福島第一原子力発電所からの処理水海洋放出が開始された8月24日、日本政府に対して抗議の声を上げる中国・香港のデモ隊。
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中国政府は、東京電力福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出について、日本産の水産物の輸入一時停止などの対抗措置を決定。8月28〜30日に予定されていた公明党の山口那津男代表の訪中を「適切なタイミングではない」と延期した。
呉江浩・駐日中国大使は8月30日、筆者の取材に対し、日本側が期待する9月の日中首脳会談について「日本側と協議した事実はない。流動的だ」と語り、実現に否定的な見通しを示した。
日中関係は今後どのような展開を見せるのか。
2012年の尖閣諸島国有化をめぐる中国側の対応と比較しながら観測すると、中国が岸田政権を見限り、政権交代まで首脳会談に応じない「最悪シナリオ」も浮上してくる。
「なぜ一時停止と書かないのか」と駐日大使
海洋放出が始まった8月24日以降の日中関係の推移を振り返る。
放出開始をめぐり、中国から日本への苦情や嫌がらせ電話は東京電力だけで6000件超に上り、中国にある日本人学校には石や卵が投げ込まれた。
ネット上では日本製化粧品の不買呼びかけも出はじめ、外務省は8月27日に中国への渡航者に注意を呼びかけるなど、日中関係は悪化の一途をたどっている。
呉大使は筆者らとの懇談の中で「嫌がらせ電話はよくない。私のオフィスにも嫌がらせとみられる無言電話がかかってきている」と明かした。
中国側では、8月30日に「極端な情緒をあおる言動は慎むよう」沈静化を求める中国紙の社説が出た。同日、日本では高市早苗・経済安全保障担当相が、中国の禁輸措置に対し世界貿易機関(WTO)への提訴を検討すべきと訴え、対立をあおった。
WTOへの提訴については、韓国政府が福島第一原発事故の発生後、福島はじめ8県産の水産物の輸入を禁止したことを不当として日本政府が提訴したものの、2019年4月に日本側が逆転敗訴(WTO上級委員会は韓国の措置が妥当と最終判断)した経緯から、自民党内にも消極論がある。
中国側にも妥協の余地がある
呉大使は日中関係について、「問題をこじらせてはならないと考えて対処している。しかし日本メディアは、中国税関総署が『原産地を日本とする水産品の輸入を全面的に一時停止すると決定』と発表しているのに、『全面禁輸』と書き続けている」と指摘。メディアは「日本政府に洗脳されているのでは」と批判した。
日本メディアの多くが「禁輸」の表現を使うのは、中国の強硬姿勢を際立たせるためだろう。
一方で、中国税関総署があえて「一時停止」という表現を使っているのは、中国側に妥協の余地があることを示していると筆者は考える。
呉大使は8月28日に岡野正敬・外務事務次官と会った際、「海洋放出のモニタリングに中国の専門家を立ち会わせては」と提案したが、外務省側は「検討する」としただけで、同意を得られなかったという。
中国の専門家をモニタリングに参加させる選択肢は、今後の局面打開のヒントになるかもしれない。
呉大使は、中国政府が日本向け団体旅行を解禁したのに続いて、「日本人のノービザ渡航の回復も了承しているが、いつ回復するかは海洋排出問題の処理にかかっている」と語り、当面は海洋放出が関係改善の障害になるとの見方を示した。
「尖閣諸島を思い出す」と経団連会長
中国側の対抗措置を見て、日本経済団体連合会(経団連)の十倉雅和会長は8月28日の記者会見で、「尖閣諸島(を国有化した2012年ごろ)を思い出す」と指摘した(朝日新聞、8月29日付)。
日本政府による尖閣諸島の国有化に抗議して中国各地で反日運動が行われた2012年9月のように、今回の処理水海洋放出問題でも同様の、あるいはそれ以上の反日運動が繰り返される可能性はあるのか。
当時は、国有化直後から北京や上海など中国の主要都市で大規模デモが発生。一部の参加者が暴徒化し、日系スーパーや工場を破壊・放火する暴力的運動が数日続いた。
ただし、その動きには伏線があった。
中国の温家宝首相(当時)はデモが暴徒化する前、北京の講演で「中国政府と国民は、主権と領土の問題で半歩たりとも譲歩しない」と強い姿勢を示していた。この発言は、当時の大規模デモが中国政府の主導で行われていた可能性が高いことを示している。
一方、今回の海洋放出問題では、李強首相や中国外交を統括する王毅外交部長(党政治局員)ら政府当局者は発言を一切控えている。外交部も2012年のように日本を非難する声明は発表していない。
汪文斌副報道局長は8月28日の記者会見で、中国国内の日本人学校などへの嫌がらせについて「承知していない」と、当局による「あおり」を否定した。
尖閣国有化時との「相違点」
2012年と2023年、中国側の対応の違いは明らかだが、それは何に起因するのか。
第1に、尖閣諸島をめぐる問題は、日中双方が領有権を主張して対立し、主権と領土という核心的利益に関係する重大な問題だ。
日本政府による尖閣国有化の決定を、中国側は国家による「現状変更」とみなした。
第2に、中国が当時抱えていた政治状況が挙げられる。
国有化のわずか2日前にロシア・ウラジオストクで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)で、胡錦濤・国家主席は野田佳彦首相(いずれも当時)と立ち話をした。
中国側によれば、胡氏はその際、日本側の国有化について「全て不法、無効なものであり中国側は断固反対する。日本側は誤った決定をせず、中日関係の発展の大局を守るべき」と警告した。
ところが、その警告は2日後の国有化発表であっさり無視されることとなり、胡氏は完全にメンツを失った。
当時、中国共産党は総書記を胡氏から習近平氏にバトンタッチする微妙な時期に当たっていた。北京の中国研究者も「権力交代に入った時期だけに、処理を誤れば党内矛盾が顕在化しかねない」と、日本への強硬な対応の背景を分析した。
一方、今回の海洋放出問題は、中国の主権や領土といった核心的利益に関わる問題ではなく、中国側の利益を直接的に侵害しているわけではない。そこに大きな違いがある。
日中首脳会談は「望み薄」
公明党の山口那津男代表の訪中について、中国側が「適切なタイミングではない」と延期を求めてきたのは、今後の日中首脳交流を占う上で無視できない要因だ。
公明党は歴史的に中国と友好的な関係にあり、岸田政権も山口訪中に期待を寄せていた。岸田氏は山口氏に首相親書を託し、山口氏自身も習会談に意欲を見せていた。
しかし、山口氏の訪中延期が決まったことで、岸田政権が期待していた東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の首脳会議(9月4日~7日)での岸田・李強首脳会談、その直後の9月9日〜10日に予定されている主要20カ国・地域首脳会議(G20)での岸田・習首脳会談の実現に、黄信号が灯った。
冒頭で紹介した呉大使の「日本側と協議した事実はない。流動的だ」との発言はそれを裏付けるものだが、呉大使は「秋に予定される与野党議員による訪中に変更はない」とも述べており、対日交流には「是々非々」対応で臨む姿勢を示している。
山口氏の訪中延期の理由については、岸田親書の内容が海洋放出を決定した日本政府の判断の正しさを繰り返す内容だったため、と指摘する声もある。中国側は親書の内容について、事前に「内容のあるものを期待する」と注文を付けていたとされる。
岸田政権が9月の日中首脳会談に強い期待を寄せていたのは、デフレ懸念や不動産をめぐる過剰な債務問題で中国経済の冷え込みが続いているため、中国側は対日関係の改善に動くという判断からだった。
米中関係の悪化が続く中、習政権は対日関係まで悪化させることを望んでおらず、海洋放出問題については「やがて矛(ほこ)を収める」という分析だ。
しかし筆者はそうは思わない。
日本政府が菅政権以降の2年間、アメリカとともに台湾問題で中国を仮想敵とし、徹底した対中軍事抑止政策をとってきたことに対し、中国は何らかの「対抗措置」を検討していたと筆者は考えている。
この解釈が正しければ、中国側が海洋放出問題でただちに妥協する可能性は低い。
妥協重ねて首脳会談実現した安倍氏。岸田氏は…
では、日中関係のこう着状態はいつまで続くのか。
それを考える上では、先述した尖閣国有化問題の「後処理」を振り返るのが参考になる。
2012年末、国有化を決定した野田政権が衆議院解散後の選挙で敗北して退陣、第二次安倍政権に交代。安倍氏は対中関係改善に向けた工作を開始した(以下の肩書きはいずれも当時のもの)。
まず、福田康夫元首相による2014年7月の極秘訪中で、安倍氏訪中のお膳立てが行われた。
福田氏訪中を受け、谷内正太郎国家安全保障局長が同年11月、楊潔篪国務委員と北京で会談。その翌日、日中両国は尖閣周辺の情勢をめぐり、「見解の相違を認め、対話と協議を通じて不測の事態を避ける」ことで一致したとする合意文書を発表。
こうして、北京でのAPEC首脳会議の際、日中首脳会談が実現したのだった。日本側の政権交代を経て、尖閣問題で日本側が妥協し安倍・習会談が実現するまで、およそ2年かかった。
ただ、首脳同士の交流は再開したものの、この時は「会談」と言うより、国際会議を舞台にした「接触」と言うべきものだった。正規の首脳会談実現までには、さらに4年を要した。
2017年5月、習近平国家主席が提唱するシルクロード経済圏構想「一帯一路」に関する国際会議が北京で開かれ、日本からは自民党の二階俊博幹事長と安倍氏側近の今井尚哉・政務秘書官が出席。両氏は現地で習氏と面会し、首脳の相互訪問実現を求める首相親書を手交した。
親書を読んだ習氏は、「(一帯一路に対する)日本の積極的態度を表している」と評価したのだった。
親書の内容は今日まで公開されていないが、今井氏が親書を「一帯一路に協力する」という表現に「独断で書き換え」それが「黙認された」ことを、複数の政府関係者が証言している。
この二階氏と今井氏の訪中を受け、翌2018年に北京での(正規の)日中首脳会談がようやく実現した。
上で述べたように、日本側は中国との関係改善を実現するため、尖閣をめぐる見解の相違を認める合意文書を発表し、首相親書で「一帯一路」への協力を表明するなど、妥協を重ねた。
日中の経済力逆転を背景にした、中国外交の強みとしたたかさを見せつけられた。
おそらく今回も、首脳会談再開に向けて中国側は海洋放出問題での日本側の妥協を迫るだろう。それに加え、環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)加盟問題で、台湾より優先的に中国を加盟させる要求を絡める可能性もある。
岸田政権の弱さは、バランス感覚を持ったブレーンがいないことだ。首脳会談の実現には、政権交代まで待たねばならないかもしれない。岸田氏にとって最悪のシナリオは、決して非現実的な観測ではない。