場を目指すどころか会社存続すら危うい状況に陥っていた。製品が思うように売れず、資金切れまであと10カ月というカウントダウンが始まったのだ。
(敬称略、第3回に続く)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。