みどりの窓口ではSuicaカード販売制限についての張り紙が入り口に掲示されている。
撮影:鈴木淳也
「Suica」「PASMO」の異例とも言える発行制限が長期化しつつある。
全国共通で使える交通系ICカード(通称「10カード」と呼ばれる)のうち、主に首都圏で流通しているJR東日本が発行する「Suica」と私鉄らが共同発行する「PASMO」について、まず6月8日に「無記名」カードの販売が中止され、続く8月2日には「記名式」カードについても販売が中止された。
「無記名」カードとは、500円のデポジットを払えば誰でも購入や利用が可能なもの。「記名式」は500円のデポジットのほか、氏名や生年月日などの情報を登録することで「本人のみが利用可能」なカードが発行される。
両者の最大の違いは再発行が可能かという点で、紛失時などに登録した情報を基に再発行できる。また、12歳未満の子どもを対象にした「こども用カード」が発行できるのも「記名式」のみとなっている。
6月8日に販売中止された「無記名」のSuica。
撮影:小林優多郎
報道各社によると、世界的な半導体不足の影響で「Suica」「PASMO」のカード製造に必要なICチップの入手が困難になっており、当面の必要数量のカード製造が難しい状況にあることを販売中止の理由に挙げている。
そのため、まず新規利用者が中心の「無記名」カードの販売を中止し、状況が当面改善しないことを受けて「記名式」についても続けて販売を中止した。
現在、両交通系ICカードを入手可能なのは「定期券」「Welcome Suica」「PASMO企画乗車券」などに限定される。
このほか、物理カードの発行をともなわない「モバイルSuica」や「モバイルPASMO」は引き続き新規でのカード発行が可能なことに加え、Suicaサービスが拡大されたばかりの青森、盛岡、秋田の当該エリアでは各種Suicaカードが引き続き発行される。
取材で浮上した「販売中止」とインバウンド需要の意外な関係
すでに複数の報道が出ているが、文字通り「需要が供給を上回ったこと」が原因となる。
もともとSuicaやPASMOは発行枚数の推移がおおよそ予測できており、年次計画などに合わせて必要枚数が順次確保されている。
一方で筆者がJR東日本に取材したところ、世界的な半導体不足の影響でカード製造に必要な部品(ICチップ)の入手が困難になったことに加え、インバウンド増加でSuicaカードの需要が拡大。販売継続のための充分な在庫が確保できなくなったことが6月8日の「無記名」カード販売中止の発表につながったという。
ただし例外措置として、5月27日にSuicaサービスが拡大されたばかりの青森、盛岡、秋田の3エリアについては導入から時間が経過していないことを踏まえ、より多くに利用を拡大したいとの意向と、利用が不慣れということを踏まえて販売継続となっている。
2023年5月27日にSuica対応エリアとなった青森駅での当日の様子。
撮影:鈴木淳也
この対策により、Suicaカード全体の販売数そのものは減少したものの、今度は観光を中心とした短期利用での記名式Suicaにニーズがシフトしてしまい、記名式Suicaにおいてもニーズ増加分に対する供給の見込みが立たなくなってしまったようだ。
本来であれば増産対応で需要に応えるはずだが、前述の半導体不足を理由にした部品不足によりカード供給のリードタイムが長期化しており、すぐに解決できる見込みが立たない。
記名式Suicaについては再発行サービスのために各駅で必要な在庫をあらかじめ確保しておく必要があるほか、Suica定期券需要に対応せねばならず、結果として記名式Suicaについても追加で販売中止の判断に至ったようだ。
いつから「Suica」「PASMO」は再販売されるのか
JR東日本によると、2023年度の下期から徐々に回復を見込んでいるものの、2024年度以降については現時点で充分なSuicaカードの供給を受けられる見込みが立っていない状況。
具体的な見込みが立つまでには数カ月程度を要すると製造メーカーから説明を受けているという。現時点では明言できないものの、2024年春ごろには販売再開できるよう引き続き最善を尽くしていくと締めている。
ここからは筆者の推測にはなるが、定期券需要が急増する2024年春シーズンまではなんとか耐えられる数量を確保し、ここまでにカード供給が元の水準に戻っていれば、合わせて他のカードについても販売再開にこぎつけたいという考えなのだろう。
交通系ICカードの入手が難しい場合には、モバイル端末でサービスを利用するのが1つの手だ。
撮影:鈴木淳也
なお、今回販売中止の声明を出しているのはSuicaとPASMOの東京首都圏の交通系ICカードのみであり、実はJR西日本のICOCAをはじめとする他の「10カード」については特に供給不足の懸念には触れられていない。
部品そのものは共通のため、残りの交通系ICカードについても半導体不足の影響を受けているのは間違いないが、SuicaとICOCAでのカードの累計発行枚数の単純比較だけでも3倍以上の開きがある。
また、インバウンド旅行客の多くが、まず成田空港または羽田空港という首都圏空港に降り立つという事情から、需要がSuicaとPASMOに集中したと考えるのが適当だろう。
JR東日本は「インバウンドのお客さまが鉄道をご利用の際にはきっぷ(磁気乗車券)をお買い求めいただくか、iPhoneをご利用の場合はApple PayのSuicaのご利用をお願い申し上げます」(同社広報部)としている。
だが、現在海外発行のVisaカードではApple Pay経由でのSuicaカード発行やチャージはできない状況であり、Welcome Suicaの販売まで休止されると、多くのケースでは磁気切符を入手せざるを得なくなるだろう。
日本のインフラが抱える顕在化したリスクにどう対処するか
見通しとしては楽観できないものの、おそらくJR東日本がいうように2024年はある程度状況が改善している可能性が高い。
これも推察になるが、半導体需要がひっ迫するなかでSuicaなどのFeliCaベースの交通系ICカードの製造に必要なICチップの製造ラインがうまく確保できず、製造計画が長引いているのが原因の1つと考えられる。
そのため、長期的な問題というよりも、製造がラインに乗ったあるタイミングで一気に改善する可能性が高い。
ただ、日本の交通系ICカードはFeliCaというある意味で日本の独自規格をベースにした(世界的にみれば)特殊なカードであり、既存のType-A/BやMIFARE系カードに比べれば調達に難を抱えている。
今回の事案は販売中止というニュースよりもむしろ、潜在的なリスクが存在することを明らかにした意味の方が大きいかもしれない。
日本においてSuicaをはじめとした交通系ICカードはすでになじみ深いものとなっており、前述の東北3エリアのように現在もなおエリア拡大を続けている。
一方で、今回顕在化したリスクをはじめ、急増するインバウンドや国内でも一時的な利用を中心とした乗客など、独自規格のカード発行と維持負担は大きいという課題がある。
イギリス・ロンドン市内を走る地下鉄のTube。
撮影:鈴木淳也
イギリス・ロンドンを中心とした交通網を運営するロンドン交通局(TfL:Transport for London)では、2000年代から「Oyster」と呼ばれる交通系ICカードを利用している。
もともと国際都市で欧州の他都市との距離も近い地理的理由からビジネスパーソンや一時訪問者の数が多く、発行はされたものの、以後は利用されずに死蔵されるものも含めて膨大なカードを毎年のように用意しており、その維持負担も含めたコストが膨大になった。
そのため、「オープンループ」と呼ばれる非接触のコンタクトレス決済に対応したクレジットカード/デビットカードでの乗車を可能にする仕組みを2012年のロンドン五輪開催を機に導入した。
TfLによれば、このオープンループ利用率は2021年の段階で乗車方法全体の50%以上を占めるまでになっており、前述の発行負担問題は大きな改善傾向を見せた。
実際、一時的な訪問者に対するオープンループの相性は良く、旅行者にとっては利便性が向上するほか、運営者にとっては死蔵されるデポジットや残高問題の解決にもなり一石二鳥の手段となっている。このため、同様の性格を持つシンガポールやアメリカ・ニューヨークでもすでに運用が始まっている。
ロンドン地下鉄では、現地の交通系ICカードを利用することなく、普段使いのクレジットカードの“タッチ”で利用が可能だ。
撮影:小林優多郎
とはいえ、現状でこれだけ日本国内に普及した交通インフラを一度に置き換えるのは現実的な話ではない。
一時利用者が使う仕組みと、定期券や頻繁に域内を移動する利用客を中心とした仕組みを併存させ、特に前者については「オープンループ」を検討するという話が広がっている。
すでに鉄道では南海電鉄や福岡市地下鉄がある程度本格運用を始めているほか、空港アクセスや観光を担うバス路線を中心に導入が進みつつある。
首都圏でも東急電鉄が田園都市線での実証実験を間もなく開始するほか、同路線と直通運転も行っている東京メトロでも実証実験の2024年度内の開始に触れている。
福岡市地下鉄の様子(2022年6月撮影)。
撮影:小林優多郎
2025年の大阪・関西万博を目指し、同エリアの私鉄らは共通して利用できるQRコード乗車券や改札の導入を進めており、オープンループと合わせて従来の交通系ICとは異なるさまざまな仕組みを模索している。
JR東日本自身も「えきねっと」会員限定ながら、QRコード改札を2024年下期より一部エリアで開始していくことを表明している。
先日、兵庫県神戸市で地域交通全体を巻き込んだオープンループ導入の実証実験開始に関する説明会が開催されたが、そこで説明を行った三井住友カード Transit事業推進部グループ長の生田孝憲氏は「オープンループ導入の営業において(Suica・PASMOの販売制限の)話を事業者にすることはあるものの、それを聞いてオープンループ導入を決定したという事業者はいまのところいない」とコメントしている。
地域周回や地元活性化など、オープンループ導入のトリガーになるのは、別のビジネス的要因のよるものが大きいとの認識だ。
もちろん現状のSuicaなど交通系ICカード導入のコストの高さを嫌ってオープンループ導入に向かう事業者もあるが、前述のように「(交通事業者にとって)2つの異なるニーズを取り込む」ために併存させる傾向が強い。
今回のJR東日本らによる一連の発表を受けて「Suicaは、ひいてはFeliCaはもうダメかも」という意見もあったかもしれないが、潜在的なリスクの可視化はされたとはいえ、当面は利用が継続され、オープンループやQRコード乗車券といった新技術と併存する形で、10年以上先の単位でいくつかの方式に収れんしていくことになるのかもしれない。