かつての消極姿勢から一転、経産省はカーボン・クレジット市場をCO2排出削減と経済成長の両立につながる重要施策として推進している。
撮影:湯田陽子
10月11日に取引開始した東京証券取引所の「カーボン・クレジット市場」。
東証は20日、売買が成立したカーボンクレジット(※)の量(売買高)が、市場開設から20日までの8営業日で累計1万トンを超えたと発表した。
※カーボンクレジット:企業や団体のCO2排出削減量をクレジット(排出権)にしたもの。
2022年9月22日から2023年1月31日に行われた実証事業の試行取引では、計14万8933トンが売買された。1日あたり約1752トンになる。
10月11〜20日の累計売買高。8営業日で合計1万44トンの売買が成立した。
出所:東京証券取引所
今回公表した売買高は1日あたり1255トンと実証事業のときと比べれば少ないが、実証時は初めの3カ月間で計約1万トンだった。
実証事業では「企業などの年間CO2排出量が確定する12月末や3月末といった期末に向けて増えてくる傾向にあった」(東証)ことからも、いまの段階で低調と判断するのは早計だろう。
取引市場に否定的だった経産省の「転向」
東証「カーボン・クレジット市場」の開設セレモニーで打鐘する西村康稔経済産業相。
撮影:湯田陽子
「経済産業省は長らく、排出量取引市場に非常に慎重な姿勢をとってきました。そうしたなかで、今回の市場開設を迎えたことは非常に感慨深い」
10月11日、西村康稔経済産業大臣は市場開設セレモニーの挨拶でそう語った。
経産省トップの大臣が自ら、過去の“後ろ向き”姿勢に言及したのは異例で、詰めかけた記者の間に少なからずどよめきが広がった。
なぜ経産省は後ろ向きだったのか。同省産業技術環境局の若林伸佳・環境経済室長はこう解説する。
「過去にも、排出量取引に関する制度を導入する機運が高まったことはありました。
でも、往々にして、環境省が導入を推し進め、経産省はどちらかと言うと排出量取引のような管理(規制)された形で制度を導入することに否定的な立場を取ってきました」(若林室長)
理由は、経済界が猛反発していたからだ。環境省 vs. 経産省(経済界)の構図は1997年、日本が議長国を務め、先進国が「京都議定書」という形で、温室効果ガス排出削減目標を初めて約束した歴史的な会議「気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)」のときも、その後も変わらなかった。
「炭素生産性」で世界15位から32位に転落
変わったきっかけは、2020年10月に当時の菅義偉首相が所信表明演説で打ち出した「2050年カーボンニュートラル宣言」だ。
もっと言えば、翌2021年4月の気候変動サミットで、菅元首相が2030年度の温室効果ガス削減目標について、従来の目標を70%以上上回る「2013年度比46%削減を目指す」と宣言。これは、経産省と経済界にとって予想外の衝撃だった。
「46%削減という非常に高い目標を掲げられたなかで、我々経産省も従来の消極姿勢を転換せざるを得なかったというのが現実です」(若林室長)
リオ・サミットから31年。長年消極姿勢を続けてきたツケは、最近注目の指標「炭素生産性」の数値にも現れている。
炭素生産性は、CO2排出量1キログラムあたりの実質国内総生産(GDP)を数値化したものだ。値が大きいほど低炭素型の経済活動が進んでいることになる。
OECDによると、1990年、省エネ先進国だった日本の炭素生産性は世界で15位だった。ところが、その後右肩下がりに後退し、2021年にはなんとOECD38カ国中、32位にまで落ち込んでいる。
日本は気候変動対策という点でも「失われた30年」を経験していたというわけだ。
市場開設打ち出した経産省の「GXリーグ構想」
ともあれ、積極姿勢にかじを切った経産省は2022年2月、「GX(グリーン・トランスフォーメーション)リーグ基本構想」を打ち出した。
狙いは、世界的な脱炭素トレンドの波に乗って日本企業の産業競争力を高めることだ。その取り組みの1つとして経産省が提起したのが、カーボン・クレジット市場の創設だった。
「排出削減と経済成長を両立させていく上で、このカーボン・クレジット市場を有効に使っていく。(諸外国より)遅く参加したがゆえに世界のさまざまな制度を参考にしながら、世界最先端のものをつくりたい」(西村経産相)
西村経産相は冒頭のセレモニーでそう意気込みを語った。
だが、排出削減と経済成長の両立のためになぜカーボンクレジット市場を選んだのか。
東証カーボン・クレジット市場整備室課長の川久保佐記氏。
撮影:湯田陽子
その前段となる市場開設の背景について、東証カーボン・クレジット市場整備室の川久保佐記課長はこう話す。
「2023年2月にGX実現に向けた基本方針が閣議決定されました。その具体的な取り組みの1つとして掲げられたのが『カーボンプライシング』です」(川久保課長)
カーボンプライシングとは、CO2排出量1トンに値段をつけることを指す。
温室効果ガスの排出をコストと位置づけ、1トンあたりの金額(炭素価格)を“見える化”。その価格をもとに、排出量の少ない原料や製造方法、商品などを選択するように誘導する手法として、世界各国で導入されている。
例えば、CO2排出量に応じた額(炭素価格)の支払いを企業に義務づければ、企業は支払う額をできるだけ減らすためにCO2排出量の削減努力、例えば削減効果の高い設備への切り替えや技術開発を進める。
経済的なインセンティブを加えることで、国際競争力を高めながら排出削減を促そうというわけだ。
“誘導力”に乏しい日本の炭素税
カーボンプライシングの手法はいくつかある。例えば、炭素税という税金で決める方法や、東証のカーボン・クレジット市場のようにマーケットの取引価格として出す方法だ。
炭素税について、実は日本は2012年に「地球温暖化対策のための税」という名で導入している。
だが、CO2排出量1トンあたり289円と、海外、特にEUに比べるとごくわずか。脱炭素を加速させるインセンティブにはなり得ないと言われている。また税率は、消費税などでも明らかなように変更することは非常に難しい。
一方、カーボンクレジット市場の場合、取引所での売買を通じて流通量も価格も公開されるため、「炭素の削減価値」の値段がオープンになる。しかも、排出削減した分のクレジットを販売すれば収益になり、新たな脱炭素投資に振り向けることも可能だ。
東証カーボン・クレジット市場整備室長の松尾琢己氏。
撮影:湯田陽子
その効果について、東証カーボン・クレジット市場整備室の松尾琢己室長はこう話す。
「取引市場の場合、これまで主流だった相対取引と違って、炭素がいくらで取引されているのかが誰にでも分かる。つまり、削減コストの目安が分かるわけです。
例えば、炭素価格が1トン1000円だとコスト割れだけど、1トン3000円程度で売れるなら頑張って削減して売ろうといった企業側の動機づけになる。また、売買の相手を見つけやすい(取引が成立しやすい)というメリットもあります」(松尾室長)
削減コストの目安が分かれば脱炭素投資の計画が立てやすくなり、企業のGX投資が加速する。また、取引相手が見つけやすければ、相対取引より社会全体で効率的に排出削減できる可能性も大きくなる。
「その結果、トータルで(日本全体の)削減コストを下げることにつながります」(松尾室長)
2026年度以降「義務化」も視野に
経産省はこの市場開設を機に、「先に排出削減に取り組んだ企業ほど負担が少なくなり、取り組まない企業は負担が大きくなる『成長志向型のカーボンプライシング制度』」(西村経産相)へと発展させていくことを目指す。
取り組まない企業の負担が重くなるとはどういうことか。
「GX基本方針では、カーボン・クレジット市場の売買価格や国際的な炭素価格などを参考に、排出量取引制度が本格稼働する2026年度以降に価格帯(上限と下限の価格)を設定し、予見性を高めるために5年程度の価格上昇の見通しを定めるとしています」(川久保課長)
これは、「2026年度以降、5年程度のスパンで炭素価格を徐々に引き上げていく」というメッセージを政府が出すことで、早期の脱炭素投資を促そうというものだ。
「つまり、脱炭素投資への取り組みが遅ければ遅いほど、1トン削減するコストが高くなるという仕組みが導入される見通しです」(川久保課長)
炭素価格をどう引き上げていくのか、具体的な手法は今後検討していく予定だ。
GX基本方針によれば、2023〜2025年度の第1フェーズにおける排出量取引はあくまで「試行」という位置づけ。この間、GXリーグに参画した日本企業(日本のCO2排出量の4割以上を占める)を中心に市場取引を活発化させ、2026年度に本格稼働させる考えだ。
本格稼働の焦点の一つは、義務化されるか否か。
GX基本方針のロードマップには、2026〜2030年度の第2フェーズのポイントとして「規律強化(指導監督・遵守義務等)」が盛り込まれている。
「現在はカーボン・クレジット市場への参加は義務ではなく自主参加ですし、目標設定も企業の自主性に委ねられています。それが、義務ということになると様相がかなり変わってくると思います」(松尾室長)
市場参加者、開設後も徐々に増加
東証のカーボン・クレジット市場で売買できるのはまだ、日本国内で実施する削減プロジェクトから生まれたJ-クレジットだけだが、経産省としては対象を拡大したい考えだ。
「J-クレジットを皮切りとして、今後さまざまな排出権も取引されることで、カーボン・クレジット市場が企業のGX投資推進のための重要なインフラとして大きく発展していくことを期待しています」(西村経産相)
具体的には、途上国などで実施した排出削減プロジェクトを日本の削減目標達成に活用できる二国間クレジット(JCM)、GXリーグ参画企業間で削減目標を超えて削減した企業の削減量を削減未達だった企業が購入できる「超過削減枠」、さらに現在民間のマーケットプレイスで取引されている海外のボランタリークレジットも、検討のそ上に載っている。
東証によると、市場参加者は開設当日の188者(企業・団体)から約20者増え、10月18日現在で206者となった。
市場開設から約2週間。東証のカーボン・クレジット市場整備室は順調な滑り出しだと見ている。
「市場を無事開設することができ、初日は3689トン、以降も毎営業日に売買が成立し、1日平均約1255トン、累計1万トン超と順調な出だしとなりました。今後も、市場参加者や関係者のみなさまと連携しつつ、政府の排出量取引の進展に合わせて、カーボン・クレジット市場を盛り上げていきたいと思います」(カーボン・クレジット市場整備室)