理化学研究所が公開した量子コンピューター。
RIKEN Center for Quantum Computing
量子物理の原理を使い、さまざまな計算を高速で解くことができると期待される「量子コンピューター」。2010年代から、グーグルやIBMといった巨大IT企業が人材と資金を投入して研究開発が一気に進んできました。
日本でも2023年3月、理化学研究所で国産初号機がクラウド公開され、インターネットを介して研究用での利用が可能に。さらに5月に開催されたG7(主要7カ国首脳会議)の際には、東京大学がシカゴ大学、IBM、グーグルと10万量子ビットの量子コンピューター実現に向けてパートナーシップを締結しました。今後10年間で1億ドル(約145億円、1ドル=145円換算)を超える規模の投資方針が両社から示されるなど、ここへきて量子コンピューターへの注目度がさらに高まっています。
8月のサイエンス思考では、量子コンピューターの研究者であり、国産機の開発にも関わった藤井啓祐・大阪大学教授に、これまでの量子コンピューター研究の流れと現在位置を聞きました。
量子コンピューター、突然の「夜明け」
大阪大学の藤井啓祐教授。
取材時の画面をキャプチャ
藤井教授によると、1980年代に量子コンピューターのアイデアが提唱されて以来、研究のブームは2回あったといいます。1度目は1990年代でした。
量子コンピューターを使うことで、クレジットカード情報や個人情報などを保護しているような、現代の情報通信のセキュリティを担保している「暗号」を簡単に解くことができる可能性が理論的に予想されたのです。
暗号を解くには、暗号として使われている巨大な数を「素因数分解※」する必要があります。2桁、3桁程度の計算であれば、既存のコンピューターでもなんとか解くことはできそうですが、桁数が増えれば増えるほど難易度は爆発的に高まっていきます。現代のコンピューターは、この暗号システムによって守られているわけです。
※素因数分解:正の整数を素数の掛け算で表すこと。例えば「26」は「2」と「13」という二つの素数に素因数分解できる。
ただ、量子コンピューターが実現して計算の原理が変わると、これまで難しかった問題も簡単に解けるようになると考えられました。そこで、多くの物理学者や計算機科学者が量子コンピューターの研究に参戦するようになったのです。
2023年3月に公開された国産機の開発を牽引した理化学研究所 量子コンピュータ研究センター長を務める中村泰信博士も、その一人でした。
理化学研究所の中村泰信博士(2021年撮影)。
画像:Business Insider Japanでの取材時の画面キャプチャ
中村博士は、当時所属していたNECの研究所で、超伝導物質を利用した電気回路を使って、量子コンピューターに欠かせない素子である「量子ビット」を実現しました。
私たちが日常的に使うような一般的なコンピューターでは、デジタル回路上で「0」か「1」のどちらかの状態を作り出すことで、さまざまな計算をしています。例えば、ある素子上に電気が溜まっている状態を「1」、電気が溜まっていない状態を「0」というような形です。一方、量子コンピューターの要である「量子ビット」では、「0でもあり1でもある」という不思議な状態を作り出すことで、既存のコンピューターでは難しい計算を実現します。
metamorworks/Shutterstock.com
ただ、「量子ビット」は非常にデリケートで、周りにある物質やノイズの影響を受けやすく、制御が難しいものです。このため2000年代には、量子ビットは1つ、2つ程度しか組み合わせることができませんでした。
量子コンピューターは、量子ビットの数が多ければ多いほど、効率の良い計算が可能です。ノイズの影響を受けずに実用的な問題を解くには、数千から数万もの量子ビットが必要になると考えられています。
だからこそ2000年代は、
「他分野の研究者からは、『量子コンピューターはいつまで経ってもできない』と言われるような時代でした」
と、藤井教授は振り返ります。
こうした「不遇」の時期を経て、2回目のブームとなる「夜明けが突然現れた」(藤井教授)のは、2014年のことでした。
米グーグルに招かれたジョン・マルチネス米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授らのチームが、超伝導を使った量子ビットを5つ使い、高い精度で計算を実現したのです。
「この成果は、私にとって衝撃的でした。量子はある一定のレベルまでノイズを落とさないと、計算のミスが多く起こってしまいます。マルチネス教授らは、その臨界点を下回るレベルで、量子ビットを動作させることができると示しました。つまり、これが潮目となって、量子コンピューターは物理学の実験装置から、『ちゃんと計算できる』工学的な研究対象になったと言うことができ、以降の研究開発がスピードアップしたのです」(藤井教授)
「量子コンピューターのエコシステムができ始めている」
サンタバーバラ研究所でグーグルの量子コンピューターを前にする同社のサンダー・ピチャイCEOと、量子コンピューター研究チームのダニエル・サンク氏。
REUTERS
さらにグーグルは2019年、53量子ビットの量子コンピューターで、特定の計算において既存のコンピューターの性能を上回る「量子超越性」を実証したと発表しました。これも研究者たちの間では非常に大きな出来事でした。
藤井教授は、
「5量子ビットであれば、まだ紙と鉛筆でできるぐらいの計算しかできないので、まだそこまで怖くはありませんが、50量子ビットとなると装置の構造も複雑になり、計算も難しくなってきます。現場の研究者として、わずか5年間で5量子ビットから50量子ビットを達成したというのは、とても早いと感じました」
と話します。
グーグルが短期間で量子超越性を成し遂げられたのには、理由があります。
「それぞれの学生がとがった研究をしてファンシーな(面白い)論文を書かなければいけない大学の研究室とは異なり、グーグルはチームで分担しながら研究開発をしています。『量子コンピューターそのものをつくりたい』というエンジニア志向の人が集まって研究しているので、なおさら開発が加速されたのではないでしょうか」(藤井教授)
量子情報科学分野の老舗で基礎研究を続けてきた米IBMも、グーグル参入のタイミングから人員を増やして研究開発に乗り出しています。2016年には5量子ビットの量子コンピューターをクラウドで公開。2022年には433量子ビットを搭載したプロセッサも発表しました。
中国でも、中国科学技術大学が2020年代に「量子超越性」を達成したと発表し、量子コンピューターをめぐる国をまたいだ開発競争は激化しています。
また、藤井教授によると、世界中でハードウェア、ソフトウェア双方で開発を進めるスタートアップ企業が立ち上がってきており、「ここ数年で、量子コンピューターのエコシステムができあがってきた」といいます。
画像:藤井教授提供
藤井教授自身も、量子コンピューターを用いたソフトウェア開発や企業と関連する共同研究を行うスタートアップ「QunaSys」(キュナシス)に、2018年の設立時から技術顧問として関わっています。
「今はまだ量子コンピューターを使ってどんなビジネスの価値が出るかははっきりしていませんが、近未来的には、材料計算や化学反応シミュレーション、人工知能の機械学習などに使えるようになる可能性が高いと考えています。だからこそ今の段階から、ユーザー企業のコミュニティを作り、量子コンピューターに何ができて、今後5年10年でどう発展するかを探っていくことがビジネス上、重要になるのです」(藤井教授)
画像:藤井教授提供
ハード開発「誰が勝つかはまだ分からない」
量子コンピューターの研究開発競争は、ハード・ソフトともに加速しています。
ハード開発においては、名前をよく聞く企業は限られているのが現状です。ただ、藤井教授は、今の関係がこのまま続くかどうかは分からないと指摘します。
例えば、情報を載せる量子ビットを作る手法はさまざまあります。
グーグルやIBM、理化学研究所が搭載しているのは「超伝導回路方式」と呼ばれる超伝導物質を利用した方法です。ほかにも、電荷を帯びた原子である「イオン」を真空容器の中に閉じ込めて量子ビットとして利用する方法や、半導体や光を用いて量子ビットを作る方法などもあります。
理化学研究所が開発した16量子ビットの素子。
RIKEN Center for Quantum Computing
藤井教授は、
「現状で超伝導回路方式が先行しているのは事実ですが、量子ビットはまだまだ不安定であり、『超伝導で決まり』というわけでは全くありません」
と率直に語ります。
というのも、量子コンピューターに計算ミスを修正する(ノイズを抑える)仕組みを組み込み、本来期待されたポテンシャルを最大限引き出すには、量子ビットは100万程度必要になると考えられているからです。
「それだけ大量の量子ビットを格納できる冷却装置の開発や量子ビットの小型化など、超伝導回路方式での技術的な課題は山積しています。少ない数であれば非常に安定して存在できるイオン方式は急速に発展していますし、光方式では東京大学の古澤明教授や武田俊太郎准教授ら世界トップクラスの研究者がいます。
1量子ビットを作る方法はたくさんありますが、100万量子ビットを実現する方法は、一つぐらいしかないのではないかと言われており、誰が覇権を握るか、予断を許さない状況です」(藤井教授)
グーグルは、2029年までに100万量子ビットの量子コンピューターを実現しようと意気込んでいます。実際問題として、100万量子ビットの量子コンピューター実現の時期はいつ頃になりそうなのでしょうか。
「個人的にはあと20年程度必要だと考えていますが、量子コンピューター研究では、去年の常識が今年には塗り替えられているほど研究開発が速いため、100万量子ビット実現はもう少し早い可能性もあります。いち早く100万量子ビットに到達した国や企業が先行して計算を進め、薬の特許などビジネス上の利益を囲い込むことにならないよう、私たちは準備を急がなくてはなりません」(藤井教授)
また最近では、ノイズをある程度許容した「NISQ」(Noisy Intermediate-Scale Quantum deviceの略)というタイプの量子コンピューターで使えるアルゴリズムを構築しようという動きも進んでいます。ここで実社会に活用できるものを生み出すことができれば、量子コンピューターの社会実装は、さらに加速するかもしれません。
国産機実現で見えてきた、産業化への道
2021年7月に東大とIBMが発表した、「IBM Quantum System One」。IBMもグーグルと同じように垂直統合型の開発を進めてきた。
画像:IBM
国内に目を向けると、2023年3月には、理化学研究所で国産初号機となる量子コンピューターがクラウド公開され、インターネットを介して研究用途を中心に外部利用が可能になりました。
国産機は、超伝導方式の量子ビットを64個並べたもので、藤井教授は、
「50量子ビットを超えて演算できるのは世界で5グループ程度しかありません。国内では一時、量子コンピューター研究が停滞していた時期があったのですが、やっとトップ集団に入ったと言うことができます」
と指摘します。
さらに藤井教授が強調するのは、このコンピューターがいち企業で垂直統合式に開発されたのではなく、国のプロジェクトとして、さまざまな大学や研究所によって水平分業式で作り上げられた点です。
「例えば制御装置は私のプロジェクトで理論設計し、大阪大学の量子ソフトウェア拠点で実装し、大阪大発のスタートアップ・キュエル(QuEL)が製造・販売しています。
これは他にはないユニークな点で、『ほしい人は誰でも買える』ということを意味しているのです。装置の性能が高ければ、グーグルやIBMが買うこともあり得ます。そうすれば、日本の技術が市場で広く受け入れられるデファクトスタンダードになるかもしれないのです。今後の産業化を見据えて日本の勝ち筋はあると期待しています」(藤井教授)
8月のサイエンス思考の後編では、日本がトップを走る「光量子コンピューター」の可能性について、東京大学の武田俊太郎准教授への取材を元に紹介します。記事はこちらから。