デンマーク王立プレイハウスの建築でも知られる建築事務所「ルンゴー&トランベア」が手がけた、コペンハーゲン大学の学生寮。実際に学生が生活する場所だが、いくつもの建築の賞を受賞した作品でもある。
撮影:井上陽子
コロナ禍が一段落したこともあり、日本からデンマークを訪れる人が増えたように感じている。
私も日本からの視察に同行することがあるのだが、首都コペンハーゲンに初めて来た人たちにどんな印象を持ったか聞いてみると、よく言われるのが「落ち着いた街」「デザインの国だけあってセンスがいい」といったコメントだ。建物は美しくないとダメっていう決まりでもあるんですか、と聞かれたこともあった。
美的感覚は人それぞれなので、センスがいいといった感想が全員に当てはまるわけではないだろうが、たしかに、建物からインテリアに至るまで、デザインへのこだわりを感じることはよくある。特に、公共スペースがそうだ。
出産した公立病院で何気なく座った椅子が、デザイナー深澤直人氏のアームチェア「Hiroshima」(デンマーク価格で一脚約19万円)で驚いたこともあったし、中央官庁の取材で案内された待合スペースには、デンマークを代表するデザイナー、ハンス・ウェグナーの名作椅子がごろごろしていた。お金をかけていないのをアピールしているような日本の役所の質素さとはえらい違いだな、と思いながら座っていたものだ。
ウェグナーの名作「シェルチェア」がずらりと並んでいたのは、政府・雇用省が入る建物の待合スペース。
撮影:井上陽子
そう考えてみると、コペンハーゲンに来た人の街の印象というのは、公共スペースに向けられる意識の高さに関係しているのかもしれない。北欧社会の魅力とは、人間らしい生き方ができるところだと感じる、と連載初回に書いたのだが、それは、時間という要素のほかに、建築物や生活空間といった環境を大切にしていることも影響しているように思う。日々を過ごす空間が質の高いものであれば、自分が大切にされている、という感覚にもつながると思うのだ。
自転車の回以来、しばらくデザインについて書いているが、その締めくくりとして、今月と来月の2回に分けて建築と街をテーマに書いてみたい。私の素朴な疑問に答えてくれたのは、「デンマーク建築センター」CEOのケント・マティヌセン氏と、デンマークの多くの建築家が学んできた「王立芸術アカデミー」のヤコブ・ブランベア・クヌセン建築学部長、そして、マティヌセン氏が“現代デンマーク都市設計の父”と呼ぶ87歳の建築家、ヤン・ゲール氏である。
福祉の一環としての美しい建物
マティヌセン氏がCEOを務める「デンマーク建築センター」は、デンマークの建築やデザインの歴史を概観できる常設展示を備えているほか、建築を巡るツアーなども行っている。コペンハーゲンは2023年、ユネスコの「世界建築都市」に選ばれているのだが、関連イベントを取り仕切っているのもこのセンターだ。
デンマーク建築センターが入る複合施設「BLOX」は、建築やサステナブルな都市開発に携わる企業、デザイナーのハブとしても機能している。前回の記事で取り上げた「デンマーク・デザイン・センター(DDC)」もテナントの一つ。建物正面は子どもの遊び場になっている。
撮影:井上陽子
建物は美しくないとダメっていう決まりでもあるんですか、という疑問を、マティヌセン氏にそのまま聞いてみたところ、まず指摘されたのが、1754年創立の「デンマーク王立芸術アカデミー」が及ぼしてきた影響である。
デンマークは国が小さく、50年ほど前に別の学校ができるまでは、建築家はみなこの学校で学んできたそうだ。シドニーのオペラハウスを手がけたデンマーク人建築家ヨーン・ウツソンや、デンマークデザインの黄金期を作った巨匠アルネ・ヤコブセン、フィン・ユールらもここの卒業生。そして、この学校が創立以来、現在に至るまで教えているのが、「建築はart form(芸術形式)である」という考え方だ。
そう聞いてさっそく、王立芸術アカデミーに取材をお願いしてみると、建築学部長を務めるクヌセン氏がこんなふうに説明してくれた。同校では建築を「学術・実践・芸術」という3本柱で立つものと捉えており、入学初日に「建築とは芸術的な教育であるため、正しい答えはない」と伝えるそうだ。芸術に力点を置く教育方針は、他の学校とは一線を画しているところがある、という。
「建築とは、技術だけを追求したり、最も安い解決法を模索するものでもなく、すべて美的価値を持つ必要がある、という考え方です。これは建築家だけでなく、デンマークの社会全般に認識されていると思います」(クヌセン氏)
未来の建築家たちが学ぶ王立芸術アカデミーのキャンパスで話をしてくれたクヌセン氏。世界から願書が届く名門大学で、デンマークでは医学部に入るより難しいのだそうだ。
撮影:井上陽子
建物は芸術でなければならない、という考え方は、デンマークが絶対王政から立憲君主制に移行した後も、そして第二次世界大戦後に福祉国家という形をとり始めた時でも、変わらず続いてきた。
マティヌセン氏は、こう説明する。
「福祉国家が到来した時、建築家は『建築は芸術形式である』という考えで、社会インフラを物理的に作っていきました。低所得者層向けの住宅や学校、公園などにも、質の高さを求めたのはそのためです」
富裕層が大金をかけた建物だけでなく、あらゆる層の人が使う建築物が、福祉の一環として美しくデザインされ、質の高いものである必要がある、というわけだ。
受刑者や刑務所で働く人の心身の健康に配慮してデザインされた刑務所「Storstrøm Prison」(2017年)。250人収容の刑務所で、セキュリティレベルは最高だが、デンマークの建物らしくふんだんに光を取り入れた設計だ。
撮影:Torben Eskerod
公共建築物のクオリティ維持に一役買う「財団」
公共の建物にも高いクオリティを求めた建物の例として、マティヌセン氏が挙げたのが、2006年に完成したコペンハーゲン大学の学生寮「Tietgenkollegiet」である(冒頭の写真も参照)。
360室を備える学生寮。ドーナツ状の建物の中庭には、学生がくつろげる広々とした空間が広がる。カラフルな洗濯機が並ぶランドリームをはじめ、キッチンやリビングといった共用スペースも充実。ピアノ室やジムもあるという。
撮影:Jens Lindhe
とはいえ、こうしたクオリティの高い建物を作りたいと思っても、十分な資金がなくては実現は難しいというもの。その鍵となるのが、デンマークの「財団」の存在である。
実は、連載第2回にデンマーク社会の成り立ちを語ってもらった歴史家のボー・リデゴー氏をはじめとして、これまでインタビューした何人もの人が指摘したことなのだが、デンマーク経済の特徴の一つは、(海運大手)マースク、(ビール会社)カールスバーグ、(製薬大手)ノボ・ノルディスクといった代表的な企業が、「財団」によって運営されているという点である。
デンマークの財団の仕組みについては、また改めて書きたいと思っているが、これによって短期的な利益を出すことにとらわれず、より長期的な視点に立った企業経営ができるという特徴がある。
企業の利益を受けて潤沢な財源を持つ財団は、公共性の高いプロジェクトに積極的に投資しており、数多の建築プロジェクトもその恩恵を受けてきたのである。
マティヌセン氏はこう語る。
「公共建築に注がれるお金は、税金だけではない。デンマークの大企業の利益の一部が、財団を通じて、美しい公共建築、公共スペースとして社会に還元される仕組みがある。コペンハーゲン大の学生寮のような並外れた作品は、財団からの資金が上乗せされるおかげで実現できています」
デンマーク建築センターCEOのマティヌセン氏。デンマークの建築物の背景にある思想について、歴史をひもときながら語ってもらった。
撮影:井上陽子
もちろん、デンマークのすべての大学寮がこんなに素晴らしいデザインの建物ではないし、それは刑務所もしかり。ただ、公共性の高い建築プロジェクトに、有力な建築事務所が参加し、質の高い建物ができるという傾向には特筆すべきものがある。
また、街並みの統一感ということで言うと、建築規制の厳しさとともに、無機質な高層ビル群に代表されるような近代化を嫌う世論の影響が大きかったようだ。
これは次回、“人間の感覚に合った街のスケール”という考え方を広げた建築家ヤン・ゲール氏の影響として書こうと思っていることなのだが、コペンハーゲンと、東京やニューヨークとの違いの一つが、市中心部の建物の低さであるように思う。一等地に大企業が高層ビルを次々と建てるようなことがなく、デンマークで大企業とされる会社は、本社を郊外に構えていることが多い。
製薬最大手「ノボ・ノルディスク」の本社は、コペンハーゲン中心部から電車で40分ほどの距離にある。肥満治療薬のヒットで、同社の時価総額はフランスの高級ブランド「LVMH」を抜いて欧州トップとなり、デンマーク全体のGDPを上回る規模に。
撮影:井上陽子
コペンハーゲンの中心部に近ければ近いほど、高さだけでなく色などの外見の統一感にまつわる建築規制は厳しく、「いまや、中心部に高層ビルを建設するのは不可能な状況」(クヌセン氏)だそうだ。
市中心部に建てられた高層ビルとしては、1960年にオープンした高さ70メートルのSASロイヤルホテル(現ラディソンコレクションロイヤルホテル)を最後に、世論や政治家に建設計画が覆されてきたとのこと。ちなみにこのホテルは、アルネ・ヤコブセンが建物だけでなく椅子や時計、ドアハンドルといった細部まですべてを手がけた世界初のデザインホテルだそうだ。
戦後の経済成長によって、デンマークにも車社会が到来し、1950年代後半からは市中心部に高速道路を建設する計画も浮上した。だが、それによって古い街並みが失われることに市民が猛反発し、結局、計画は頓挫。「コペンハーゲンと同じような歴史をたどった(隣国スウェーデンの首都)ストックホルムでは、経済成長がデンマークよりもやや早かったこともあり、60年代に古い街並みを急速に変えていった。彼らは今、それをやや後悔しているところもある」とクヌセン氏は話す。
「いい環境にはリターンがある」という考え方
デンマークの建築規制のユニークさは外観に限らない。私が2人に話を聞いていて面白いと思ったのは、採光についての規制である。
職場には十分な採光を確保する必要があり、窓の面積が床面積の少なくとも10%、天窓の場合は少なくとも7%、といった具体的なガイドラインも、労働監督局から示されている。地下室のように日光が当たらない部屋で仕事をさせることができないので、部屋に太陽光が届かない、大型の真四角なオフィスビルを作れないのだそうだ。日本では、窓がない部屋でも平気で働いてきた気がするけれど……。
そう言われて気づいたが、確かにデンマークの建物では、天窓のある吹き抜けなどによって、採光が意識的に組み入れられている。日光が健康にとっていかに重要で、いい仕事にもつながるかについては「科学的に証明されている」と、今回インタビューした2人は口を揃える。
北欧では冬になると日照時間が減り、冬季うつ病になるリスクもあるため、治療として光を浴びる装置があったり(友人宅で見たことがある)、ビタミンDを積極的に摂るように医者に言われたりもする。日光をかなり真面目に捉えているのである。
職場環境について言えば、デンマークの職場には、電動で高さが上下するタイプの机がかなり普及している。人間工学に基づいた設計で、長時間にわたって同じ姿勢になることがないよう、社員の健康に配慮したものだそうだ。
コペンハーゲン中心部にあるSaaS企業「Queue-it」のオフィススペース。約150人がここで働くが、最大でも窓から3席分しか机が離れておらず、採光を十分に確保している。デスクは電動で高さが調整できるため、立って仕事をする人の姿も。ソファ席や個室もあり、仕事がはかどりやすい場所を選んでいる。
撮影:井上陽子
人々が日々を過ごす空間が質の高いものであれば、自分が大切にされているという感覚にもつながる、とはじめに書いたが、これは“いい環境にはリターンがある”という、合理的な考え方にも基づいたものらしい。
「特に欧州では、建築と仕事の効率性について多くを学んできました。光が入り、換気がよく、湿度も快適で、食堂で出される食事もヘルシーで、同僚と話をするいい雰囲気がある。そういういい職場環境があってこそ人々は効率的に働き、病欠も減るのだと。建築デザインは人々の健康や良質な生活に、つまり人々の幸せに密接に関係するのです」(マティヌセン氏)
デンマークで取材していてよく聞く「資源は人しかない」という考え方を、マティヌセン氏も繰り返す。先に例として挙げた大学の学生寮も、大学生という国の将来を担う人材への投資として、よく眠り、よく学び、いい生活を送れる良質な環境を整えるべき、という考え方があったそうだ。
「学生だから、若いからといって、粗末な生活を送る必要はない。人こそ、その知性こそ、我々の数少ない資源だった。だからデンマークは、大学生が学ぶのに国が月々のお金を払う、世界でもまれな国の一つです」(マティヌセン氏)
人間を大事にするのは、人間しか資源がないから。人間を使い捨てにできないから。今回はそれを、建築という観点からも垣間見るいい機会だったように思う。
井上陽子(いのうえ・ようこ):北欧デンマーク在住のジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー。筑波大学国際関係学類卒、ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。読売新聞で国土交通省、環境省などを担当したのち、ワシントン支局特派員。2015年、妊娠を機に首都コペンハーゲンに移住し、現在、デンマーク人の夫と長女、長男の4人暮らし。メディアへの執筆のほか、テレビ出演やイベントでの講演、デンマーク企業のサポートなども行っている。Twitterは @yokoinoue2019 。noteでも発信している(@yokodk)。