Arantza Pena Popo/Insider
レイチェル・コバートは、ファッションデザイン事務所のアイザック・ミズラヒ・ライブ(Isaac Mizrahi Live)のバイスプレジデントとして年収18万ドル(約2600万円、1ドル=145円換算)を得ていた。
しかし、高給には長時間労働がつきものだ。コバートは心身をすり減らした。
「結局、一番大事だったのは『水曜日の午前10時にヨガに行きたい』と言えることでした」と、Insiderの取材に応じたコバートは語る。
コバートは、36歳という若さで自分自身の自由を求めて退職した。幸いなことに、退職ポートフォリオと証券口座には十分な蓄えがあった。Insiderが確認した財務資料によると、コバートの両口座の残高は50万ドル(約7250万円)近くある。
だが自由は、資金が底をつくのではないかという不安と隣り合わせだ。かつては相当な額に思えた貯蓄が一転、限りあるものだと気づいたコバートは、家計の収支を強く意識するようになった。仕事をしていた頃より支出は減ったものの、わずかな支出でも重みが増して感じられるようになった。
36歳でFIREしたレイチェル・コバート。
Rachel Covert
この頃には、自分もFIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的自立と早期退職)ムーブメントに参加するんだという実感が湧いてきた。FIREはさまざまなメリットが謳われている。勤務時間中にエクササイズができる。世界中を旅したり、家族との時間を増やしたりすることもOK。趣味を追求するもよし、夢だった起業をするもよし。フルタイム勤務からも解放される。
FIREに踏み切った多くの人たちがこれらのメリットを享受する一方で、コバートらInsiderが取材した早期退職者5人は、限りある貯蓄を管理し、それに頼りながら残りの人生を過ごすことの難しさを口にした。安定したキャリアがもたらす目的意識や、毎月の給料が保証される安心感が失われたことについて嘆く声も聞かれた。
早期退職に燃えて
FIREムーブメントの起源は、1992年に出版された本『Your Money or Your Life(邦訳:お金か人生か——給料がなくても豊かになれる9ステップ)』にまでさかのぼることができる。共著者の2人も40代までに経済的自立を果たしており、同書はFIREのバイブルとされている。
ナード・ウォレット(NerdWallet)の依頼を受けてザ・ハリス・ポール(The Harris Poll)が2000人以上を対象に実施した最近の調査によると、アメリカ人の約25%が50歳までに退職する予定だと答えている。これは、社会保障給付金の支給開始年齢よりも12年以上早く、401(k)プランから違約金なしでの引き出しが可能になる年齢よりも9年早い。
それでもなお、一般的な退職年齢である65歳になる前にフルタイム勤務を離れることは、魅力を増している。経済的自立をテーマとするサブレディットには210万人のフォロワーがおり、メンバーたちは貯蓄や投資の方法から、早期退職を目指しつつ家族を養う方法まで、さまざまな質問を投稿している。
FIREムーブメントには分派まであり、極端な倹約に重きを置くものもあれば、多額の退職金を作ることやパートタイムの仕事を続けることを唱えるものもある。
例えば、「リーンFIRE(Lean FIRE)」とは、ムーブメントの中でも極端な立場をとる分派で、年間の生活費を4万ドル(約580万円)以下に抑えることを旨とする。これよりも出費を増やしたい(6ケタ以上)者は「ファットFIRE(Fat FIRE)」と呼ばれる。ほかにも「バリスタFIRE(Barista FIRE)」というものもあり、これは退職資金だけでは蓄えが十分でないため、収入を得るために仕事を続けているセミリタイア組だ。
FIREするも再就職へ
だが、FIREは往々にして不完全燃焼になるものだ。バリスタFIREを実践しているというコバートもご多分に漏れず、新たに見えたFIREの現実を受け入れ、ライフスタイルを大幅に調整しなければならなかった。彼女はニューヨークを離れ、デジタルノマドとなってメキシコやポルトガルなど生活費の安い国を転々とし、最終的にはイギリスに家を持つパートナーと同棲することになった。
もう一つ、コバートにとって重かったのは、早期退職を達成しても二度と働かずに済むとは限らないという現実だった。彼女はその後、追加の収入源としてオンラインでマネー・コーチを開業したことで、退職金口座に積み立てられるようになった。
グウェンドリン・メルツもまた、独立のために退職したはずが、結局は再就職を決めた。
メルツは2013年に大学を無借金で卒業し、IT業界でキャリアをスタートさせ、フォーチュン100社に名を連ねる企業に就職した。
「職場環境は良くはなかったですね。とてもストレスフルで、あそこで働くのは好きじゃなかった。でも他に働いた経験がなかったので、『仕事ってみんなこんなものなんだ』と思っていました」(メルツ)
約3000万円の蓄えとともにフルタイムから足を洗ったメルツ。しかし9カ月後には再就職を余儀なくされた。
Courtesy of Gwendolyn Merz
状況を打開しようと決めたメルツは早期退職を目指し、収入をできるだけ貯蓄に回した。FIREムーブメントのことは大学時代に知っていたので、20代をその土台作りに費やした。ブログ、ポッドキャスト、フリーライター、賃貸経営などいくつかの副収入を得ると、貯蓄率と収入を上げた。
5年後に貯蓄が20万ドル(約3000万円)を超えたのを機に、メルツは退職を決めた。ただ、仕事から完全に足を洗うつもりはなかった。自営業を続け、必要に応じて貯蓄を取り崩すつもりだった。
そこでメルツはいくつかの問題にぶつかった。
第一に、貯蓄の大部分は使える状態になかった。
「年金を下ろして使うことができると会社にはあらかじめ確認していたんですが、後になって別のところから、あなたに2度もそう答えた人は間違っている、年金を引き出すことはできないと言われました。7000ドル(約1000万円)の年金が頼りだったのに」(メルツ)
退職して間もなく、自宅の修繕費に1万ドル(約145万円)かかったのも手痛い出費だった。
「自分が思っていたほどのゆとりはないことに気付かされました」(メルツ)
その上、退職後の収入も見込み以下だった。所有していた賃貸物件は、プラスのキャッシュフローを生み出すどころか費用負担が必要になった。
「半年くらい経ったところで『もうだめ、振り出しに戻らなきゃ』となって、サラリーマン生活に戻るために面接を受けることにしました」(メルツ)
退職から9カ月後、メルツは別のIT企業に転職した。
4%ルールの欠点
FIREをめぐる最大の疑問は「退職資金はいくら必要なのか」ということだ。公認ファイナンシャル・プランナーのマルゲリータ・チェンは次のように言う。
「自分に合った数字(退職資金額)に注意したいものです。ここでいう数字とは、あなたの『バーンレート(編注:会社経営において1カ月あたりに費やすコスト』、つまりキープしなくてはならない金額のことです」
自分の数字を求めるにはまず、退職後の支出を洗い出さなくてはならない。自分には何が重要なのか、早期退職後にどんなライフスタイルで過ごしたいのか考えるべきだとチェンは言う。
「退職後の生活を設計するのは自分次第だと認識することがとても重要です。自分は何をしたいのか、どのような状況に身を置くのか、といったことですね」(チェン)
年間支出を想定したら、今度は「4%ルール」から逆算する。4%ルールとは、退職後資産の4%までなら毎年引き出しても差し支えないという考え方だ。
チェンは、このルールは完璧ではないと強調しつつも、とっかかりとしては使いやすく、早期退職の目標を達成するために必要な貯蓄額を求めるのに役立つと言う。
近年、早期退職者が直面している問題の一つが急速に進むインフレだ。インフレ率は、4%ルールでは考慮されていない、予測不可能な要因である。2022年のインフレ率は40年ぶりの高水準となり、ピーク時には9%に達した。その後は沈静化したものの、依然として物価は高い。
一方、幸いなことに、過去10年間に多くの業界で大幅な賃上げが行われている。だが、これは早期退職者が享受できない特典だ。労働統計局によると、2013年8月からの10年間で、平均時給は41%上昇している。
クアンは36歳でFIREした。
Michael Quan
36歳で退職したマイケル・クアンは、自分が何歳まで生きるか予測できないという理由から、4%ルールに従わず、投資ポートフォリオも取り崩さずにいる。
クアンは2013年にITコンサルタントとしてのキャリアに終止符を打った。その時点で、128万ドル(約1億8500万円)の純資産を築き、会社を売却して得た11万ドル(約1600万円)の現金が手元にあった。
次に、クアンは純資産を元手に株式と不動産を購入した。現在、彼が得ている毎月のキャッシュフローの多くは、長期および短期の不動産賃貸によるものだ。教職に就いている妻と同居しているおかげもあり、クアンのポートフォリオは逆風を受けることなく膨らみ続けている。
「インフレのことは常に念頭にあります。キャッシュフローにはいつも注意しています。特にここ2、3年は、外食などのコストが大幅に上がっていますから。インフレは誰もが考慮すべき重要ファクターです」(クアン)
苦労は金銭面以外でも
早期退職者の中には、金銭面でFIREの条件をすべて満たしていても、目的の欠如など、それ以外の問題に直面する者もいる。
「こういう人にとっての最大の課題は、膨大な数の可能性の中から、どのアイデンティティと目的を追求するかを決めることです」
ビジネススクールINSEADのウィニー・ジアン助教授は、現在進めている早期退職者に関する研究について説明した記事の中でそう述べている。
クアンは、生まれたばかりの娘と過ごす自由と引き換えにITコンサルタントとしてのキャリアを手放した後、この課題に直面した。
早期退職しても幸福になれるとは限らないことにクアンは気づいた。フルタイムで父親業にいそしむことに喜びを感じており、早期退職したことも後悔していないが、企業の一員として影響力ある事柄に取り組めた時のことを懐かしく思う。
クアンは新たな目的意識を求めてオンライン・コーチング業を始め、経済的目標を達成する方法を教えるようになった。クアンが受講者に、早期退職は誰にとっても究極のゴールだとは限らない、というメッセージを伝えている。
「早期退職は目的地であり、そこに至ったら最終決断をして、キャッシュフローで出費をまかなえる状態にならなければいけない、と以前の私は考えていました。私は実際に目的地に到達して最終決断を下したわけですが、にもかかわらず自分のアイデンティティに変化があったことに改めて気づいたんです」(クアン)
クアンと同じくサム・ドーゲンも、金融業界での華やかなキャリアから一転、「34歳にして自分が何者でもないような心境」を抱くようになった。
SNS上では「Financial Samurai」のハンドルネームで知られるドーゲンは次のように話す。
「週に60〜70時間働き、同僚がいて、アジアや国内各地に出張に出かけていたのが、ある日突然何もない状態に。すごく悩ましかったですね。自分の中にぽっかりと大きな穴が空いたような気分でした」
34歳でFIREしたドーゲンは、激務から解放されたものの虚無感を味わったという。
Sam Dogen
ドーゲンは34歳だった2012年、クレディ・スイス(Credit Suisse)のエグゼクティブ・ディレクター職と25万ドル(約3600万円)の基本給を捨てて退職した。長時間労働が求められる激務だった。彼はうんざりして、心身を消耗していた。
ドーゲンは、現金と株式報酬の繰り延べを伴う退職金パッケージを交渉すれば、時間の経過とともに退職金が積み上がり、早期退職できると直感した。退職時点でのドーゲンのポートフォリオは、不動産インデックス・ファンド、譲渡性預金、債券が組み入れられており、年間約8万ドル(約1200万円)のリターンを得ていた。
それでも収入の落ち込みはかなりのものだったと彼は言う。加えて、友人らはみな日中働いていたので、時間を過ごす相手もやるべきこともあまりなかった。それに、同期に後れをとっているような気がした。友人や同僚は給料をもらっていたので貯蓄や投資を続けることができたが、ドーゲンの時間は止まったままだった。
1年後に仕事に復帰したドーゲンは、複数のテック企業のコンサルティングを始めた。また、高校テニスのコーチも始めたほか、早期退職に関するアドバイスをブログで発信することにした。
ドーゲンは、早期退職を考えている人に対してはお試し期間を勧めている。もし会社がサバティカル休暇や長期休暇を許可してくれるなら、それを利用して自分の気持ちを確かめたほうがいいと彼は言う。
「来月はいくら入ってくるかわからない」
シャン・シャン・フーは、2020年のパンデミック最盛期に、もっと起業家的なキャリアを追求したいと思い立ち、年収10万ドル(1450万円)超えの技術職を手放した。このときのフーはマスク販売のEC会社を立ち上げたばかりで、それをどこまで伸ばせるか試してみたかったのだ。
フーの事業は、彼女のライフスタイルを維持して余りある利益をもたらしていたが、パンデミックが次第に収束し、マスク着用義務が緩和されるにつれて売上は下がり始めた。結局、彼女は女性向けウェアに軸足を移した。
今は自身の事業を手がけるシャン・シャン・フー。不安定な収入がストレスになっているという。
Courtesy of Shan Shan Fu
そこでフーは、自営業の難しさの一つを思い知った。収入の変動だ。
「私の収入の60〜70%くらいは第4四半期、つまり9月から12月にかけて入ってくるんです。ほとんどの収入が4カ月に入って、残りの8カ月は稼ぎがほぼゼロというのはすごくストレスです。思わず借金に手を出そうかと思ったほど」
フーは、自営業には困難を上回るだけの得難いメリットもいくつかあると言う。
「世界中のどこにでも住めるし、何かを報告する必要もない。出席しなくちゃいけない会議もありません」
予測できないキャッシュフローから来るストレスを和らげるため、フーはパートタイムで働くことも考えている。だが、フルタイム勤務は論外だと言う。
彼女にとって、ストレスは避けられないものだ。それは自営業だろうが雇われ仕事だろうが変わらない。
「ストレスは今も感じますが、以前感じていたストレスとは違います。上司はいないし、何かを報告する必要もない。でも、来月の収入がいくら入ってくるかはわかりません」(フー)