撮影:今村拓馬
カミナシは2018年5月、現在展開している「カミナシ」の前のプロダクトとして、食品工場の品質管理をデジタル化するソフトウェアをリリースした。しかしCEOの諸岡裕人(39)は営業するうちに、少しずつ疑念が頭をもたげ始める。
「ひょっとしてこの製品、思ったより市場規模が小さいんじゃないか?」
苦労ばかりでなかなか売れない
当初は食品メーカーの現場向けに特化した製品を開発していた(写真はイメージです)。
shutterStock / metamorworks
プロダクトを食品工場向けに絞ったのは、機内食工場立ち上げなどの経験を生かせること、当時は特定業種向けのSaaSが目新しく、投資家の注目を集めやすかったことが理由だ。
実際にピッチコンテストで事業計画を発表すると高い評価を受け、資金調達にも成功した。開発責任者としてCPO(チーフ・プロダクト・オフィサー)を迎え、製品を完成させた。
諸岡が調べたところ、国内の食品メーカーには約4万の製造現場があった。当初はこの4万カ所すべてを「市場」と考えていた。
しかし実際に営業してみると、DXのために月10万円のソフト利用料を支払う余裕があるのは、売上高数十億円以上の企業に限られることが分かってきた。条件を満たす企業の現場は、約4000カ所。たとえ10%のシェアを取れても400カ所しかない。これに気づいた時は「冷汗がどっと出る」思いだったという。
それからは営業先で断られると「この企業が持つ20の現場を失ったので、取れる可能性がある市場は、400引く20であと380……」と、頭が勝手に引き算するようになった。
クライアントのDXに対する意識も、当時はまだ低かった。Wi-Fiが設置された工場は少なく、情報流出などを懸念して工場への電子製品の持ち込みやクラウドサービスの利用を禁じる企業もあった。「iPad を配備?そんな予算はないよ」とにべもなく断られることもしばしばだった。
商談場所が、田んぼの真ん中にある自称「カフェ」や、工場の外に置かれたテーブルと椅子だったこともある。
ある企業では「工場長にご挨拶させてください」と頼んでも「今日は君が来ることを伝えていないから勘弁して」。現場を歩けば歩くほど、事業を転換しなければ早晩、経営が立ち行かなくなることは明らかだった。
最後の最後に腹が決まった
創業当初の諸岡(写真右)と、開発責任者の三宅裕(写真左)
提供:カミナシ
事業の見直しを迫られた時、CPOの三宅裕が会社存続のために提案したのが、ホワイトカラー向けサービスへの転換だ。諸岡も社員たちも、一度はこの案に傾いた。
「当時は三宅君の求心力が大きく、僕も彼に寄りかかる部分がありました。事務作業のプロセス管理サービスなら、前の製品の知見も活かせるし、事業継続を考えたらこの案が妥当かもしれないと、グラっと来ました」
社員には「2日後に正式に決める」と伝え、会議室にこもって三宅とひざ詰めで議論した。しかし自分たちに、「何としてもサービスを世に出さなければ」という熱意も、「なぜ開発に取り組むのか」を説明するストーリーもないことが、最後の最後で気になった。
「改めて、自分にしかない武器は何かを考えてみると、何百もの現場を歩き回り、ブルーカラーの人たちと話す中で培った知見だという答えにたどり着きました。起業家としてこの武器を捨てたら、どんな製品も成功するイメージを持てなくなると思ったのです」
とはいえこの時には、新製品の腹案があるわけでもない。現場にサービスを売り歩いても、苦労ばかり多く成果はなかなか出ないことは経験済みだ。資金が尽きるまでの10カ月で、ゼロから新しい製品を開発し、営業して事業を軌道に乗せることが果たして可能なのか。
悩んだ末に出した結論は、「最後まで自分のやりたいこと、意味があると思えることをやろう」だった。三宅にもこう伝えた。
「ごめん、俺も一時はホワイトカラー向けをやると言ったけど、やっぱりブルーカラーの方やるわ」
すると三宅は「ならば自分は、船を降りる」と、会社を離れることを表明した。話が決まった後、2人は飲みに行った。三宅は言った。
「会社は創業者のものだから、メンバーがどう思おうと、諸岡さんがやりたいことをやればいいんです」
この言葉は「最後の」10カ月を乗り切る大きな力になったという。
減っていく資金残高を共有。備品は社員の私物
売れる製品もなく、CPOも退任が決まった。諸岡は不安も大きかったが、同時にもう誰も頼れない、自分がやるしかないと腹も据わった。
当時7人いた社員に「ブルーカラー向けのソフトをやる」と伝えると、ホワイトカラー向けに移行すると思い込んでいた社員は一様に驚いた。それでも「現場が好きで入ったので残ります」「ダメだったら転職すればいいから、最後まで付き合いますよ」と、みな会社に残ってくれた。
そこで諸岡は、資金残高を示したエクセルをSlackにアップし、職場に数字を共有した。社員たちは減り続ける残高を直視し、目に見えて節約するようになった。ある社員はハンガーすら「備品は買わなくていいです!」と、自宅から私物を持ち込んだ。
また新しく開発する製品は、業種に特化しないSaaSに決めた。市場規模の小さい世界で戦うことに懲りたからだ。また資金と時間に余裕がないこともあり、シンプルで比較的簡単な問題を解決するサービスにした。
社内からは異論も出たが、諸岡はぶれなかった。三宅の言葉が支えになっていたし「実際のところ、議論している暇があったら1件でも多く売る、という切迫した状態でもありました」。
一般的なソフトの開発プロセスを踏み、効果検証や試作版の完成を待っていたら、「タイムアップ」に間に合わない。開発も進まないうちから、製品内容を紹介するサイトを先行公開し、社員は実物もないまま必死に営業に走り回った。
撮影:今村拓馬
「スタートアップのチーム力が強まるのは、一般にイケイケドンドンの成長期だと思われがちですが、背水の陣を引いた危機的状況でも、同じことが起きるとつくづく思いました」
問い合わせ急増。ミラクル続出で「これは売れる」
ほどなく諸岡と社員は、変化に気づき始めた。前の製品では月5件程度だった問い合わせ件数が、みるみるうちに30件、40件、100件……と増え始めたのだ。問い合わせは最終的に約600件に上った。
説明のスライドを見せただけで契約が取れる、大手企業がテスト導入する……そんなミラクルもあちこちで起きた。
「特に大企業から評価されたことは、我々のモチベーションに火をつける大きな燃料になりました」
極めつけは入社1カ月そこそこの新入社員が、あっさりと契約を取ってきたことだ。諸岡はこの時「いける」という確信を得た。
「前の製品は、半年間1件も契約を取れない社員もいたのに、今回はまだ製品理解が深くない新人でも案件が取れた。業種を超えた課題解決に、製品がフィットしている証拠です」
2020年のコロナ禍で、飲食業や宿泊業の経営は苦しくなり、テスト導入や商談も止まった。それでも諸岡らは「必ずニーズはある」という自信のもと開発を続け、2020年6月に新製品「カミナシ」を正式にリリース。快進撃が始まった。
ロイヤルホストやてんやを運営するロイヤルフードサービスが、国内最大級のホテルチェーンであるルートインホテルズが、そしてセブン-イレブン・ジャパンの弁当・総菜工場がカミナシを導入し、7人だった社員も現在、80人を超える。
AIの力も借りていきたい
カミナシの企業アイコンには「ヤギ」の姿が。ペーパーレスを象徴している。
撮影:今村拓馬
諸岡は今後、カミナシにAIを付加することで「人間が目視で行っている確認作業もソフトでできるようにしたい」と考えている。
「工場などでは、時給1000円そこそこのパートタイマーが、責任の重い確認作業を担っているケースがかなり見られます。この領域をAIに代替させれば、働き手の負荷と責任を軽くできます」
2023年3月には、30億円の資金調達を発表するとともに、中長期の事業計画である「まるごと現場DX構想」を打ち出した。諸岡は、ブルーカラーの未来をどのように描いているのだろうか。
(敬称略、第4回に続く)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。