ハーバード大学のスター教授、フランチェスカ・ジーノ氏にデータ不正の嫌疑がかかっている。
Karl Maasdam
ハーバード大学教授のフランチェスカ・ジーノ(Francesca Gino)は、自身をデータ不正で告発したハーバード大学とData Coladaのブロガーのグループに対して2500万ドル(約35億円、1ドル=140円換算)の賠償を求める訴訟を起こした。ジーノは、彼らが「自分のキャリアと評判を駄目にするために協力して動いていた」と主張している。
訴訟が起こされたのは8月2日。行動科学界で世界的にその名を知られるジーノに対し、ハーバード大が2年間の無給での休職処分を下してから約2カ月後のことだ。
ハーバード大は、ずさんな研究を告発するブログ「Data Colada」を運営する研究者らからジーノの研究論文4件に異常と思しきものがあるとの連絡を受け、2021年7月にジーノの調査を開始した。ジーノが休職に入ると、Data Coladaはジーノに関する一連の投稿で、「10年以上にわたる論文の不正行為の証拠」を示した。
これに対し、ジーノは8月2日にLinkedInに次のように投稿している。
「はっきりさせておきたい。データの改ざんや、研究でいかなる種類の不正行為にも関与したことはない」
ジーノは投稿の中で、ハーバード大とData Coladaを運営するウリ・サイモンソン(Uri Simonsohn)、ジョー・シモンズ(Joe Simmons)、リーフ・ネルソン(Leif Nelson)ら教授陣が「完全に推測、仮定、そして信じがたい論理的飛躍に基づいて、とんでもない結論に達している」としている。
多くの学者はジーノの主張に懐疑的だ。さらに、訴訟、特にData Coladaに対する訴訟が、研究分野での不正行為を根絶するための今後の試みを妨げるのではないかと懸念する者もいる。
メルボルン大学で心理学、倫理、ウェルビーイングを専門とするシミーン・ヴァジーア(Simine Vazire)教授は次のように話す。
「科学者がお互いの研究について懸念を示し、注意喚起することを認め合わなければ、いったい誰が科学というものを信じるでしょうか。こういったことを封じてしまったら、科学者の言うことは真剣に受け止められなくなります」
ハーバードのエリート教授の転落
最近までジーノは学界のセレブ的存在であり、人が不正行為をする理由や職場で一目置かれる方法といった話題性のあるテーマを研究していた。
2冊の著書を出版し、ディズニー(Disney)やゴールドマンサックス(Goldman Sachs)をはじめとする企業で数十回も講演した実績を持つ。講演動画がアラスカ航空(Alaska Airlines)の機内エンターテインメント向けに採用されたこともある。多作な研究者で、これまで140本以上の学術論文を発表。2019〜20学年度には、ハーバード・ビジネススクールの教授として100万ドル(約1億4000万円)以上の収入を得ている。
しかし今回の不正行為の告発により、これらすべてが脅かされている。ジーノの訴状によると、彼女が手掛けている講演とコンサルティングの契約は、1件の例外を除いてすべて、ここ数週間でキャンセルされた。また、3冊目の本の出版日は2025年へと1年間延期されたという。
学界でのジーノの評判は失墜した。キングスカレッジ・ロンドン(King's College London)で公共政策を教えるマイケル・サンダース(Michael Sanders)教授は言う——この分野で多くの者が感じていることだが、今度の件で今や唯一究明が待たれるのは、ジーノが犯した不正行為は何件なのかということだけだ。Data Coladaが明らかにした4件だけなのか。それとも20件、50件、あるいは100件なのか。
ジーノの弁護士アンドリュー・T・ミルテンバーグ(Andrew T. Miltenberg)はInsiderの取材に対し、次のように指摘する。
「彼女が被った損害は、私が他の訴訟で見てきたものとは比べものになりません。裁判が終わってもいないのに、君主が斬首刑を命じるような独断的かつ厳格な対応は初めてです」
ジーノは、ハーバード大に対して契約違反、教育改正法第9編違反、名誉毀損などで提訴している。
ジーノは、ハーバード大の調査は最初から偏っていたと主張している(同大はコメントを拒否した)。Data Coladaがジーノに関する懸念をハーバードに伝えた直後の2021年8月、同大は「教育改正法第9編に違反して性別を動機とした」「重い負担を強いる」不正行為に関する新方針を策定したのだという。
そのうえ、ハーバード大はジーノが「故意に、意識的に、または無謀に」不正行為を犯した事実をこの新方針で求められている形で立証することに失敗したと彼女は主張している。ジーノは訴状の中で、彼女はハーバードの複数の同僚(ハーバード・ビジネススクールのゲイリー・ピサノ経営学教授なども含まれる)から、調査の結果は「あなたが男性だったら異なっていただろう」という話を聞かされたとしている。また、調査終了後、ハーバード大が休職処分を発表してデータの「不整合」に関する撤回通知を出したことで、自身の名誉が傷つけられたとしている。
何が問題とされているのか
ジーノはData Coladaに対しても名誉毀損で訴えを起こしており、ブログに関わった研究者らが、2021年後半に内密にハーバード大に共有したレポート、および2023年6月にブログで公開した一連の投稿で「虚偽の名誉毀損的発言」を犯したと主張している。
Data Coladaは6月のブログ投稿で、ジーノが使用したデータに異常が見られると述べている(Data Coladaは2021年のレポートでもハーバードに同様の分析を伝えている)。
例えば2015年の論文では、驚くべきことにアンケートに回答した学生488人のうち20人が、学年欄に卒業期ではなく「ハーバード」と記入した。1人ならミスということもあり得ただろうが、20人というのは疑わしいとData Coladaは目をつけた。偶然からか、欄に「ハーバード」と記入した学生ほど研究者らの仮説を裏づける可能性が高かったため、Data Coladaはデータに何者かの作為が含まれていると結論づけた。
ハーバード大が契約した独立法的調査会社(訴状でも言及されている)の分析では、さらに多くの不整合が見つかっている。同社によると、ある事例ではデータセットから事後的に一定数の参加者が削除されていたという。
「私の見方では、データが操作されていたというのが真相として有力なようだ」(サンダース)
一方、ジーノは訴状で、データの異常の原因について異なる説明をしている。いわく、回答はもともと紙媒体で収集されていたのだ、とするものや、研究補助の不手際の可能性を指摘するものもある。2015年の研究については、学生らが報酬目当てに性急に記入した可能性を指摘している。
訴状では他にも、不正行為がジーノ自身によるものであることを示す証拠がないと、Data Coladaの研究者の一人、ESADEビジネススクール(ESADE Business School)の行動科学教授であるサイモンソンが公に認めたとしている。
「今回の件がフランチェスカ・ジーノの仕業だと明確に主張した者はいない」と、サイモンソンは2023年7月にYouTubeに投稿した不正行為に関する議論の中で話している。同時にサイモンソンは、「彼女の仕業だとは思う。だが、証拠はない」「もしかすると、他の誰かが彼女のコンピューター上で行ったのかもしれない」と付け加えている。
Insiderはサイモンソン、シモンズ、ネルソンにコメントを求めたが回答は得られなかった。ペンシルベニア大学ウォートンスクールの教授であるシモンズは8月4日、次のようにツイートした(このツイートは現在削除されている)。
「この訴訟について。1. 申し立てには明らかに評価すべきものがない。2. これにより私たちが務めを止めることはない。3. 慎重な批判者や内部告発者を首尾よく訴える、またはその名誉を傷つけることが可能になれば、私たちの科学はどのようになってしまうだろうか。このような事態を実現させるつもりはない」
今回の訴訟により、データ不正を明らかにすることがさらに困難になると懸念する者もいる。
著名な教授がData Coladaに非倫理的な行動で非難されるのは、ジーノが初めてではない。しかし、訴訟で対応したのはジーノが初めてだ。
「評判に傷がつくことでキャリアが終わってしまうことはあり得ます。信頼できる機関と司法制度の両方における公正かつ適正な手続きもなしに、誰かの人格を実質的に抹殺できるようなことがあってはなりません」(ミルテンバーグ弁護士)
LinkedInではジーノの支持者らが大挙して彼女のもとで結束しているが、多くの学者はジーノに対して懐疑的であり、Data Coladaを訴えるという彼女の決定に批判的である。
Data Coladaと同様の分析に従事するデータ捜査専門家のニック・ブラウン(Nick Brown)はInsiderの取材に対し、「この訴訟について私が思うことの大部分は、とてもではないが、ご家族向けの出版物に載せられる代物ではない」と語っている。
長年にわたって学者らは研究の実践において透明性と厳格さを追求してきたが、研究分野の一部関係者は、今回の訴訟により学界で不正行為に異を唱えることが困難になると懸念している。そして、メルボルン大学のヴァジーア教授は、ジーノに対する批判には何らかの性差別的要素があるとの主張に異議を唱える。
「私はそういう主張は嫌いです。女性学者だから今後は批判者に優しく扱われるだろうと思われたくありませんから」(ヴァジーア)
ヴァジーアは、今回の訴訟により「すべての批判者は、概して批判の公表に慎重になるでしょう。おそらく批判の標的が女性である場合はなおさらです」と言う。
サンダースは次のように指摘する。
「この件は、研究における問題行為の証拠を明らかにしたいと望む者に、大量の冷や水を浴びせることになります。2500万ドルもの賠償を請求される訴訟の被告として指名される可能性があるなら、若手学者は正気では手出しできないでしょう」