台湾のサイエンスパークに位置する大手半導体企業、TSMCのビル(2022年12月)。
REUTERS/Ann Wang
熊本県菊陽町に半導体製造工場を建設中の台湾のTSMC(台湾積体電路製造股份有限公司)は、同地で今春入社見込みの大学学部卒初任給を28万円とするとしており、地元新卒給与相場にも影響を与えた。停滞する日本製造業にとってはまさに令和の黒船だ。
人材確保のための高い給与水準を実現するためにも、今後日本は、単なる技術競争だけでなく、儲かるビジネスモデルの構築にも迫られそうだ。
日本の停滞浮き彫りに
2021年10月に、台湾のTSMC(台湾積体電路製造股份有限公司)が、熊本県に半導体の製造工場を建てる計画を発表した。加えて、昨年6月には2023年春入社見込みの大学学部卒初任給を28万円にすると発表した。これは、熊本県の2021年4月時点の平均大卒初任給、19万4443円の4割増しにあたるという(『日本経済新聞』2022年6月7日)。このTSMC日本進出のニュースは、今、日本が直面している2つの停滞状況に少なからぬ衝撃を与えている。そこには、日本で製造された半導体が再び世界のトップ争いに参入し、加えて30年間上がらなかったお給料がこれにつられていくらかでも上がるかも……、という期待もないわけではないが、日本の経済を全体的に考えた場合、事態はそれほど楽観的ではない。
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミック(世界的大流行)と、ロシアのウクライナ侵攻、そして円安と物価上昇によって、これまで見ないようにしてきた「停滞」の負の側面にスポットライトが当てられてしまった。TSMCの日本進出は、そんな我々にパラダイムシフト(発想の転換)を迫る出来事なのである。
台湾、韓国、中国が世界のスマホ製造
2022年のはじめに、筆者は「日本の停滞と台湾の躍進」(『研究中国』2022年4月号)というタイトルで原稿を書いた。サブタイトルは「21世紀のハイテク産業から考える」である。ハイテク産業といえば、1980年代半ばに日本企業が半導体製造の世界シェアトップに躍り出て、1990年代には、DRAM(半導体素子を利用した揮発性メモリの一種)の生産では向かうところ敵なしの様相を誇っていた。
また、コンシューマエレクトロニクス(家庭用電気機械器具)製造においては、ウォークマンも、電子手帳も、パソコンも、携帯電話も、そしてゲーム機だって日本製が一番カッコ良くて性能が良いはずだった。しかし、スマートフォンという、電話とメールとパソコンと音楽プレーヤーと手帳とカメラとゲームマシンが一体になったものが急速に普及するときに、日本のメーカーは勝ち組には残れなかった。
2023年1月時点の世界の携帯電話のシェアは、アップル27.63%、サムソン27.1%、シャオミ12.51%、オッポ(OPPO)6.4%、Vivo 5.26%、ファーウェイ4.62%である(StatCounter)。アップルのスマホを実際に作っているのはFoxconn(鴻海精密、2021年のシェアは70%、Reuter)という台湾のEMS企業なので、世界のスマホは現在、概ね台湾、韓国、中国企業によって製造されているといっても過言ではない。
ちなみに日本国内市場では、アップル67.03%、ソニー9.1%、サムソン6.26%、不明5.52%、Google2.8%、ファーウェイ2.12%であり、ここには何とかソニーの名前を見出すことはできるが、2位とはいえシェアは1割にも満たない。
外の世界から置き去りになった日本
かつてアジアNIEs(新興工業化経済)と呼ばれた台湾と韓国、香港、シンガポールは、別名を「四小龍」(Four Little Dragons)といった。その背後に中国という、まだ完全には目覚めていない「巨龍」が控えていたからである。
その頃のアジア経済はしばしばFlying Geeseモデル(雁行形態発展論)という日本を先頭として次々と離陸する雁の群に例えられていた(※1)。
順番に高度経済成長期を迎えて急成長し、工業国へと変貌していったからだ。しかし現在、すでに雁の群は離陸後の急上昇から水平飛行に移行している。V字型の編隊の先頭を飛ぶ鳥は、順繰りに入れ替わって長い飛行に対応するのだと聞いたことがあるが、日本人の多くはつい最近まで、自分たちはいつまでも先頭を飛んでいるものと思っていたのではないだろうか。
20世紀後半、東アジアの経済発展は工業化によって実現されてきた。
特にアジアNIEsでは、1960年代という早い段階で輸出志向工業化戦略を採用し、積極的に外資を導入した。そのため、日本で高度経済成長期が終わり、国内で人手不足になり始めると多くの企業が韓国、台湾に積極的に工場を建て始めた。そして、アジアNIEsでも賃金上昇の圧力が大きくなると、次はASEAN(マレーシア・タイ・インドネシア・フィリピン)に進出した。
加えて、1979年以降、改革開放政策へと大きく舵を切った中国へも、低賃金の労働力を求めて、海外直接投資が流入するようになっていった。この時、海外に工場を建てたり、現地の企業に製造を委託したりしたのは、比較的付加価値が低く(もうけが少なく)、労働力が多く必要な産業や工程であった。
この過程で、戦後初期には世界に追い付けと頑張っていた日本の国際競争のイメージは、いつの間にか相対的に賃金が低い国との安売り競争であるかようにすり替わってしまったのではないか。そして、デフレ基調の中、「物価が下がってよかった」などと過ごしているうちに、外の世界から置き去りにされてしまっていたのである。
「下請け」ならぬ独立系企業のTSMC
TSMCは、世界最大の半導体ファウンドリ(チップの製造を専門に行う)事業者であり、半導体の総売り上げではインテル、サムスンに次ぐ、世界第3位の巨大サプライヤー(製造、供給業者)である。(2022年、IC Insights)。
TSMCの特徴はファウンドリ専業という点にある。ファウンドリというのは、スマホや自動車、工作機械等に内蔵されている制御システムの心臓部、ICチップ上の回路を物理的に構築する工程である。必要とされる回路の仕組みや機能は様々であり、顧客ごとの細かい要請がある。その要請に応えて、試作から量産までを請け負うのがTSMCのビジネスである。
ここで重要なのは、ファウンドリ専業は「下請け」ではないということである。それは、現在のTSMCが「超」が付くような巨大企業であるからではなく、彼らのビジネスモデルが日本のいわゆる「下請け問題」が発生するような構造ではないからである。だからこそ、TSMCは全世界を相手にビジネスを展開し超巨大化することができたのである。
日本でいう下請け企業というのは、サブコン(Subcontractor)であり、元請け企業からの発注に頼る経営が主である。部品メーカーも、垂直統合型の大企業の「ケイレツ」(系列)ピラミッドに組み込まれている企業が特徴とされていた時代があった。しかし、このような「安定的な」関係においては、一般的に下請け事業者は、顧客あるいは親請け会社に対して強い交渉力を持ちえず、利益も相対的に低く抑えられがちという問題点もあった。
ところが、TSMCは資本的にも顧客との関係においても独立系の企業であり(※2)、2021年の利益率も38.9%と極めて高い。同年の半導体売上高1位のサムソンは11%、2位のインテルが26.8%であり、彼らと比べても非常に高い。
経験のない競争に直面する日本
半導体集積回路は、シリコン基板の上に構築され、各部品をつなぐ線と線の幅が3~5ナノメートル(nm=10億分の1ミリ)というのが現在量産されている最小クラスである。製造過程では塵やほこりが完全に排除されたクリーンルームと様々な製造装置、そして高い技術を持つ技術者が必要となる。
つまり、半導体製造工程において、実物製造工程への参入障壁は極めて高い。確かに率でいえば設計部門の付加価値の方が高いかもしれない。しかし、設計ができたとしても量産の前には試作が必要であり、試作のためにも製造装置が必要なのである。
TSMCのファウンドリ専業というビジネスモデルは、顧客にそのような設備投資をすることなく、必要な機能を備えたICチップを試作し、量産できる機会を提供している。いったん信用できるファウンドリを得てしまうと、今度は顧客の方が彼らを当てにするようになり、そこにファブレス(工場を持たない会社)の顧客を包摂するエコシステムが維持されるのである。
もちろん、先頭を飛ぶ雁として、TSMCは常に厳しい競争にさらされている。ライバルはサムソンくらいだと創業者の張忠謀(モリス・チャン)氏がインタビューに答えていたが、後ろを追う企業は後を絶たない。
日本でも、2022年8月にトヨタやソニー、NTTおよびNEC等が出資して2ナノの量産を目指すRapidus株式会社(ラピダス)が設立された。もっとも、日本の半導体製造業については、技術の競争だけでなく、儲かるビジネスモデルの構築が急がれるのではないかと懸念する。そうしなければ人材確保のための高い給与も支払うことができないだろう。
もはやアジアとの競争は低賃金競争ではない。冒頭のように、TSMCは九州の製造業の新卒給与相場を上げてしまった。人材獲得競争も激化するであろうし、入社を希望する人材にも世界的人材との競争を強いられる。そして、それらは、これまで日本人や日本企業があまり経験してこなかったようなタイプの競争であろうと予測されるのである。
(※1)本来、赤松要教授によって提起された雁行形態発展論では離陸するのは産業であって国や地域のことではなかった。
(※2)初期にはフィリップスが最大株主であったが、2007年に売却。
The News Lens Japanより転載(2023年3月10日公開の記事)