撮影:今村拓馬
ジャーリストの池上彰さんは、10月2日に『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)を刊行した。
アメリカ、中国、インド、ロシアなど大国の歴史を解説するとともに「地政学」の重要性を説いた一冊だ。
イスラエルとハマスの争い、ロシアのウクライナ侵攻など、激動の世界情勢をビジネスパーソンがどのように理解すべきか、池上さんに聞いた。
20~30代は地政学と近現代史の知識が抜け落ちている
—— なぜ地政学をビジネスパーソンが学ぶべきなのか教えてください。
第2次世界大戦後、地政学は危険な学問だという反省から世界でとりわけ日本では地政学を教えなくなりました。なぜ危険かというと、地政学がナチスの侵略の理論として使われていたからです。
地政学は「地理」に形を変えて学校教育で教えられてきました。政治的要素を排し、地形がどうであるとか、天候がどうであるとか、自然地理ばかりを教えるようになったのです。結果的に地理は暗記科目になってしまって不人気な科目になってしまいました。
でも、やっぱり世界というのは、どこに国があるかによって政治も変わってくる訳です。
撮影:今村拓馬
例えば、ロシアは、帝政ロシアの時代から不凍港、冬でも凍らない港が欲しいとか、少しでも南に行きたいとか、政治的な思いがある。それを単なる自然地理だけではなく、それぞれの国がおかれている地理的な立場によって理解するということは大事なことです。これはビジネスパーソンにも必要な知識だと思います。
最近にわかに地政学が脚光を浴びるようになってきているでしょう。 書店に行くと地政学に関する本がいっぱい並んでいます。子ども向けの本まで出ています。
つまり今、やっぱり国際情勢を理解するには、それぞれの国の置かれている地理的な位置を政治的な要素を込みで知ることが必要だということが再認識されたということだと思います。
—— となると、学校教育の地理をもう1回地政学に戻す動きみたいなものが必要なんでしょうか?
いい質問ですね(笑)。それで、必修科目の「地理総合」と「歴史総合」ができたんです。高校で2022年から実施されています。
それまで地理は必修科目ではありませんでした。高校では世界史が必修で、あとは日本史か地理を選択するという形でしたでしょう? しかし今の時代、海外の人と付き合うときに、自国の歴史を知らないというのは致命的なんですね。真の国際人は自国の歴史を知っていないといけない。
海外の人に日本には世界史と日本史があるんだと言うと驚かれるんです。国際的な感覚からすれば、歴史は歴史で1つなんです。だから日本史と世界史の近現代史を統合した歴史総合ができました。縄文時代や弥生時代あるいはギリシャ・ローマ文明などを学びたい人には「日本史探究」と「世界史探求」という選択科目が設置されています。
ですから、今の高校生は地政学の要素や近現代史をみんな学んでいるんですけど、今の20~30代のビジネスパーソンはそうした知識が抜け落ちている人も多いのではないでしょうか。
—— おっしゃる通りだと思います。私は35歳ですが、世界史も日本史も、現代史は学校で学びませんでした。地政学という言葉は学生時代に聞いたこともなかったです。
だからこそ今学びなおす必要があるということです。だいたい世界史も日本史も第2次世界大戦突入くらいで、「あとは教科書を読んでおきなさい」で終わったでしょう。
でも、今世界で起きていることを理解するには、近現代史の知識が必須なんです。今起きている中東問題だって、第1次世界大戦の時にイギリスがオスマン帝国を倒すためにアラブ人、フランス、ユダヤ人に3枚舌外交を行ったという歴史を知っているかいないかで見方が違ってきます。
遠くの国の戦争がなぜ私たちの生活に影響するのか
ガソリン価格は値上がりを続け、都内ではレギュラーの1リットルあたりの平均価格が180円を超えている。
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—— 私たちの生活にも地政学は関わりがあるのでしょうか?
2022年にロシアがウクライナに軍事侵攻したことによって、ガソリン価格がものすごく跳ね上がったでしょう。ガソリンだけでなく重油の値段も上がるから、火力発電所を使っている日本は電気料金も値上がりしました。
天然ガスもそうです。ロシアが大量に輸出していた天然ガスをみんなで買うのをやめようということになったので、カタールやブルネイ、インドネシアから買い始めた結果、ガス料金も上がりました。
さらに、ガソリンや重油、あるいはディーゼルの軽油の値段が上がれば、流通経費が上がる訳ですから、コンビニエンスストアやスーパーの商品の値段も上がります。遠いウクライナで起きたことが、私たちの生活に影響して、結果的に今さまざまなものが値上がりしている訳です。
また、中東情勢が不安定になると、周辺に産油国がいっぱいありますから、それだけで石油の値段が上がります。実際、ハマスがイスラエルにロケット弾を打ち込んだニュースがあった途端、石油価格が6パーセント値上がりしました。
ガザ地区はものすごい閉塞感があった
ガザ地区南部、イスラエルの攻撃の影響で損傷した建物の前を歩くパレスチナ人の若者たち(2023年10月31日撮影)。
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—— イスラエルとハマスの争いも我々の生活に影響しているということですね。日々凄惨な光景が報じられていますが、収束の目処はあるでしょうか?
数カ月では終わらないでしょう。イスラエルはハマスを殲滅すると言っていますが、ハマスの戦闘員は2万~2万5000人いると言われています。イスラエルは万単位の死者を出すぞと言っているのです。
—— ガザ地区をイスラエルのものにするということでしょうか?
まさにそこがポイントです。今、イラスエル政府はガザ地区の住民に南へ逃げろと言っているでしょう。するとエジプトとガザ地区との間に検問所がある訳です。エジプトはガザにいる外国人はエジプトに入れるけど、住民は通さない。同じアラブ世界なんだから、エジプトがガザの住民を受け入れてあげればいいじゃないと思うでしょう。
でも、それがイスラエルの右派勢力の狙いなんです。ガザ地区を全部イスラエルのものにしたい、ガザ地区の住民はエジプトに追い出せばいいと思っている。エジプトには砂漠がいくらでもあるから、そこにパレスチナの連中を送ればいいじゃないかと過去に発言したイスラエルの政治家もいるんですよ。
エジプトとしては、イスラエルの思うままになるのは嫌だし、エジプトのシナイ半島に新たにパレスチナの国を作ればいいみたいな話は認められないということです。住民の中にハマスが紛れて入ってくる可能性も懸念しています。
—— 現状、パレスチナはヨルダン川西岸とガザ地区とで、東西からイスラエルを挟むような形になっていますが、もしガザがイスラエルの領土になれば、いよいよイスラエルの完全な支配が現実味を帯びてきます。
撮影:今村拓馬
その通りです。既にヨルダン川西岸の中にユダヤ原理主義者が入植地を作っています。イスラエルの入植地は130以上におよび、既にヨルダン川西岸の60%はイスラエルが支配していると言われています。
ユダヤ原理主義者は「ここは全て神様からユダヤ人に与えられた約束の地だと聖書に書いてある」と言って、勝手にヨルダン川西岸に入り込んで家を建てます。そうすると、イスラエルのネタニヤフ政権は「イスラエルの国民が危険に晒されている、守らなければいけない」という理屈でそこに軍隊を配置します。そうしてヨルダン川西岸はどんどん浸食されているのです。
—— 池上さんはガザ地区に実際に行ったことがあるそうですが、どんな様子でしたか?
私がガザに入ったのは10年前ですが、インフラ整備が全然進んでいなかったです。し尿処理場が壊れても修理するための資材がない。イスラエル側は資材をガザに入れると、それが武器に使われるおそれがあると言って、そもそも物資がガザ地区に入らないようにしていました。
また、印象的だったのはものすごい閉塞感です。種子島くらいの面積に220万人が暮らしている訳ですから。
ハマスの攻撃は許されないことです。しかし、ハマスの存在をガザの人たちが認めてきた理由や背景も私たちは知るべきだと思います。
なぜ「絶対にない」はずのウクライナ侵攻が起きた?
ウクライナ・ドネツク州の鉄道接続点で砲撃を受けて炎上するタンク車を見守る住民たち(2023年10月31日撮影)。
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—— ロシアのウクライナ侵攻のお話も聞かせていただければと思います。本の中で多くの専門家が「ロシアがウクライナに侵攻することは絶対にない」と言っていたと書かれています。
しかし、現実には2022年2月24日にロシア軍がウクライナの首都キーウなどへのミサイル攻撃を開始し、今に至るまで戦闘は続いています。なぜ、このような事態になったのでしょうか?
第三者的に物事を合理的に考えたら、今の時代に国際法を犯して独立国に軍隊を送るなんてことは正気の沙汰ではない、ありえないと、多くの専門家が思っていた訳です。
また、ロシアはこれまでも過去に何度か、ウクライナとの国境沿いにロシア軍を大量に配備して圧力をかけることをやってきたんですね。だけど、侵略はしてなかった。だから今回もどうせいつもと同じだろうとみんな思っていた。
しかし、アメリカが偵察衛星で見ていて、いやいや今回は本当に侵略するつもりだと言って大騒ぎになったのです。
撮影:今村拓馬
—— そこでバイデン大統領が「ウクライナに米軍を派遣しない」と明言した影響は大きかったのではないでしょうか?
あれはとんでもない失言です。私も驚きました。バイデン大統領は昔から失言魔として有名ですが、これは酷かった。これでロシアは安心してウクライナを攻撃できましたから。
外交では、こういう時に使う定形の言葉があるんですよ。「我々のテーブルの上にはあらゆるオプションがある」。つまり軍事力行使の可能性があるということですね。こう言っておけばよかった。それを我々は手出ししないと最初から言っちゃった訳ですから、ロシアは喜んだでしょうね。
—— ロシア側はこの侵攻をどういう理屈で正当化しているのでしょうか?
これは私の友人で、元外務省主任分析官の佐藤優さんの説明ですが、彼によればロシアは国際法を濫用する国だと言うんですよ。
まずウクライナ東部のドネツクとルガンスクの2つの州がウクライナから独立を宣言する。そして、ロシアがこれらを国家として承認する。国家として一定の領土があり、国民がいて、周りから国家として承認されれば、 それは国際法では立派な国家になると。
そして、「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」とロシアは安全保障条約を結んだ。ロシアは2つの国を守る義務を負った。これは日米安保条約と同じ構造だと。それから、2つの国がロシアと一緒になりたいと言ってきたから、それを認めたよ、というのがロシアの理屈です。
我々から見ると、一方的な侵略に見えますが、向こうは向こうで理屈をつけてきているということです。ロシアを批判するにしてもどのような行動原理で動いているのかということを理解しておかないといけません。
73歳の池上さんがやりたいこと
撮影:今村拓馬
—— 池上さんは今年で73歳になると伺いました。NHKからの独立後、一貫してハイペースに著書を刊行し、テレビにも出演して、ものすごい仕事量ですが、自分の人生の残り時間を意識したり、成し遂げたいことはありますか?
現代世界に生きる人たちにニュースを理解してもらいたいという思いが強いです。私はずっとニュースの仕事をしてきましたが、表面的なニュースではなく、背後に何があったのかまで理解してもらいたい。
例えば、ハマスがイスラエルを攻撃したから、ハマスをやっつけようとなりますが、その背後には何があったのか。あそこは元々パレスチナの人たちが平和に暮らしていたところに後からイスラエルという国ができてしまった訳です。
また、ユダヤ人たちがイスラエルを建国しようと思って集まるようになったきっかけは、イギリスが無責任な約束をしていたからという背景がある。
歴史的な流れと経緯を知った上で今のニュースを見ると、物事を重層的に複眼的に見ることができるんじゃないか。とにかく表層的にニュースを理解してもらうのは嫌だなという思いがあります。
だからこそ、その背景をテレビ番組や本で、あるいは大学の講義で伝えていきたい。こういう思いが原動力ですね。