撮影:サンニチ印刷
分厚い葉肉は、噛みしめるとシャクっと歯ごたえを感じる。えぐみがなく、甘い。
井上農場のほうれん草は、野菜そのものの素材の味を楽しめると評判で、都内の有名オーガニックスーパーやレストランなどで引く手あまたになっている。
井上農場のほうれん草
生産者は、株式会社ファーマンの代表 井上能孝(よしたか)(43)だ。井上が身につけるのは、農場のロゴ入りのキャップに、ストライプの太めのパンツ。「農業」といわれて思い浮かべるイメージよりも、スタイリッシュだ。
八ヶ岳農業界のホープ
八ヶ岳を望む井上農場
井上が経営する「ファーマン 井上農場」は山梨県北杜(ほくと)市に位置している。農場から少し先に視線をやると、雄大な八ヶ岳のシルエットが目に飛び込んでくる。晴れた日にこの土地で農作業をするのは、さぞかし気持ちが良いだろう。
農場の面積は東京ドーム3.5個分以上。農薬や化学肥料を使用せず、廃棄物を出さずに資源を循環させる「サーキュラーエコノミー」を取り入れた有機農法を実践している。
玉ねぎやニンニクなどの根菜類をメインに、約20品目の野菜を栽培。2010年には、化学物質に頼らずに、自然の力で農作物を育成したことを証明する「有機JAS認証」を取得した。
観光客向けの農業体験では、井上が説明を行う
井上は農産物の生産販売を行うだけにとどまらず、観光客の農業体験を手掛けるほか、日本の大手ディベロッパーのプロジェクトに参画するなど活躍の場を広げている。
一般社団法人 八ヶ岳ツーリズムマネジメントの常勤相談役兼CMO 小林昭治は、井上をこう評する。
「彼は地元のホープの一人です。農業をベースとして、八ヶ岳エリアのさまざまな業界のハブになっている」
確かに地元のレストランや、林業を営む企業、どこに行っても井上の話題が上がる。
近隣のレストランでは井上農場の野菜を使ったメニューが提供されている
日本の農業従事者は高齢化が進んでおり、現在の就農者の平均年齢は68.4歳。井上は43歳と若くして八ヶ岳エリアの農業を背負うキーパーソンとなった。
マウントフッドと八ヶ岳
埼玉県に住んでいた井上が、農業を志して北杜市に移住したのは、2001年 21歳の頃。懐にはアルバイトで貯めた200万円、農業を志した友人と共にスタートラインに立った。
もともとは縁もゆかりもないこの地に腰を据えるきっかけを与えたのは、雄大な八ヶ岳の山並みだった。
「就農先を検討している際、18歳の時に農場見学会でこの地を訪れたことをふと思い出したんです。高校時代、アメリカ留学時に見たオレゴン州のマウントフッドと、八ヶ岳の山並みが重なって見えたんですよね」
マウントフッドと、その麓のぶどう農園(写真はイメージです)
Kimberly Shavender / shutterstock
きっかけは些細なことだったが、よくよく調べていくと、清らかな水と寒冷な気候が農産物の育成に適していることを知る。さらに、移住の検討時に地元の行政がよく話を聞いてくれたことも後押しした。
移住後に住み始めたのは、家賃が月5000円の家。床が抜けており、修繕費用は100万円ほどかかった。思わぬ出費に驚きながらも、余った資金で農機具や苗などを購入し、農業を開始。
最初の作付面積は、現在の約300分の1ほど。就農直後の1年の年収はわずか50万円と農業だけで食べていくことは難しく、焼肉屋、ビニールハウス設置などさまざまなアルバイトをして生活費を得た。
見渡す限りの畑...ダイナミックなアメリカの農業
作業を行う倉庫にはスケボーが置かれている
高校時代はスケボーに熱中していたという井上。いわゆる「今どきの高校生」と、現在仕事にしている「農業」の間には距離があるように感じる。
彼はなぜ、畑にいざなわれたのか。
その理由の一つになったのは、海外出張が多かった父の勧めで高校2年生の夏休みに経験した、1カ月弱のアメリカ留学だった。ただ、当時は遊びたい盛りで、留学には全く乗り気ではなかったという。
向かったのは、周囲を森林や川に囲まれ、自然豊かなオレゴン州ポートランドだった。現在、「全米で最もサステナブルな街」として注目を集めている注目の地だ。
ポートランドの街並み(写真はイメージです)
Sean Pavone / shutterstock
現地では、大規模な農場を所有する家庭にホームステイをした。モトクロスバイクでないと散策しきれないような広大な農地に、小さな飛行機を使って撒かれる農薬。放牧されたたくさんの牛たち。はるか先にある山を指さして、「あそこまでは俺の畑だよ」と話す農夫。大自然の中でダイナミックに行われるアメリカの大規模農業に井上は圧倒された。
ある日井上は、現地に長く住む人々のBBQに招待される。振る舞われたタコスを食べていると、ホストファミリーの父が語りだした。
「この地にある農地はどんどん都会の富裕層に買われて、別荘地にされている。美しい自然の景観が崩れるのは許せない」
時代は1990年代、都会に住む人々による地方の開発前夜だった。高2の井上は、美しい景観を守りながら、自然とともに在る暮らしがあることを知った。
「働きたくない」父からのアンサー
元電気通信大学教授の哲学者・中島義道による本書は、井上の人生に大きな影響を与えた
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日本に帰国すると、井上を待っていたのは進路調査。友人のほとんどは、自衛隊への入隊や、土木や建築関係への就職を希望していた。
白紙の進路調査票を見つめ、「働きたくない」と繰り返し呟いていたら、父親が『働くことがイヤな人のための本(中島義道著)』を手渡してきた。
厳格な父は、井上が幼い頃からどんなにねだってもゲーム機を買ってくれなかった。代わりに、哲学書や冒険家のノンフィクションの書籍を差し出してきた。
その中の1冊『働くことがイヤな人のための本』には、井上の要約によると「人生は壮大な暇つぶし。そのなかで仕事をしなければならないならば、働いているという感覚がないくらい好きなことや熱中できることに従事したほうがいいだろう」ということが書かれていたという。
父の思いを受け取った井上は、働いている感覚がないほど熱中できそうなものを考え始める。美しい大自然の中で汗を流すアメリカの農夫の姿がふと脳裏に浮かんだ。農業だったら、夢中になれるかもしれない。
進路調査票の空欄は「北海道かアメリカで農家になる」という文字で埋まったが、担任の教師には「ふざけているのか」と一蹴された。真剣に取り合ってもらえないことに苛立ちながら、井上は本気で農業に向き合いはじめる。
「有機農法の大家」との出会い
落ち葉や木のチップなどを混ぜて作った肥料を使い、有機栽培を行っている
井上は手始めに、池袋で行われていた「Uターン・Iターンフェア」に足を運んだ。小脇にスケートボードを抱えた井上が、「僕、農業をやりたいんです」と申し出ると、各ブースの担当者は目を白黒させて驚く。今時の若者が農業に関心を持っている姿を面白がり、話を聞いてくれる人がほとんどだったが、山梨県のブース担当者は少し様子が違った。
「お兄ちゃんね、農業やりたいって簡単に言うけれど、植物を育てるのに必要な三大栄養素って分かる? 何も知らない人に農業の手ほどきをするのは大変だから、基本を学んでからもう一度おいで」
率直な物言いには、少しカチンときた。しかし基礎知識がないと門戸を叩くこともできない現実に直面した井上は、全国農村青少年教育振興会が開催する夜間の就農準備校に通い始める。
周囲は田舎暮らしを夢見る定年退職者ばかりのなか、座学を中心に基礎知識を学ぶ授業は退屈だった。だが、ある日登壇した、ネルシャツとジーンズを身にまとった柔らかい雰囲気の男性の授業に、井上は夢中になった。
その男性こそ、日本の有機農業の第一人者と呼ばれる金子美登(よしのり)だった。
金子は就農から一貫して腐葉土による土作りを重要視し、農薬や化学肥料を一切使わずに野菜を育て上げる有機農法を実践。さらに乳牛や鶏などの家畜を育て、太陽光やバイオガスなどのエネルギーに至るまでを自然由来のものに頼るなど、衣食住のほぼ全てを自給自足する金子の農業と生活は、まさに自然とともにあった。
農作物を定期的に消費者に届ける仕組みを構築し、有機農家を経営として成立させた。そのモデルが近隣の農家に展開され、地元の集落ごと同じ有機農家へ転換したという点からも、影響力の大きさを伺い知ることができる。
授業を聞いた井上は、直感的に感じた。
「理由ははっきり分からない。けれど、僕がやるべきことはこれだ」
金子の授業が終わってすぐ教壇に駆け寄り、「高校卒業後、修行をさせてください」と志願。二つ返事で了承してもらえたが、金子のもとには、世界各地から有機農法を学びにきた弟子が生活しており、人数の問題で実際には受け入れが難しかった。そこで、同じく有機農法を営む、田中義和を紹介してもらうことになる。
田中のもとで修行を開始すると毎朝7時半に農場に入り、農場内で飼育されている鶏の飼料づくりから一日がスタート。田中とともに畑を耕し、有機農法のいろはを学んだ。
初年度は全くの無給。次年度からは月に2~3万円の給料の支払いがあった。実家暮らしとはいえ、当然農業だけでは食べていけない井上は、日中は農業で修行し、夜はスケボーショップでアルバイトをして生活費を稼いだ。
朝から晩まで働き詰めだった生活を井上は「楽しかった」と振り返る。
「農業もスケボーのバイトも自分の好きなことだったから、仕事のように感じなくて。全然苦じゃなかったんです」
取引先が倒産、1年の売り上げは50万円
第一線の有機農家のもとでノウハウを学び、友人とともに北杜市に移住。一見、順調に見える井上の就農人生に、少しずつ暗雲が立ち込める。
ともに北杜市に移住した相方が、実家の都合で埼玉県に戻ることになり、栽培から販売までのすべての工程を一人で行うことになった。
追い打ちをかけるように、大口の取引先から一本の電話がなる。
「借金が増えてしまい、自己破産することになった。悪いが、もう取引ができない」
取引先を間近で見てきた井上は、納得するほかなかった。
手元に残ったのは、取引先の依頼で作っていたヤーコンという芋に似た野菜。どうにかして販路を得たものの、その年の売り上げは50万円となった。所持金はゼロになってしまい、アルバイトで生計を立てるような状況が続いた。
それでも、井上は農業をあきらめなかった。一体、なぜなのか。
「農業を諦めることは自分を否定することに近かったからです。教えを請う過程で、自分の農業に自信が湧いてきていた。どんなときでも、いつかうまくいくはずだと信じていました。もちろん、農業が好きだったというのも前提にありました」
栽培品目を絞り込んだことで生産がうまくいき、野菜の出荷先を増やしていく中で、井上は事業としての農業というものを意識するようになっていく。
これまでは「高校生が農業をやっていたようなもの」だったというが、作業の手が回らなくなり、パート・アルバイトの雇用を行うようになったのが、井上の一つの転機だったという。
天候に関係なく従業員が作業ができるよう仕組みを整えた
「自分以外の人に作業を手伝ってもらうことを考えたとき、天候関係なく作業してもらえるように根菜類を収穫して作業できる環境を整えておく必要があるとか、定期的な給料支払いのために出荷したものがしっかりと売れるようにしたりとか、やり方を変える必要が出てきました。農業を事業としてやっていくことをちゃんと考えはじめたのがこの頃でした」
同じく農業をする人々との出会いも、経営としての農業をすすめる井上に多大な影響を与えた。奈良県のある農家は、ファーマンと同じ広さの土地に対して5倍の売り上げを上げていた。農業を軸として村を作るなど、ダイナミックに経営を展開していく姿勢に感化されたという。
「日本には、僕が今やってる農業の100倍ぐらいの規模のことをやられているとんでもない方がいる。人との出会いによって刺激をもらい、目標にすることで、徐々にファーマンも成長してきました」
就労支援で通常の倍以上の工賃を保証
井上農場は現在、農業と福祉の連携にも力を入れている。
国の就労支援の枠組みとして、障害や難病があり、企業などと雇用契約を結んで働くことが難しい人を対象として、就労の機会や就労訓練の機会を創出する「就労継続支援B型」という福祉サービスがある。
井上農場では、このサービスの利用者と、就労継続支援の事業所の職員がユニットを組み、農場内で農作業を行う「施設外労働」と呼ばれる仕組みを取り入れている。
通常、就労継続支援B型の中で施設外労働に従事する人の平均工賃は、時給に換算すると150〜200円ほどにしかならない。山梨県の最低賃金が938円であることを鑑みれば、その差は歴然だ。
工賃の実態を知った井上は、近隣の農場とアライアンスを組み、地域の農場で施設外労働の受け入れをする場合は、最低500円の工賃を保証することを決めた。
現在、井上農場は7名の社員を抱えている。井上のもとで有機農法を学びたい者のほかにも、元ニートや引きこもり経験がある人が社会との接点を求めて、井上農場を頼ってくることもあるそうだ。若き就農希望者たちに、井上は惜しみなく自分の持つノウハウを伝えている。
「僕が若いときに感じた悔しい思いは、きっと今の若者も感じている。補助金を使った経済的な支援や農福連携なども含めて、僕が若いときに欲しかった仕組みを作って、関わる多くの人たちを応援したいんです。それが、悔しい思いをたくさんした若い頃の自分を慰めることにもつながっています」
「毎日が夏休み」本当の豊かさとは
井上はこれから「新しい豊かさがあることを、美しい自然がある北杜市から発信したい」と語る。
「人口10万人ほどの街の中で暮らす方が、人口の多い都心で暮らすのに比べて、幸福度が高いという研究もあります。人や物質に溢れた都心で生活することだけが幸せではないんです。
お金を持つことで得られる幸せもあるけど、お金だけでは得られない幸せもある。『お金がなくても豊かに暮らせる』ということを見せられればと思っています」
多忙を極める井上は、取材終わりの30分後に公演の予定が入っていた。「忙しいですね」と声をかけると、井上は笑って答えた。
「毎日が夏休みです! 楽しいですよ」