編集工学研究所
「つまり、『美しさ』とは無数にあるのです」
—橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』
あなたの推しは、誰ですか? 好きで好きでたまらないものは、なんですか?
私が初めて誰かに強く肩入れしたのは、作家の灰谷健次郎さんに惚れ込んだ時だった。小学生の頃、なぜか校長先生から灰谷作品を譲り受けて読み始め、『ワルのぽけっと』を読んだあたりで教師の言うことを聞かなくなり、クラス担任の先生を戸惑わせ、音楽の先生に呼び出された(なぜ音楽の先生だったのだろう? 大人は裏で結託したがる)。
『ワルのぽけっと』(灰谷健次郎著/角川書店/1998)と『砂場の少年』(灰谷健次郎著/角川書店/2000)。子ども時代の私の超推し本。友達に勧めて回っていたのは、今思えば「推しの布教活動」だったのだろうか。
撮影:編集工学研究所
その後に出会った『砂場の少年』という作品では、主人公の西文平くんという少年が秘密を共有した親友のように感じられて、そこからは半生を共に生きている(と勝手に思っている)。
「推し」がいると心が豊かになるというのは、アイドルファンに限ったことではない。お気に入りの箸置きでもいいし、近所の野良猫でもいいし、愛好するカフェでもいい。何かを好きになって、何かを贔屓することは、私たちの「自分らしさ」に深く結びついている。
推す心理と「好きの経済」
それにしても、なぜ今こんなにも「推し活」が注目されるのだろう。「推し」という言葉自体は、モーニング娘。が結成された頃から使われているという。それがAKB48の人気と共に広がり、この数年間で一気に定着した。『推し、燃ゆ』(宇佐美りん)の出版が2020年。同年に、『推しの子』(赤坂アカ〔原作〕、横槍メンゴ〔作画〕)の連載も開始。コロナ禍で誰もが孤独感に苛まれていたことと、明るい虚像を提供するアイドル産業が脚光を浴びたことは、無関係ではないだろう。
『推し、燃ゆ』(宇佐美りん著/河出書房新社/2020)と『推しの子』(赤坂アカ(原作)、横槍メンゴ(作画)/集英社/2020)。どちらもアイドルという偶像性と実在する個人という人間性の相剋から物語が始まる。
撮影:編集工学研究所
『推しエコノミー』の著者、中山淳雄は、コンテンツユーザーにとって趣味嗜好はもはや「消費財」ではなく「表現財」になっていると見る。消費者として受動的にコンテンツを視聴するのではなく、「何を見てる」「誰を推してる」「これが好き」をユーザー一人ひとりが発信し表現する。これがアイデンティティの確立につながっているというのだ。
「推し活は自分自身の嗜好性であるはずなのに、誰を推しているというアイデンティティの表明があるところから、とみに社会的活動である」
—中山淳雄『推しエコノミー』
背景には、誰もが発信者になれるSNSプラットフォームの存在がある。そこは、常に自己像の調整を迫られる、いわばアイデンティティ演出の戦場でもある(5月の「ほんのれん旬感本考」参照)。「推してる宣言」が手軽にでき、その「宣言」に秒速で共感や承認が集まるようになったからこそ、「推し活」が社会的な現象にまで育ったのだ。
かつてポストモダン思想家のジャン・ボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』で、個性演出と消費活動の関係性にメスを入れた。大量生産・大量消費が当たり前になった世界では、消費者が消費し続ける必要がある。人々が必要最低限のモノで満足してしまっては、資本主義システムは回らない。好きなものを欲しがり買い続けることを、構造的に肯定しなければならない。
そこで引っ張り出されたのが、「個性」という概念だった。人と違う私、自分らしい私。それをわかりやすく表明する方法が、ブランド品で身を固めたり、ピカピカの車を乗り回したり、高級料亭に通い詰めたりすることだった(あるいは、シモキタの古着で全身キメたり、年代物のスクーターを愛用したり、近所のパン屋を贔屓にしたりすることだった)。
現代社会では、消費が自己表現に結びつく。消費のトレンドはモノ消費からコト消費・ストーリー消費に移行しているけれど、基本の構造は変わっていない。好きなものを消費したり所有したりすることは、私たちの意志でもあり、同時に市場の意志でもある。
『推しエコノミー 「仮想一等地」が変えるエンタメの未来』(中山 淳雄 著/日経BP/2021)と『消費社会の神話と構造 新装版』(ジャン・ボードリヤール 著/紀伊國屋書店/2015)。消費とアイデンティティが結びつく構図は、今に引き継がれている。
撮影:編集工学研究所
「好き」の気持ちが欲か愛か、判別は難しい。恋と愛、「欲しい」と「あげたい」の境界を考える4冊。『欲望の名画』(中野 京子(著)/文藝春秋/2019)、『もっと!愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』(ダニエル・Z・リーバーマン(著), マイケル・E・ロング (著), 梅田智世 (訳)/インターシフト(合同出版)/2020)、『愛するということ』(エーリッヒ・フロム (著), 鈴木 晶 (訳)/紀伊國屋書店/2020)、『おおきな木』(シェル・シルヴァスタイン(著), 村上 春樹 (訳)/あすなろ書房/2010)
撮影:編集工学研究所
ウメコ
こんにちは、今月から「ほんのれん」編集部にジョインしました、ウメコです! よろしくお願いします!
ニレ編集長
いらっしゃーい!じゃ、まずは、好きな本を教えてくれへん?
オジマ
いきなり?
ヤマモト
(小声)『ぼくがジョブズに教えたこと』っていう本に書いてあったんです。面接では愛読書を聞けって。こないだ付箋を貼ってるのを、目撃しました。
オジマ
いま面接じゃなくて歓迎会なんだけど……。
ウメコ
最近の推し本は『肉とすっぽん』です。動物が食肉になる過程を追ってるんですが、鹿の狩猟シーンがエモくて。以来、ずっと鹿肉食べてます。
ニレ編集長
おおっ、センスがいい!!! 私もジビエめっちゃ好きやねん!!!!
ウメコ
嬉しい! 今度一緒に行きましょう。最近いい店見つけて……
オジマ
好きなものが共通してると、打ち解けるのも早いね。
ヤマモト
ほんと。こんなに「!」がついてるニレさん、Business Insider Japanでは初めて見ましたね……。
『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(横川良明著/サンマーク出版/2021)。著者にとっては、推しとは「予定」なのだという。スケジュール帳をカラフルに彩り、明日を楽しみにさせてくれる存在だ。
撮影:編集工学研究所
推し文化の根底を支えるのは、「好きの共感」によってつながりあう喜びだ。そう言うのは、自身も「若手俳優沼」にどっぷりだというライター、横川良明だ。
推しへの愛を他者と共有する喜びを、SNSが可能にした「シェアする/される」という行為が加速させる。自ずから、推しの素晴らしさを発信して人々に届けたいという「布教心」も生まれる。
消費者であるはずのファンが、今度は発信者となって次のファンを掘り起こしていく。ユーザー自身がコンテンツ提供者になるプラットフォーム型ビジネスと、まさに相性度100%だ。こうして推し活経済圏は日夜拡張を続けている。
「好きなものを語ること。(略)それは、悪意と嫉妬とマウントが充満する現代社会における最高のデトックス。ネガティブな感情に対抗する最も有効な手段が、好きの『共感』です」
—横川良明『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』
好きと数寄と枕草子
日本において「好きの共有」を誰よりも先に仕掛けたのは、清少納言だ。『枕草子』は教科書で読む古典というイメージが強いけれど、当時は超絶インフルエンサーのブログやインスタグラムのような大人気コンテンツだった。その人気には、かの紫式部も嫉妬したほどだ。
清少納言がしたことは、ひたすらに「好き」を語ることだった。大人気インフルエンサーぶりを再現するために、橋本治の『桃尻語訳 枕草子』から現代語訳を拝借すると、例えば有名な冒頭部分はこんな感じだ。
「春って曙よ!だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!」
「夏は夜よね。月の頃はモチロン!闇夜もねェ……。蛍が一杯飛びかってるの。あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりボーッと光ってくのも素敵。雨なんか降るのも素敵ね」
春の季節で、好きなこと。夏の季節で、好きなこと。かわいいと感じるものや、不愉快なこと。勝手気ままに自由奔放に、比べては選び、好きなものと嫌いなものを次から次へと選り分けていく。バサバサと歯切れの良い言葉遣いがなんとも痛快だ。今生きていれば、バラエティ番組のコメンテーターに引っ張りだこに違いない。
『桃尻語訳 枕草子 上』(橋本治著/河出書房新社/2010)と、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(橋本治著/筑摩書房/2002)。「美しい」の基準を他者に委ねず、自分の中に持つこと。それが本当の美しさを知る道になる。
撮影:編集工学研究所
これは数寄の趣向の先駆けでもあった。数寄とは何かに執着すること、何かに惚れ込むこと、何かに徹して遊ぶこと。物に執着すれば「物数寄」で、徹底的なスクリーニング(梳き)を重ねれば「侘数寄」になる。執着したり選び抜いたりするためには、「好み」がわからなくてはならない。そしてその好みは、自己満足ではつまらない。
例えば茶席に客人を招くとき、主人は客人と自分の「好み」が重なるところを何かの物品に託して暗示し、用意する。好みが意気投合したところに、粋がひらめき、趣向が成り立つ。
つまり、「好き」とは徹底して遊ぶべきものなのだ。何かを愛でることが文化や文脈になるくらい、マジで取り組むべきものなのだ。
「亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ」
—松岡正剛『日本数寄』
「好き」経済に潜む、時間と認知の争奪戦
さてここで、朗報が一つ。徹底的に「好き」に遊ぶためには、時間がいる。現代は、「脳の自由時間」が格別に増えた豊かな時代だ。機械化や自動化によって生産性が向上した結果、生命維持に必要な労働などにかかる時間は1800年の48%から11%ほどにまで減少したという(フランスでの統計、『認知アポカリプス』より)。
そして、悲報が一つ。人類の悲願のような「脳の自由時間」を山ほど手に入れた今、私たちはその貴重な財産の多くを、スマホのスクリーンを睨みつけることに費やしている。
ジェラルド・ブロネールは著書『認知アポカリプス』で、この現状を人間の認知の危機だと見る。スマホに時間を吸い取られることは、時間を失うのみならず、創造性や精神的自由の喪失にもつながるからだ。
私たちの脳は、視覚情報を大量に扱えるように発達してきたし、視覚情報を重視するようにも発達してきた。それが生存に欠かせない力だったからだ。しかし今、視覚刺激に強く反応する生物学的特徴が、認知を多く集めて利潤を得るテクノロジー社会の仕組みとミスマッチを起こしている。
重要でも必要でもない情報刺激に反応して、退屈や孤独を避けるようにコンテンツ消費で一日を埋める。つながり続けていないという不安を説明する、FOMO(Fear of Missing Out)という造語まで生まれた。
これはまだ物語の途中段階にすぎない。今後、人工知能が人間の知的活動の多くを代替できるようになれば、その分また私たちの「脳の自由時間」が増える。しかしそのとき、創造の源泉となるこの時間を、私たちは何に使うことができるだろうか。
人工知能の生産力、人間の評価力
人工知能と共生する未来を思い描くとき、知的創造の量と速度では人工知能が人間を圧倒することは明らかだ。例えば、「猫のヒゲを題材に詩を作る」というお題が出たら、ChatGPTは瞬時にいくらでも新しい詩を生むことができる。私はきっと1つ作るのにも数日はうんうん唸ってしまうだろう。
けれどもちろん、生成AIが何百・何千という詩を生み出せたとしても、玉石混交(ほとんどが石)の中から原石を見つけ出して磨き続けることができなければ、何年かかっても詩人の足元にも及ばない。そこに、人間とAIの協働可能性があり、私たちの未来の可能性がある。
際限なく情報が生み出される世の中で、良いものと良くないものを選り分け、取捨選択していく。心が動くものに「好き」を叫び、つまらないものは見極める。それはまさに、清少納言が『枕草子』で手本を示したことだ。徹底的に、数寄に遊ぶということだ。
同調的ななんとなくの「好き」で時間と認知を浪費させる市場に抗い、徹底的に「好き」を磨く。それはこれからの世界を生き抜くために重要なことでもあり、世界を楽しみ尽くすためのワクワクする秘訣でもある。
山本春奈:編集工学研究所 エディター。編集工学研究所は、松岡正剛が創始した「編集工学」を携えて幅広い編集に取り組むエディター集団。編集工学を駆使した企業コンサルティングや、本のある空間のプロデュース、イシス編集学校の運営、社会人向けのリベラルアーツ研修Hyper Editing Platform[AIDA]の主催など、様々に活動する。同社のエディターを勤め、問いと本の力で人と場をつなぐ「ほんのれん」のプロジェクトマネジャーおよび編集部員として奔走中。