REUTERS/Kim Kyung-Hoon
今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても平易に読み通せます。
ジブリ映画『君たちはどう生きるか』は、作品自体もさることながらそのプロモーション戦略に注目が集まっています。封切り1カ月後までに公開された情報はポスター1枚のみ。世の主流の逆張りともいえるこの手法にはどんな狙いがあるのでしょうか。入山先生は4つの成功のポイントと、一つの大きな弱点を指摘します。
【音声版の試聴はこちら】(再生時間:24分02秒)※クリックすると音声が流れます
あえてポスター1枚しか見せず、飢餓感をあおる
こんにちは、入山章栄です。
今回は話題のジブリ映画『君たちはどう生きるか』の宣伝戦略について考えてみましょう。もちろん内容のネタバレはありませんので、未見の方も安心して読んでください。
BIJ編集部・野田
先生、スタジオジブリの最新作、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』をご覧になりましたか?
実は観ていないんですよ。野田さんは観たんですよね。
BIJ編集部・野田
はい、観てきました。ご存じのように、本作は宣伝はおろか、内容に関する情報公開を一切していません(注:8月18日に場面写真14枚と主な声優陣を公開)。
これまでのジブリ映画は企業とタイアップして露出量を増やし、「単純接触効果」を狙うのが王道の戦略でした。例えば『魔女の宅急便』ではヤマト運輸と、『紅の豚』ではJALと組んでいます。
ところが“君どう”の情報はポスター1枚のみ。観た人もネタバレを避けるあまり、「“君どう”見ましたか? 観てないなら何も話せませんね……』というコミュニケーションまで生まれています。入山先生はこの宣伝戦略、どうご覧になりますか?
映画そのものを観ていない僕が言うのも何ですが、すごく面白い取り組みだと思います。
ちなみにこの収録は8月18日に行っていますが、4日前の8月14日のニュースによれば、「興行成績は62億円を記録」とありますね。観客動員数が412万人。
BIJ編集部・野田
封切直後の3日間は、ジブリ最大のヒット作で316.8億円を記録した『千と千尋の神隠し』と同じくらいのペースでしたが、そこから徐々に鈍っているのは事実ですね。「最終的に100億円を達成できるかどうか」と言われています。
確かに公開が7月14日で、1カ月で62億円ということは、100億円はちょっと厳しいかもしれませんね。
宮崎作品だからこそ、たった1回だけできること
この戦略を考えるポイントは4つあると思います。
まず最大のポイントは、1回限りしか通用しない手法であるということ。
2つめは、過去に数々のヒット作を生んできた宮崎駿さんの作品だからこそ、宣伝をしないことが逆に宣伝になるということです。われわれは誰もが宮崎駿作品を観たことがあり、ほとんどの場合、お気に入りの作品がある。だからこそ「あの宮崎駿さんが映画をつくるらしいよ。でもどんな話か全然わからない」というだけでニュースになる。
これが仮にですが、映画界では無名の僕が初めて映画をつくることになったとしても、広告を打たなければ誰も観にきてくれないわけですよ。
BIJ編集部・常盤
確かにそうかもしれません(笑)。
とにかく1億2000万人の日本人には、「宮崎駿さんの作品なら注目しなきゃ」というコンセンサスがある。だからこそ宣伝しなくても話題になるわけです。しかし再び同じことをしようと思っても、次は通用しないでしょう(宮崎駿さんがまた作品をつくるかどうかはわかりませんが)。だから1回限りの荒業でもある。いずれにせよプロデューサーの鈴木敏夫さんは面白いことを考えたものだと思います。
宣伝しないことでギャップが生まれる
3つめのポイントが、宣伝するのが当然なのに、宣伝しないことで感じるギャップです。
この連載でも紹介したことがありますが、人間の認知バイアスに「アンカリング効果」というものがあります(連載118回を参照)。これは簡単に言えば「ギャップ萌え」。もともとクールで冷たそうな人が、実は意外といい人だったとわかると、そのギャップにときめくわけでしょう。
それと同じように、例えば炊飯器を買おうと思ったとき、「2万円の炊飯器」と、「本当は3万円だけど、いまだけ2万円の炊飯器」があったら、圧倒的に後者のほうがお得だと感じるわけです。最初に「冷たい人だ」という心理的なアンカー(錨)を打たれたあとに、「実はけっこういい人」とわかると、本当はたいしていいやつじゃないのに、評価が高くなるのと同じですね。
BIJ編集部・野田
雨の日にヤンキーが傘をさしかけてくれると、「本当は心のやさしい人だったんだ」と感動するようなものですね。
まさにそれですよ(笑)。今回は「映画というのは派手に宣伝するものであり、ましてやジブリはそうだ」というアンカーがありました。だから映画なのにあえて宣伝しない、ということのギャップに揺さぶられた人が多かった。でも1回手法がわかってしまうと、次はもう効果がないんですよ。「今回限りの手法」だと言ったのはそういうわけです。
内容について語りたいのに、語れない
4つめのポイントは、内容が議論を呼ぶ作品だということです。僕も観ていないけれど、どうやら賛否両論なんでしょう?
BIJ編集部・野田
はい、めちゃくちゃ賛否両論です。人によってかなり評価が分かれますね。
僕のまわりでも、情報感度が高い人たちはさっそく観にいってきたようですが、僕のように観ていない人から「どうだった?」と聞かれると、何を言ってもすべてネタバレになってしまうから「ひたすら鳥が飛んでたよ」くらいのことしか言えないみたいですね。
これがいかにもわかりやすい勧善懲悪のストーリーであれば、議論は起こらないでしょう。だけど『君たちはどう生きるか』は意見が分かれる。ということは、観た人は感想を語りたくてウズウズしているはず。でもネタバレしてはいけないから我慢している。その感じがすごく面白い。
議論を呼ぶ内容だからこそ、この広告を打たず、内容も一切明かさない戦略がうまくいったのでしょう。
「ネタバレ解禁」と、さらなる情報公開でテコ入れを
でも僕から見ると、この手法は課題もあるんです。というか、いま少し動員数が鈍ってきているのが、まさにその証かもしれません。
それは、この「宣伝しない宣伝」は効果の持続性が弱いということです。
本来であれば公開から1カ月経過したいまごろは、もっと映画の中身についての議論が高まり、口コミで面白さが伝わっていていい時期でしょう。それに影響されて、観るつもりはなかった人も「じゃあ観てみようかな」となるステージが今なんですよ。
ところが、この映画はいまだに内容を公開していないので、映画を見た人も人に話すのを躊躇しすぎるため、「巷で皆で議論をする」という形での話題になりにくいのです。
BIJ編集部・野田
なるほど。テコ入れ策として、いまからでも予告編を公開するなどしてもいいわけですね。
本来なら、それがいいと思います。今回はあまりに秘密主義を徹底しすぎているので、本当になんの話かさっぱりわからない。「鳥が飛んでる」だけでは興味を持てませんよね。だから新しいもの好きな情報感度の高い人は一通り観ますが、その後で僕のような普通の人にまで火がつきにくいのです。
マーケティングには短期戦略と中長期戦略があります。今回、短期戦略についてはとてつもなく成功しました。今後は次のステージに切り替えるためにも、内容をもう少し小出しにして、「実はこういう面白さがあるんですよ」とアピールをする必要があるのではないでしょうか。そうすることで、「それなら観てみようかな」と思う人が出てくる気がします。
野田さんだって本当は、どこがよかったとか、自分の解釈などを語りたいのに、それができないのは辛いですよね。
BIJ編集部・野田
そうなんです。語りたい!
BIJ編集部・常盤
「語っていいよ」という許可を早くジブリから公式に出してほしいですね。「ネタバレ解禁」になれば、私も含め、もっと多くの人が観にいくような気がします。
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。