私たちはなぜこれほど世代の違いにとらわれているのだろう。
Chelsea Jia Feng/Insider
Z世代は軟弱、ミレニアル世代は厄介、団塊世代は邪悪で、X世代についてはもう何年も誰も考えたことがない——それぞれの世代を定義する年齢を正確に覚えていなくても、多くの人は求められればこれらの世代のステレオタイプ像を挙げることができる。
一般に世代間の大きな相違と考えられているこうした定義は、特定の色に対する考え方の変化や、辛い食べ物への人気の高まり、さらには成年期の到来に対する認識などを説明するのに使われてきた。
しかし、世代という括りはお馴染みのものである一方で、この断層はどれほど現実的なものなのだろうか?
ピュー・リサーチ・センター(Pew Research Center)は、各世代が何を考え、何を感じ、何をしているかについて、何十年もかけて調査研究を行ってきた。同センターが発表する世代の始まりと終わりの日付は、ニュース出版物、学術研究、食卓での議論の基準となった。
しかし、同センターは2023年5月、ミレニアル世代やZ世代といった世代ごとのレッテルを今後使用しないと発表した。そうすることで、社会科学界で近年高まっている不満(と激しい議論)の原因となっていた慣習に静かに終止符を打ったのである。
同センターの社会動向調査担当ディレクターであるキム・パーカーは、「世代と呼ばれるものの期間が長すぎて、有益な知見が得られないのが問題」だと語る。各世代は15〜18年にも及ぶため、現実的にグループ全体に当てはまる少数の特徴を絞り込むのは難しい、とパーカーはメールで筆者に説明してくれた。
例えば、27歳と39歳では、現代のめまぐるしい社会的・技術的変化に対する経験は異なるだろうが、同センターの定義ではどちらもミレニアル世代とみなされる。また、2008年のリーマンショックの時にすでに社会人だった最年長の人たちと、ようやく小学校を卒業したばかりの最年少の人たちを同じ世代として一括りにするのは難しいだろう。
この「世代内における思考、経験、行動の大きな多様性」を説明するために、パーカーは今回の決定に関する論考の中で、同センターは世代研究を「年齢コホート」という文脈で捉え直すと記している。つまり、社会的に重要な出来事を似たような形で経験した可能性のある、特定の期間に生まれた人々のグループである。
「例えば、オバマが大統領になった時に政治的に成人になったグループやコホート、パンデミックの時に大学生だった若者、あるいは生まれた年代でグループ分けすることもできます」と、同センターの広報担当者は話す。
パーカーは、「問題は、現在の若者が中高年層と異なるかどうかではありません。問題は、現在の若者が過去のある特定の時点の若者と異なるかどうかなのです」と言う。
同センターの発表は、われわれがこれまで享受してきた世代に関するコンテンツの妥当性に疑問を投げかけるものだ。Z世代という括りは本当にあるのだろうか? ミレニアル世代と団塊世代を比較することに意味はあるのだろうか? 20歳は常に単なる20歳なのだろうか?
同センターの決定は、その核心において、世代と世代間の線引きは単なる虚構であることを明らかにしている。
しかし、もし世代がまやかしだとしたら、なぜわれわれは世代をそれほど気にするのだろうか?
虚構の世代
おそらくそれぞれの世代に特有の不満要素はご存じだろう。ミレニアル世代(ピュー・リサーチ・センターによれば1981〜1996年生まれ)は、怠け者で、自己中心的で、出足が鈍い。団塊世代(1946〜1964年生まれ)は、強権的で利己的で、基本的に社会悪の根源である。Z世代(1997〜2012年生まれ)はテクノロジーに傾倒し、精神的にもろく、意識が高すぎたり、そうでもなかったりする(これについてはまだ評価は定まっていないようだ)。そしてX世代(1965~1980年生まれ)のことは誰も気にしていない……やれやれだ。
世代という考え方が生まれたのは約100年前。社会学者のカール・マンハイムは、1928年に発表したエッセイ『The Problem of Generations(世代の問題)』の中で、個別の「世代単位」という概念を提唱した。ある集団が形成期に歴史的・文化的出来事を経験すると、その集団は独自の意識を持ち、それが共有するアイデンティティの一部となるとマンハイムは主張した。
2021年に出版されたニューヨーカー誌のエッセイで、ルイス・メナンはこの考えを、戦時中にアメリカで爆発的に増加した高校進学率と結びつけている。1910年にはわずか14%だった14〜17歳のアメリカ人の進学率は、1940年には73%にまで急増した。メナンは、高校進学ブームが「ティーンエイジャー」というまったく新しい社会的カテゴリーとマーケティング層を生み出したと主張した。
世代という考え方は何十年も前から浸透していたが、現代の年齢コホートに対する強いこだわりは、1992年に出版された『Generations(世代)』にまでさかのぼることができる。スキッドモア大学の社会学者アンドリュー・M・リンドナー、ソフィア・ステルブーム、アジズル・ハキムは最近の論文で、同書の著者であるウィリアム・ストラウスとニール・ハウは「疑似科学的でロマンチックな歴史的世代思考の長い系譜」を描き、現代の世代用語を普及させるのに役立ったと述べている。同書には「ミレニアル世代」という用語まで登場する。リンドナーらは次のように指摘している。
「大きな影響を与えたストラウスとハウの著書が出版されて以来、『団塊世代』『X世代』『ミレニアル世代』『Z世代』という世代ごとのレッテルは、何十もの業界紙、何千もの新聞の見出し、そしてソーシャルメディアのいたるところに登場するようになった。
こうしたレッテルはそれぞれ、各世代に典型的な心理的特徴、行動パターン、政治的コミットメント(例えば、ナルシストであること、髪を真ん中で分けること、世界経済を滅ぼすこと)と結びついている」
米放送局HBOのドラマ『The White Lotus(ホワイト・ロータス/諸事情だらけのリゾートホテル)』の第2シーズンで登場人物のポーシャが着ていた服装は、世代的な文化の眼を通して見ると、単に分別のつかない20代が洋服選びに失敗したのではなく、世代全体のセンスがソーシャルメディアによっていかに破壊されたかを示すものと映る。
コンサルティング会社であるマッキンゼー(McKinsey)の、仕事の未来に関する予測は、テクノロジーの発展だけでなく、Z世代とそれ以外の世代との間の職場の世代間格差に焦点を当てている。出生率の低下? 世代的な問題だ。気候変動問題? これも世代的な問題だ。数え上げればきりがない。
しかし、社会科学者たちは長い間、変化する文化を理解するために世代を利用するという考えに難色を示してきた。そして、世代という枠組みを使いすぎることには多くの問題がある。一つには、その人物の誕生年を含む約20年間という無作為に出された期間から、その人物について得られる情報は限られているということだ。
また、世代論は人種、学歴、性別といった重要な変数を顧みない傾向がある。ピュー・リサーチ・センターの研究者が指摘しているように、世代のステレオタイプは明らかに上流階級に偏っている。
また、集団間の共通点を反映させるのではなく、差異と思われる点を増幅させることも多い。団塊世代、X世代、ミレニアル世代、そしてZ世代はみな、ある時点において(露骨に)自己中心的な社会不適合者という烙印を押されてきた。
世代論に人気があるのは主に、子どもたちが何に興味を持っているかという点に人々が関心を持っているからだ。しかしそれでも、Z世代の姿勢に関する世論調査では、一般的に重要な文脈が抜け落ちている。パーカーは次のように語る。
「問題は、若者が年をとるにつれて変化していくということです。ですから、過去のデータがなければ、いかに若者の態度や行動が固有のものなのかを評価することはできません」
例えば、仕事に対する若者の考え方が、年配の考え方と実際にどれほど違うのかを研究者が確認しようと思えば、若者の仕事観に関する経時データが必要になるだろう。しかし、そのような経時データはあいにく不足している。そのため、Z世代の仕事観と、X世代が今のZ世代と同じ年齢だった時の仕事観を比較することは、不可能ではないにしても難しい。
こうした経時データがないので、20代の仕事観と50代の仕事観を比較しているのが現実だ。
「近頃の若者は」
人為的であろうとなかろうと、世代間の緊張関係は、広告主やライター、コンサルタントにとって安易な省略表現として定着してしまっている。世代に関する一般的な報道は、多様なグループをキャッチフレーズに当てはめた一般論で情報のギャップを埋める傾向がある。
しかし、メリーランド大学カレッジパーク校の社会学者フィリップ・N・コーエンは、この反射作用は必ずしも皮肉や悪意によるものではない(少なくとも100%の皮肉や悪意ではない)、と指摘する。お互いを分かり合いたいという、人間としての真の思いやりから来るものなのだ。
世代についての話は、特に社会やテクノロジーが急速に変化している時代には、人々が理解し合いたいという欲求を満たすのに役立つとコーエンは言う。
「好むと好まざるとにかかわらず、ステレオタイプは非常に強力です。人が世代論に関する記事をクリックするのは、見出しのステレオタイプな見方に腹を立てたり可笑しさを感じているからだけでなく、文化がどう変わっていっているのかを理解したいという思いもあるからです。そういう思いは強いはずです」(コーエン)
そう言うコーエンではあるが、彼は最近、社会調査における世代別ラベリングを批判する急先鋒となっており、コーエンが一般的な社会科学における最大の神話だと見ているものがいまだになくならないのはピュー・リサーチ・センターのせいだとしている。
コーエンは2021年にワシントンポスト紙の論説記事と公開書簡を発表し、シンクタンクに「正しいことをし」、「恣意的で誤解を招くような『世代』というレッテルや名前の使用に終止符を打つことに協力する」よう求めた。これには200人以上の社会科学者が署名した。
コーエンの書簡が注目を集めたのと時期を同じくして、『The Generation Myth』と題された書籍が出版された。著者はキングス・カレッジ・ロンドン(King's College London)の政策研究所所長であるボビー・ダフィ。ダフィはこの著書の中で、「世代思考」が時間の経過とともに人々の見解や行動に実際に作用している因子を混乱させていると論じている。
ダフィはこれらを次のとおり3つのカテゴリーに分類した。
- 時代効果:新型コロナウイルスの大流行など、すべての人に影響を与える、時代を定義するような大きな出来事
- ライフサイクルイベント:結婚や子どもの誕生など、ある社会における平均的な人の人生の典型的な節目
- コホート効果:同じ年齢層の人々の重複する経験
ダフィによれば、世代思考の問題は、社会変化の他の重要なメカニズムを無視してコホート効果ばかりに着目してしまう点だという。
総じてコーエンは、「世代というレッテルが、専門家にとっても一般人にとっても、世代の特徴と、普遍的な、あるいは多因子的な出来事の区別を難しくさせる」というダフィの見解と同意見だ。
「戦争、不況、パンデミック。仮にこうした出来事が起きてすべての人の状況が変わってしまったとしたら、そんなものは世代とは呼べないし、その後に起こる変化も世代交代の例とは言えません。
しかし、私たちは世代というレッテルにこだわるあまり、それが世代交代だと思い込んでしまうのかもしれません。『まったく、近頃の若者は』と言うかもしれませんが、実際には近頃の人々はみな違うのであって、若者は若者なんです」(コーエン)
世代というレッテルを貼ることは、人口統計学的多様性の複雑さをただ単純化するだけではない——ダフィ、コーエン、そしてコーエンの公開書簡の署名者たちはそう考えている。研究に厳正な枠を設けることで、レッテルは科学的ブレイクスルーの可能性を妨げてしまう。また、データをゆがめ、全体像を捉えられない結論を生み出すおそれもある。
ピュー・リサーチ・センターの名誉のために言っておくと、同センターは、世代ごとのレッテルを使うことで分析に及ぶ影響について、率直に認めている。
同センターの最近のブログ記事では、研究者たちは「ミレニアル世代が今後1年以内に住居を移転する可能性は、それより上の世代の若者よりも低い」とする2017年の報告書を再検討している。
このデータセットを世代と年齢および期間を切り離した新たな統計モデルにかけた研究者たちは、「世代間の明らかな違いは、世代ではなく、モデル内の他の要因によってより明確に説明できる」という新しい結論に達した。
お互いを理解し合いたい
これほどまでに恣意的で、往々にして非科学的なカテゴリー分けが、どうしてわれわれの生活の中に存在するのだろうか?
簡単な答えはこうだ。ネガティブな評価もあるものの、世代という切り分け方は人々の共感を呼ぶようなのだ。リンドナー、ステルブーム、ハキムの3氏は論文の中で、「大々的にマーケティングされた」世代ごとのレッテルに「何十年も」晒されてきた結果、アメリカ人は一般的に自分が属するカテゴリーに同調するようになった、と述べている。
これは特に、世代コホートの中心に生まれた人たちに当てはまる。つまり、1986年から1990年の間に生まれたミレニアル世代は、その前後5年間に生まれた世代よりも「ミレニアル世代」だと自負しているだろう。
また、場合によっては、世代ごとのレッテルは有益なものをもたらしてくれるかもしれない。
パーカーは筆者の取材に対し、ピュー・リサーチ・センターは「世代別調査は適切な状況下では有用なツールになりうると信じている」、と語った。
「(世代別調査は)一般の人たちが理解し、共感できる形で社会の変化を捉える助けになります。また、一般的に使われている世代の定義にとらわれず、人がごく基本的なレベルで世代の変化とは何かを理解できるようにもなります。つまり、自分の世代は両親や祖父母の時代とは違う、だとか、若い成人した子どもたちは自分とは違う方法で世界を体験している、というように」(パーカー)
しかしパーカーらは、若者たちは常に、彼ら彼女らの両親が今の自分たちと同じ年齢だった時とは異なる社会状況に直面してきたと指摘している。
同センターの理事長であるマイケル・ディモックはブログの中で、年少者の行動が年長者の時代の社会常識から逸脱していることに対して、年長者が「多少の懸念や警戒を示す」のは昔から当たり前だったと指摘している。だから「近頃の若者は」という型にはまった表現は、そう、型通りなのである。
未来にどんな世代のレッテルが貼られようとも、2123年の年長者は年少者たちの欠点と思われる性格(おそらく仕事に対する姿勢や自己中心性)をつつき、一方の若者たちは年長者たちの過ちによって引き起こされた課題を憂慮する。こうなることは宿命なのだ。時代は変わっても、本質は何ら変わらない。