政府が「転職促進による賃上げ」を狙う一方で、転職をしたくても「会社をやめられない」という事態も増えている。
撮影:今村拓馬
政府が経済政策として注目している要素の一つが“転職”だ。
岸田首相は2023年10月23日の所信表明演説で「三位一体の労働市場改革、企業の新陳代謝促進、物流革新など、生産性を引き上げる構造的な改革を進めます」と述べた。三位一体の労働市場改革とは、リスキリングを支援し、企業にジョブ型賃金の導入を促し、学んだスキルと企業が求めるスキルをマッチングさせることで転職を促進し、賃金を上げる仕組み作りを意味する。
しかし、実は現状ではまったく逆の現象が発生している。転職したくても、会社側が「辞めさせない」という事態が多発しているのだ。
会社が転職をブロックすることは許されるのか? また、そうした事態に陥ったとき、どう会社と戦うべきなのか?
「退職相談」が過去最多
「自己都合退職」の相談はわずかに増えている。
出典:厚生労働省『令和4年度個別労働紛争解決制度の施行状況』より
厚生労働省が公表した都道府県の労働局の「民事上の個別労働紛争相談」(2022年度)によると、最も多い相談はパワハラなどの「いじめ・嫌がらせ」相談の6万9932件だった。
そして2番目に多いのが、辞めたいと言っても辞めさせてくれないといった「自己都合退職」の相談。件数は前年比5.4%増の4万2694件(相談件数の13.5%)にも上り、4年ぶりに過去最高を更新した。「解雇」についての相談よりも、「自己都合退職」の相談が多いのも驚きだろう。
日本経済新聞(10月9日付)は、「自己都合退職の相談」が過去最高を更新した件について、「新型コロナウイルスの影響が弱まり、企業の人手不足が進んだ影響とみられる」と分析している。
とは言え、人手不足の会社が辞めたい社員を引き留めようとしても「嫌なら辞めればいいじゃないか」と思う人もいるだろう。ただ、実状はそう簡単ではない。
丸め込み、脅迫の事例も
「退職させない手口」には様々なパターンがある。
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厚労省が公表している労働局長の助言・指導事例には、例えばアルバイトに関して次のようなものがある。
申出人・短時間労働者(学生アルバイト)は、事業主に退職の意思を伝えたものの、人手不足を理由に慰留された。そこで、労働局に相談の上、退職日を2週間後と定めた退職届を提出したが、事業主から「次のアルバイトが決まるまでは勤務して欲しい」と言われ、退職届の受け取りを拒否された。
これを受けて労働局は事業主に対し「申出人の希望する日を契約終了日とすることで紛争の解決を図るよう助言」し、結果、無事に退職できたという。
退職できない人たちの取材を進めてわかったのは、辞められないのは単純に労働者が法律に無知なせいだけではない。
辞めたいという社員に対し、上司や経営者が詐術、脅迫、暴言・暴力、洗脳など、ありとあらゆる悪質な手段を駆使して強引に辞めさせないようにしているからである。
辞めさせない手口を分けると、主には以下のようなものがある。
- 説得を繰り返すなど洗脳的行為
- 転職を妨害する(悪口の言いふらし・退職引き延ばし・懲戒解雇)
- 脅迫まがいの言葉を繰り返し言う(身代わりの要求・損害賠償の請求)
これらの手口に加え、暴言・暴力を振るって怖がらせたり、自宅まで押しかけるなどのストーカー的行為など悪質なものもあった。
「辞めることはチャンスを逃すこと」と洗脳
脅迫や洗脳で「退職させない」例もある。
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例えば1番目の“洗脳”ケースでは、サービス業の男性からこんな相談もあった。
毎日10時間以上の激務。辞めたいと相談したら、「裏切り行為だ、お前はお客に迷惑をかけるのか」と言ったかと思うと、「そのうち辞めさせてやるからもう少しいてくれ。それまでは仲良くやろう」丸め込んでくる。
あるいは「辞めることは成長のチャンスを逃すことだ」「一緒に乗り越えていこう」と集団で繰り返し言われ続けた人もいる。
2番目の転職を“妨害”する手口としてはこんなケースもあった。
パワハラと低賃金のため転職を決意。転職先から内定通知も出た。就業規則に基づき、1カ月後の退職の意思を伝えたが、社長は「急ぎすぎる、退職届は受け取れない。無理やり退職した場合は、懲戒解雇もある」と脅された。
辞められないと思っている人の直接の原因として、今でも多いのが「代わりを連れてこい」や「損害賠償するぞ」という脅迫である。
ハローワークの紹介で入社したという男性のこんなケースもある。
始業時間2時間前に早朝出勤し「自己啓発しろ」と命じられている。「自己啓発」は残業代が付かないとのこと。納得できないので退職を決意したが、会社は「後任者が見つかるまで退職は認められない」と言い「辞めたいなら、代わりを連れてこい」と言われている。
損害賠償を要求し辞めさせない事例では、「退職したい」と申し出たら「辞めるなら、赤字分に対して損害賠償請求を起こす」と言われたケースもあった。
とくに営業職の社員が辞める場合、過去に売掛金を回収できなかったことを挙げて、その金額を支払うのであれば辞めてもいいと脅す手口も少なくない。
あるいは仕事上の些細なミスを与えたことにつけこんで会社の損失分を支払え、と脅す場合もある。
「辞める自由がある」働き手は知識武装も必要
撮影:今村拓馬
辞めさせない会社に共通するのは、基本的に人手不足状態にあり、低賃金、残業代未払い、長時間労働など劣悪な労働環境に加えて、暴言・暴力などのパワハラ行為が横行している点だ。
使えない社員をいじめや嫌がらせによって自主退職に追い込んでいくのがブラック企業の手口とされているが、「辞めさせない会社」も利用価値のない人は退職に追い込むが、利用価値のある人は潰れるまでとことん働かせるという意味では、同じブラック企業といえる。
「辞めさせないブラック企業」から抜け出すには、何よりも「辞める自由」があることについて法律の最低限の知識で武装することだ。
辞める権利の根拠となっているのが「民法627条1項」だ。「当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から2週間を経過することによって終了する」と定められている。
雇用の期間の定めがない社員とは、一般的には正社員を指す。経営者に直接「退職します」と言うか、「退職届」を経営者に送りつければ、相手の反応に関係なく辞められる。
また、アルバイトや契約社員など有期契約労働者の場合は、たとえばあらかじめ明示された労働条件と実際の労働条件が違う場合はいつでも退職できる。
労働基準法第15条2項には「明示された労働条件が事実と相違する場合においては、労働者は、即時に労働契約を解除することができる」とある。
全国の労働局に相談窓口も
また、契約期間の途中であっても「やむをえない事由」がある場合は辞めることができる(民法628条)。
家族の介護をしなければならなくなったとか、夫の転勤で転居しなければならない、といった理由などである。さらに1年以上の労働契約を結んでいる場合、実際の労働期間が1年を超えていれば、いつでも退職できるという規定もある(労働基準法第137条)。
もちろん、実際は前述したように会社側はあらゆる手口を使って辞めさせないようにしてくる場合もある。
その場合は第三者に相談することだ。「自己都合退職」の相談窓口である都道府県労働局に「総合労働相談コーナー」に相談し、労働局長による助言・指導を受けることもできる。
取材を通じて、辞められない人に共通する性格として、自己責任意識が強く、素直で誠実、がまん強い人が多かったように感じた。もちろん人間としては真面目ですばらしい人に違いないが、会社や経営者にとっては従順で逆らわない人間と受け止められ、無理難題を押しつけられるケースも多い。
会社を辞めたいと思ったら、仕事はあくまでも生活の対価を得るための手段と割り切り、勇気を出して行動に踏み出すべきだ。今や国を上げて、転職を促進する時代なのだから。