東京・上野にある、国立科学博物館。この夏、1億円を目指したクラウドファンディングが大きな話題となった。
撮影:三ツ村崇志
この8月、「地球の宝を守れ」を合言葉に国立科学博物館が実施したクラウドファンディングを覚えているだろうか。
資金難を理由に1億円を目標にスタートしたプロジェクトは大きな話題となり、初日に目標金額の1億円を突破。プロジェクト最終日の11月5日を間近に控えた今、累計5万人を超える人々から8億円を上回る資金が集まっている。
これで国立科学博物館の危機は“ひとまず”去った——。しかし、8億円という大金も、年間の運営費が数十億円規模であることを考えると「恒常的に資金が不足している」現状を打破するには十分とはいえない。
Business Insider Japanでは、国立科学博物館の篠田謙一館長にクラウドファンディングを経た現状と、これから先考えなければならない日本の課題を単独取材。前・後編に渡ってお届けする。
「お金を使うこと」が挑戦に
国立科学博物館の篠田謙一館長。専門は人類学。2021年に館長に就任した。
撮影:猪野航大
—— 8月にスタートしたクラウドファンディングは7億5000万円(取材段階、11月2日夜段階で8億4000万円)を超えました。これをどう受け止めていますか。
まずはなんといっても驚きと感謝です。「科博史上最大の挑戦」と銘打って、途中でいろいろなイベントをやりながらなんとか(当初目標としていた)1億円を目指そうとしていたのですが、多くのご支援をいただいたことで、いまでは「お金をどう使うか」が挑戦になっています。
—— 当初は新設する収蔵庫の建設費などに充てる資金を集める目的でした。予想以上に集まったことでできることは増えるはずです。今はどういうことを考えているのでしょうか?
今後やらなければならないことは3つあると考えています。
一つは、返礼品を準備する作業です。1億円分の返礼品と8億円分では規模が違いますので、まずはそこをきっちり作っていこうと話をしています。
国立科学博物館のクラウドファンディングのプロジェクトページ。期限となる11月5日午後11時を間近に控えた11月2日の段階で、約8億4000万円もの資金が集まっている。
画像:クラウドファンディングサイトの画面をキャプチャ
—— 返礼品の豪華さもクラファンが注目された要因の一つでしたね。
特に科博オリジナル図鑑(3万人以上から申し込み)が人気なんです。図鑑は私(篠田館長)が制作のトップになって進めています。短時間での作成になるのでトップダウンで実施することにしました。ほかにも、収蔵庫見学のプログラム作りなど、各リターンに誰が対応するのか役割を決めています。
研究者を含めた全職員が参加しなければならない規模になって、事務負担は大きくなっています。資金が集まった事自体はもちろん歓迎すべきことなのですが、この作業量を見て大変さに改めて驚きました。
—— この規模のクラウドファンディングを何度もやるのは厳しそうですね。
同じようなクラウドファンディングはもう2度とできないと思っています。館の安定的な運営を考えれば、今回支援をしてくださった方たちに、継続的に科博を支援していただけるサポーターになっていただくことも必要だと考えています。
加えて、更なる活動のための使途についても、関係部署にアイデアを募っている段階です。
科博の研究者は地方のさまざまな博物館と共同研究をしています。地方の博物館が何に困っているのかを、各自の関係している部分についてはある程度把握しています。それを洗い出しているところです。
—— 具体的にどういう活動に使われていくことになるのでしょうか?
まだアイデアの段階ですので必ずしも実現できるとは限りませんが、例えばアマチュアの方が集めた標本を寄贈していただく際に、1番大変なのは「輸送」にかかわる経費の問題です。
送料を負担して送ってくださることもありますが、亡くなった方の所有物をご遺族から「博物館に寄贈します」と相談されることもあります。昆虫標本などは簡単に運べないので、梱包などをしっかりしなければなりません。そういう場合に、輸送費を支援できるような取り組みもできればと思っています。
また、私の専門分野である人類学では工事に伴う調査発掘で人骨が発掘されることが多いのですが、この場合は基本的には施工主が調査費用を負担します。しかし標本の整理にかかわる人件費などは当然必要です。
標本のデータベースを充実させて、どこの博物館からでも利用できるようなシステムを構築していくことも重要だと思っています。できれば標本の3Dデータなども利用できるようにしたいですね。
国立科学博物館に展示されている、フタバスズキリュウの標本。
撮影:三ツ村崇志
—— 今まで、そういった「管理作業」はできていなかったのでしょうか?
データベースの構築はある程度進んでいますが、より多機能で便利なものにしたいと思っています。これまで科博にある標本が多すぎて※、新しいことをやろうと思っても手が回っていませんでした。
※編集部注:国立科学博物館が保有している標本は全体で500万点を超える。
ですので、私自身としては(クラファンで集めた資金の一部は)標本を整理する人材を雇う資金にしたいと思っています。今はそこにどの程度かけられるかを詰めているところです。それから恐竜学の真鍋さん(副館長の真鍋真博士)からは、貴重な標本のレプリカを作って複数の博物館に保管しておきたい、と提案を受けています。「博物館が災害でやられても、標本のリスク分散ができる」と。
最近は水害なども多いので、災害時にレスキューに行く資金にしておくことも必要でしょう。
「二つの価値」が可視化された
—— 今回のクラファンは「科博の価値」を伝えることで、継続的な支援につなげる意図もあったと聞いています。そもそも科博の価値とはなんでしょうか?
私個人は、国立科学博物館として二つの重要な機能があると考えています。
一つは科学と技術の一般向けの教育機関としての役割。もう一つは、研究機関としての役割です。研究機関としての最大のミッションは、研究すること以上に「物を集め、先へ(未来)伝えていく」ということ。それが科博の一番の眼目(重要なこと)なんだろうと考えています。
だから、「地球の宝」という言い方をさせていただきました。
—— 個人的には共感するのですが、広く伝えるには少し抽象的すぎるようにも感じます。
そういう意見ももちろんありました。ですが結果を見ていただければ、多くの方が科博のこの活動を支えたいと考えてくださっていることは明らかです。この結果には大変勇気づけられました。
一方で、支援いただいている方のコメントを見ると、意見は大きく二つに分かれているとも感じます。
一つは、教育の場としての科学博物館の価値に共感し、魅力的な展示をどんどんやって欲しいという「科博ファン」の方々。もう一つは、自然科学と産業技術の1番のベースとなる研究をやるために頑張ってくださいという方々です。
もちろん両方の価値を感じておられる方も多いとは思います。そういう意味でも、科博への両面の期待に応えなければと思っています。
館長室にある篠田館長の机の裏には、さまざまな標本が並んでいた。篠田館長は「この中に人類学のものはないんですよね」と笑っていたが、この多様さが科学博物館の価値の一つの側面なのだと感じた。
撮影:三ツ村崇志
—— この二つの価値をもう少し具体的にイメージできないでしょうか。例えば、先生の専門である人類学の観点でみると、基礎研究の価値、博物館での展示の価値はどういったものなのでしょうか。
私は(古代人の)DNA分析をしているのですが、これは「標本」がなければできない仕事です。
ただ、昔の研究者はDNA分析なんかできると思ってなかったわけです。標本を収集し、保管しておいてくれたことで、新しい分析方法で研究を進めることができた。私たちも将来のために同じようにしなければならないと思っています。当然ですが、今後も新たな分析技術は進みますから、私たちも将来のために同じようにしなければならないと思っています。
その基盤となるのが標本で、研究者はそこから新たな知見を得て、展示という形で一般に還元しています。どれが欠けても自然史・科学技術史の博物館は成立しません。
それを伝えていくこと。それが人類学者としての私の仕事です。
科学というとどうしても「物理」や「化学」の話に寄ってしまいますが、人類が自然と結びついた結果が今の社会であるということを伝えるには、人類学の視点が重要だと思っています。
日本に世界トップの博物館は必要か?
大英自然史博物館に収蔵している標本数は8000万点を越えるという。
Mark Fletcher/MI News/NurPhoto
—— 科博の価値は理解できるのですが、一方で経済的にも成長が停滞している日本に適したサイズ感の運営を探っていくことも大事ではないでしょうか。世界トップクラスの博物館を目指す必要はあるのでしょうか?
大英自然史博物館の研究者は約300人いるのですが、我々は62人。 ほぼ5分の1です。持っている標本の数も16分の1程度です。現状は比較できるレベルですらありません。高見を目指さない科学というのは考えにくいですが、いきなりそこまでの組織にできるかと言えば、それは困難でしょう。せめて今の「倍」の規模にはしたいと思っています。
※編集部注:科博の標本数は約500万点。大英自然史博物館の標本数は約8000万点。
日本は、イギリスなどと比べると非常に生物多様性の豊富な地域なんです。加えて、産業技術に関しても明治以来150年の厚みがあります。それを残しておくという意味で、日本は非常に重要な地域です。
我々としては日本だけではなく、東アジア全体の自然史や産業史を見ていきたいと思っています。ただ、その規模でやろうとすると、現状では(リソースが)不足している。
撮影:猪野航大
—— 中国をはじめ、東アジアの他の国と役割を分担することはできないのでしょうか?
当然、自国の自然史・産業技術史に関しては、それぞれの国でやるべきでしょう。しかし、研究者もおらず、研究予算も貧弱な国では同じレベルでは研究できません。そういう国に関しては、誰かが援助することが必要でしょう。しかし、政府の経済援助などを見ても、それを国を超えた形で協働で取り組むことは難しいのではないでしょうか。
このままの状況が続けば、やがて(日本は)中国や韓国などアジアの国にも標本収集数で劣るようになるかも知れません。しかし、歴史的な経緯もありますが、これらの国にはキチンとした形で利用できる過去に収集された標本がほとんどありません。アジアで百数十年間という研究の歴史的な厚みがあるのは日本だけなのです。
また、いま経済的に成長している国々は、まだ自然史研究などの話題にまで手が回っていません。かつての日本がそうだったようにです。だからこそ、私たち(日本)が研究者育成も含めて積極的に支援をしていかないと、彼らが成熟した国家になった時に昔のことが分からなくなってしまいかねません。
—— ある種、先進国の責任なのかもしれませんね。ただ、国からの交付金を比較すると、科博は約28億円(2023年度予算)で大英博物館は約120億円(約6600万ポンド、2022-2023年)でした。この違いはどこにあるのでしょうか。
イギリスの人口は日本の半分ほどで経済規模も日本の方が大きい。それでも科博の約6倍の研究者を抱え、大英自然史博物館のような大規模な博物館を維持している。国家が何に重きをおき、何を目指しているのかという意志の違いだと思います。
大英自然史博物館には、かつて帝国だった時代の蓄積が大きく、イギリスのものはほとんどありません。ただそれでも国として「この標本は保管すべきだ」というコンセンサスを持って保管し続けているのでしょう。
※後編はこちら。