シンガポール中心部の人気観光スポット「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」。物価情勢の変化を受け、日本から同国への旅行のハードルは急激に上がりつつある。
Sean Hsu/Alamy
9月初頭、筆者は出張でシンガポールを訪れた。前回同国を訪れたのは5年前だが、物価情勢を日本と比べると、その差は非常に大きなものになってきていると感じた。
例えば、物価の比較対象としてよく使われるスターバックスについて言えば、アイスコーヒー(カフェ アメリカーノ)のトールサイズは約5.8シンガポールドル、本稿執筆時点のレート(1シンガポールドル≒108円)で換算すると626円。日本で同商品は445円なので、シンガポールの方が約1.4倍高いことになる。
また、ミネラルウォーター(エビアン、500ml)はチャンギ国際空港で約3.2シンガポールドル、同約346円だった。日本のネット上で確認できる希望小売価格(近所のコンビニでは発見できなかった)は170円(税込183円)だが、ネット通販などでまとめ買いしたとして税込140円前後。シンガポールの方が約2.5倍高い。
エビアンについては、シンガポールでもディスカウント販売している店舗はあるし、ネット経由で安くまとめ買いもできる。また、筆者がエビアンの価格を確認したのは現地の空港で、市内の小売店などより価格設定が若干高い。それらの条件次第で比較結果に幅が出てくることはご了承願いたい。
いずれにしても、コーヒーやミネラルウォーターのような日常生活に近い財にこれだけの価格差が浸透していることから、日本からシンガポールへの旅行者や出張者、駐在員らが痛みを被りやすくなっている実態が想像される。
必然的に、日本からシンガポールのような物価水準に開きのある外国への旅行者は増えにくくなるだろうし、旅行収支における支払(言い換えれば、サービスの輸入)は今後減っていく可能性が高くなる。
さらに言えば、海外旅行の代替としての国内旅行に需要が集中し、ひっ迫する展開まで予想されるし、すでにそうなりつつあるのではないか。
一方、海外から日本に来る場合は、筆者がシンガポールで経験したのと逆の感覚を抱くだろう。そう考えると、旅行収支における日本の受取(言い換えれば、サービスの輸出)は今後増える可能性が高い。
今回の出張でも、そうした状況を象徴するような光景に出合った。日本から海外へ出国する保安検査場の前に連なった長蛇の列がそれだ。
空港職員から聞いた話では、現在、羽田空港の保安検査場は事前の顔認証登録などをしていない限り、30~40分、短くても20分程度は列に並ぶのが当たり前になっているという。
チェックインカウンターも凄まじく混雑していた。ほとんどは日本で楽しんで帰国する外国人観光客(インバウンド)で、日本人の姿の方が少ないように見えた。
いずれも、旅行収支における日本の受取増加、つまり旅行収支黒字の拡大を象徴する光景と言えるだろう。
「アジア最弱通貨」という現実
シンガポールとの財の価格差に話を戻すと、現在のような状況が生まれた要因として、名目ベースの円安が近年進んだ影響は大きい。
通貨の相対的な実力を測る指標で、物価の格差を加味しない「名目実効為替相場(NEER)」の変化を見ると、2022年初頭を起点にして、8月末時点で日本円が約15.1%の下落、シンガポールドルは約9.4%の上昇となっている。
水準で比較すると、円の名目実効為替相場はシンガポールドルのそれより4割程度低いわけだ。
為替だけでそれほど大きな差が生まれ、そこに両国の賃金格差も上乗せされるので、大きな価格差にも納得するほかない。
なお、シンガポールは世界有数の金融センター(金融業において中心的な役割を持つ都市や地域)ゆえに物価や賃金の上昇に直面しやすく、日本と比較する対象としては極端すぎるとの見方もあろうが、その他の東南アジア諸国の通貨と比較しても、円の下落幅は突出しているのが実情だ【図表1】。
【図表1】日本円(緑線)および東南アジア諸国の通貨の名目実効為替相場(NEER)の推移。
出所:Macrobond資料より筆者作成
筆者はなかなか終わりの見えない昨今の円安について、「ドル高の裏返しではない」と繰り返し主張してきた。
多くの識者たちが説明するように、世界的なドル高が円安の真の要因だとするなら、円と同じように大幅下落に見舞われている通貨がいくつかあってもいいはずだ。
しかし、上の東南アジアの名目実効為替相場を見ても分かるように、そのような通貨は見当たらない。例えば、2014年のクーデターから軍事政権の影響下にあり、経済低迷を指摘されるタイですら、名目実効為替相場は上昇基調にある。
結局、昨今の円安には、巨額赤字の続く貿易収支や海外で稼いだ黒字が国内に戻ってこない第一次所得収支、デジタルやコンサル、研究開発分野を中心に今後の赤字拡大が懸念されるサービス収支など、構造的な要因が大きく影響しているというのが筆者の考えだ。
また、上で説明したような名目ベースの円安について、国内外の価格差を生む要因として「影響は大きい」と書いたが、それもあくまで二次的なものにすぎないと筆者は考えている。
それは、冒頭のスターバックスの実例で考えるとすぐに分かることだ。
日本とシンガポールのアイスコーヒーが等価になるためには、1シンガポールドルが現在の108円から67円まで下落しなくてはならない。そうなってはじめて、約5.8シンガポールドルのアイスコーヒーが約390円で買えるようになる。
しかし、1シンガポールドル=67円というのは2011~2012年頃の水準だ。
日本の貿易収支はそのあたりを端境期に赤字が常態化、もしくは黒字が稼げなくなっていくのだが、当時はまだ日本が貿易赤字国に転落するイメージまでは存在していなかった。その段階での円相場が1シンガポールドル=67円という水準で、それがフェアな円相場の価値だと考える向きはさすがに少数派だろう。
その事実を踏まえると、主に名目ベースの為替の変化(円安)によって日本とシンガポールの価格差が生まれたと考えるのは無理がある。
結局のところ、実質ベースの円安に目を向けないと価格差の実態は見えてこない。
物価格差を加味した実質実効為替相場(REER)について、例えば2000年初頭から2023年7月までの変化率を見ると、円は53%の下落、シンガポールドルは31%の上昇を記録している。
通貨が持つ「購買力」と読み替えられる実質実効為替相場でこれほどの差が付くと、財やサービスに付けられる値札は(品質が全く同じでも)当然変わってくる。
特にこの1~2年について言えば、シンガポールドルと円の実質実効為替相場はほぼ真逆と言っていいような動きを示している【図表2】。
【図表2】シンガポールドル(紺線)と円(薄紫線)の実質実効為替相場(REER)の推移。
出所:国際決済銀行(BIS)資料より筆者作成
結局、問題は賃金だ
日本と海外の物価格差やその解消の必要性が話題になる時、直感的に分かりやすいゆえに「円安の副作用」という安易な文脈で、名目ベースの議論に陥りがちだ。
しかし、名目ベースの為替相場が多少修正されたところで、大きな構図は変わらない。
前回(8月23日付)の寄稿でも指摘したことだが、財・サービスに付けられている「値札」の違いは、賃金格差に起因する。日本より高い賃金コストをかけて提供される財・サービスが、日本より高い値段で販売されるのは当然だ。
したがって、賃上げ傾向が持続し、それが企業の価格設定行動として落とし込まれるという、海外では当たり前の動きが日本で定着するかどうかが、物価格差の先行きを見通す際の本質になる。
これほど人手不足が慢性化しているのに、名目賃金が上がらないということはあり得ない。だからこそ、日本でも少しずつながら確実に「名目賃金上昇→値上げ」の流れが生まれ始めているように筆者は感じている。
そうやって物価が上昇すれば、一方的な下落が続いている実質実効為替相場、すなわち日本円の購買力も浮上する可能性が出てくることになる。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。