編集工学研究所
「本を読むとは、むろんどんな本を読むかということに左右はされるけれど、本来はつねに社会変革の風を孕むものだ」
ー松岡正剛
私が就活生だったころ(ざっと10年前くらい)、履歴書の「趣味」欄に読書と書くのは厳禁と教えられた。趣味としてあまりにありふれていて、無個性に見えるというのが理由だった。もちろん、そんなアドバイスは無視した。好きな本を語らずに自分について語るなんて、不可能だもの。
今は、どうなのだろう。いずれ趣味欄に「配信」とか「動画編集」とか書くのは普通すぎるからやめなさい、と言われる時が来るだろうか。逆に「読書が趣味」なんて古風で珍しいね、と言われるようになるのだろうか(もしかして、もうそうなってる?)。
有史以来、本は情報の乗り物であり続けた。歴史の転換点にはいつだって本があったし(『歴史を変えた100冊の本』スコット・クリスチャンソン、コリン・ソルター (著), 藤村奈緒美 (訳)/エクスナレッジ)、本は果てしない想像力が詰まった宝箱でもある(『あるかしら書店』ヨシタケシンスケ (著)/ポプラ社)。
撮影:編集工学研究所
読書は抵抗の行為である
米ロサンゼルス・タイムス紙の記者であるデヴィッド・L・ユーリンは、著書『それでも、読書をやめない理由』で、読書を「抵抗行為」と呼ぶ。
「結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ」
ーデヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』
著者自身が、「最近めっきり本が読めなくなった」ことへの危機感から読書を取り戻そうとする奮闘プロセスを記録した『それでも、読書をやめない理由』(デヴィッド・L. ユーリン (著), 井上里 (訳)/柏書房)。デジタル時代に本を読む意味を再考する。
撮影:編集工学研究所
ヤマモト
この説、どうですか? いわく、読書は抵抗である。
オジマ
ますます履歴書の趣味欄には書きづらい(笑)。
ニレ編集長
カッコええけどな。でも、抵抗って、何に?
ヤマモト
スマホ時代の常時接続・情報氾濫・孤独喪失社会への抵抗っていうとこですかね。
オジマ
読書って時間をかけて没頭するし、本は手間暇かけて作られた情報だから、読むと呼吸が整うっていうのはホントかも。
ウメコ
一筋縄ではいかない本とか役立つとは限らない本に向き合っていると、複雑なことや分からないことに耐える「ネガティブ・ケイパビリティ」も養われますよね。SNSでは育たない力。
ヤマモト
とはいえ、時代は変わるものだから。頭ごなしにテクノロジーを否定して懐古趣味っぽくなる読書論も、物足りないです。
ニレ編集長
せやな。当たり前って、いくらでも刷新されうるもんな。ほら、ソクラテスも、文字を使うことに反対だったやろ。「文字なんて使ってちゃ、記憶力がなくなってバカになる!」って。
ソクラテスが心配したこと
そうなのである。無知の知を説いた賢人中の賢人ソクラテスは、若者が文字を使うことに断固反対していたらしい(当時は口承文化が主流だった)。
理由は、いくつかあった。まず、書かれた文章は、内容が真実でなくとも真実と誤解されやすい。そして文字への依存は、個人の記憶力を破壊する。自分の中に知識が溜まらず、外部に過剰な情報がある状態をソクラテスは想定したのだ。そうなれば、深い思索は失われて、表面的な理解しかできなくなる。
認知神経科学者のメアリアン・ウルフは、この警句が、デジタル情報社会への移行で「読む力」を手放しつつある私たちにも当てはまると見る。検索機能に依存し、情報過多に溺れて、フェイクニュースに騙され、自立した思考力が低下する。賢人の言葉が、耳に痛い。
「ソクラテスは、私たちが言語の多様な能力を吟味せず、“持てる知力を尽くして”使いこなそうとしていないことに対して戦いを挑んだのだ」
ーメアリアン・ウルフ『プルーストとイカ』(小松淳子 (訳)/インターシフト)
ユーリンもウルフも、読書は忍耐と辛抱を要求するからこそ重要だと考える。ゆっくりじっくり情報と向き合うから、スマホのスクロールや動画の流し見では取りこぼしてしまうような気づきや連想が生まれる。そこに自分の思考が立ち上がり、想像力と共感力が育まれる。
実際、ウルフは著書『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』で、物語を没頭して読む時に、脳内でミラーニューロンが反応することを明らかにした。ミラーニューロンとは、目の前で誰かがアイスクリームを食べるのを見ると、自分自身がアイスを食べる時と同じ脳内領域が活性する作用を言う。誰かの経験が脳内で変換されて、自分自身の体験になる。読書が経験を豊かにするとは、メタファーではなく、脳内で実際に起こっていることなのだ。
文字を読むことと脳の関係性を科学的に探った『プルーストとイカ』(メアリアン・ウルフ(著), 小松淳子 (訳)/インターシフト)と、その知見からデジタル時代の読書を考える『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』(メアリアン・ウルフ(著), 大田直子 (訳)/インターシフト(合同出版))。
撮影:編集工学研究所
もっとカジュアルに読書する
そうは言っても、本を読むには忍耐力が必要すぎて、どうにもこうにも。ついついスマホに手が伸びる。そんな悩みに、読書の哲人たちなら、どう答えてくれるだろうか。
「まず言っておきたいことは、『読書はたいへんな行為だ』とか『崇高な営みだ』などと思いすぎないことです。それよりも、まずは日々の生活でやっていることのように、カジュアルなものだと捉えたほうがいい」
ー松岡正剛『多読術』
日々、服を着たり脱いだり組み合わせたりするように、本をまとって暮らしてみる。もし読むことに時間がかかりすぎるなら、雑誌を読む時の「パッパッと読む」感覚を本にも当てはめてみるといい。内容が理解できなくっても、どんどん読む。「読書」をそんなふうに捉えると、本との付き合いも肩肘張らずにできそうだ。
もっとカジュアルに本との関係性を結ぶには、どんな読書の方法があるだろう。以下では「積む」「ノート化する」「みんなで読む」という3つの具体的なヒントをご紹介したい。先人たちが試行錯誤して編み出した方法を真似て盗むのが、上達への一番の道。ぜひ、気になる方法からお試しあれ。
TIP1:積んでおくことから、読書を始める
カジュアルな本との付き合いの第一歩としてオススメなのが、「まずは積んでおく」こと。積読上等、の姿勢である。『積読こそが完全な読書術である』の著者、永田希は、完全な読書など不可能と潔く諦めることを勧める。
本を読むことだけに固執せず、いっそ、本を積むことで、情報と付き合おうというわけだ。もちろん、無秩序に積み上げるのでは意味がない。本と本の関係性や、テーマにおける本の位置付けを考えて積む。溢れ返った情報を、文脈の中に配置していく行為だ。
書物が希少品だった時代、人々は知識を想像上の建造物の中に配置して、記憶にとどめようとした。その方法を、もっと手軽にやってしまおうということでもある。本の積み方に、どこに何があるかという「空間感覚」と、テーマやトピックでざっくりと分類する「かたまり感覚」を導入すれば、我が家の食器棚の中身を思い出すように、世の中のありとあらゆる知を引き出しやすくなる。
「本棚は『情報群の棚』であって『表象の棚』であり、『コンテンツ群の棚』であって『メッセージの棚』なのだ。(中略)本棚はさまざまな主語と述語をもった世界再生装置なのである」
ー松岡正剛『松丸本舗主義』
『積読こそが完全な読書術である』(永田希 (著)/イースト・プレス)は、本のビオトープを作るつもりで積読することを勧める(左)。それを松岡正剛は、「文脈棚」と読んでいる。松岡の「文脈棚」をそのまま書店にしてしまう実験が、かつて丸の内のど真ん中で行われた。(『松丸本舗主義』(松岡正剛 (著)/青幻舎))
撮影:編集工学研究所
TIP2:本をノートにする
作家や翻訳家、そして山本貴光自身のマルジナリアも写真入りで微に入り細に入り紹介する『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(山本貴光 (著)/本の雑誌社)。本に何を書き込めばいいか迷ったら、ぜひ手に取りたい一冊。
撮影:編集工学研究所
読みながら書き込みをするのも、本との付き合いを動的にするコツだ。著者の言葉を受動的に飲み込むのではなく、本と対話するように読む。その痕跡を、本に直接書き込んでしまう。
文筆家の山本貴光は、『マルジナリアでつかまえて』で先人たちのマルジナリア(余白への書き込み)を読み解く。中でも「書き込み狂」だったのが、夏目漱石だ。本を読んで感じた疑問、賛否、思考をイキイキと記す。ニーチェが「孤独は総じて罪である」と言えば「孤独は罪ではなく罰だ」と言い返したり、モーパッサンの作品を読んでは「モーパッサンは馬鹿に違いない」とバッサリ斬ったり。読者はこんなにも自由に著者と対話していいのかと驚かされる。
読書の醍醐味は、著者の言葉にキックされて自分の連想や発想が広がることだ。その動きを本に記録しておくと、再読のスピードも一気に上がる。いろんな人の書き込み術を真似ながら、自分独自の書き込みルールを作ってみたい。
松岡正剛による「マーキング」のコツ動画。本に書き込むマークや記号のルールを自分で作るのもおすすめ。
セイゴオちゃんねる
TIP3:みんなで読む
読書の筋力を一気に上げたい方におすすめなのが、「みんなで読む」方法だ。一人で黙って集中するだけが読書ではない。編集工学研究所では、みんなで読むことを「共読(きょうどく)」と呼んで重視している。特にわれわれ編集部が携わっている「ほんのれん」は、本を読みながら対話することで問いや気づきが高速に花開く効果を狙っている。
しかし読書会に参加するためにまず読まなければいけないとなると、そこでまたハードルが上がる。読んだ後の読書会だけじゃなく、読む前の読書会を開いてしまう方法はないのだろうか。
『『罪と罰』を読まない』は、「読まずに読書会をする」実験の一部始終を記録した一冊だ。作家の吉田篤弘、三浦しをん、装丁家の吉田浩美、翻訳者の岸本佐知子という面々がドストエフスキーの『罪と罰』を読まずに集まり、限定して選んだページだけを元に「あーでもないこーでもない」と、物語の展開を予想し合う。勝手な想像を膨らませるから、「この辺で重大事件が起こるはず」「あの意味深なセリフは、伏線なのでは?」と盛り上がる。
閉じられた本の中身の仮説を立てて先読みすることは、人の発想力を解放するらしい。そうして語り合った本は、いざ読み始めると夢中になる。頭の中に、たくさんの「?」が浮かんでいる状態で読むから、情報が入ってきやすくなるのだ。
なんとも挑発的で刺激的なタイトルの『『罪と罰』を読まない』(岸本 佐知子 (著), 三浦 しをん (著), 吉田 篤弘 (著), 吉田 浩美 (著)/文藝春秋)。「読んでない(けど、気になる)」宣言をして仲間を募ることも、読書のうちかもしれない。さらに応用編の「みんなで読む」方法は、『江戸の読書会』(前田勉 (著)/平凡社)から学べる。江戸時代には一緒に読むことが読書であり、読書が学問することそのものだった。
撮影:編集工学研究所
本のある風景
「目の前の現実と闘っても何も変えることはできない。何かを変えたければ、今あるモデルが時代遅れになるような、新しいモデルをつくるべきだ」
ーリチャード・バックミンスター・フラー
書店で出会って、思わずジャケ買いをした 『ON READING』(Andre Kertesz (写真)/W W Norton & Co Inc)。読書という行為の原体験を思い出させてくれる、静かで賑やかな写真集だ。
撮影:編集工学研究所
いま、私の手元に『ON READING』という写真集がある。20世紀に活躍したハンガリー出身の写真家アンドレ・ケルテスが、街中で読書する人々を切り撮ったものだ。屋上で日向ぼっこしながら没頭する男性、病室で静かにページをめくる女性、人形と並んで本を開く少女、肩を寄せ合って一冊を覗き込む3人の少年。
どこもかしこもスマホゾンビだらけになった今の街に、もしケルテスがやってきたら、カメラのシャッターを切るだろうか。意外と面白がるかもしれないけれど、ふと、寂しく思いもするだろう。「本を読んでいた人たちは、どこへ消えてしまったの?」と。
メアリアン・ウルフの著書『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』は、原題は“READER, COME HOME(読者よ、戻っておいで)”だ。絶え間ないデジタル情報で目が眩む現代だけれど、読書という小さな抵抗の灯火は、いつまでも揺れ続けていてほしい。推敲された文章の行間にしか宿らないものが、間違いなくあるのだから。
山本春奈:編集工学研究所 エディター。編集工学研究所は、松岡正剛が創始した「編集工学」を携えて幅広い編集に取り組むエディター集団。編集工学を駆使した企業コンサルティングや、本のある空間のプロデュース、イシス編集学校の運営、社会人向けのリベラルアーツ研修Hyper Editing Platform[AIDA]の主催など、様々に活動する。同社のエディターを勤め、問いと本の力で人と場をつなぐ「ほんのれん」のプロジェクトマネジャーおよび編集部員として奔走中。