サイボウズの青野慶久社長。
提供:サイボウズ
日本を代表するSaaS企業となったサイボウズ。社員の自由で柔軟な働き方や、青野慶久社長のX(Twitter)による発信、取締役の公募など何かと注目を集める存在だ。
そんなサイボウズには一般的には知られていない側面がある。大口の資金を運用する機関投資家からすこぶる「人気がない」のだ。
サイボウズが手掛けるSaaS事業は売り上げのストック性があり、将来的な収益を見通しやすいことから、投資家が好むビジネスモデルと言われている。
赤字先行のSaaSスタートアップが多い中、複数年にわたり利益計上してきた実績を持つにも関わらず、投資家の支持が得られない理由はどこにあるのか。著名投資家のインタビューを交えて考察していく。
※本記事はSaaS企業分析メディア「Next SaaS Media Primary」との共同企画です。
SaaS業界牽引も、万年「割安」銘柄
作成:Next SaaS Media Primary
サイボウズは国内上場SaaS企業でもARR(年間定常収益)が4番目の規模を誇り、これまで成長をけん引してきたグループウェア「サイボウズ Office」や業務プラットフォーム「kintone」といった高成長のクラウド製品を擁している。
2000年代からクラウド製品を展開するなど、先進的な経営によって高成長を遂げてきた「国内クラウド企業の雄」とも言える存在だ。
しかし、こうした実態とは裏腹に、サイボウズの企業価値を示すバリュエーション数値は、継続的に業界平均を下回っていることは知られていない。
上のグラフは、国内の代表的な上場SaaS企業のPSR(Price Sales Ratio:時価総額が売上高の何倍かを示す)推移である。
通常、株式投資などでは時価総額が当期純利益の何倍であるかを示すPER(Price Earing Ratio)などの指標が使われることが一般的だが、先行投資によって赤字企業も多いSaaS企業では、PSRなど売上ベースの指標が用いられることが多い。
サイボウズのPSRは、マネーフォワードやfreeeといった事業の規模感が同等の企業のみならず、SaaS企業平均に対しても常に低い水準で推移してきた。株式の教科書的には、万年「割安」な状況と言ってもいい。
この大きな原因の一つは、サイボウズが機関投資家に対し“一般的”なIRを行っていないためだと見られている。
原因は「塩対応IR」、決算資料は年1回でKPIも非開示
サブスクリプションモデルを主体としたSaaSビジネスでは業績を見通せることが評価根拠となっており、先々の収益を見通す上で経営指標の把握・分析は特に重要となる。
機関投資家や海外投資家を意識するSaaS企業の決算説明資料には、ARRや解約率、ARPU(Average Reccuring Per User:ID当たりなどの単価)などのKPIが示されることが多い。
上の図のように、マネーフォワードの決算説明資料では多くのKPIが開示されている
対してサイボウズは月次のクラウド売上など一部を開示しているものの、他のSaaS指標については非開示の姿勢を貫いている。
またSaaS企業に限らず、多くの上場企業は四半期ごとに開示義務のある決算短信に加え、任意の決算説明資料を開示し、事業の進捗を報告する一方、サイボウズの決算説明資料は年に一回、通期の開示のみにとどまっている。
この他にも、IRでは一般的に行われている機関投資家との一対一での個別ミーティングも情報公開の公平性の観点から基本的には実施せず、多人数、かつ、面談内容を公開するという方式をとっている。
機関投資家からすれば、通常とは異なるIRを行うサイボウズに対し「評価をしてない」のではなく「評価ができない」状況が続いており、株安につながっている。
著名投資家・井村氏が大株主に、一体なぜ?
投資家の井村俊哉さん。
本人提供
業績は堅調ながら「買い手不在」とも言える状況が長年続くなか、今年3月に公表された定時株主総会の招集通知で、ある投資家の名前がサイボウズの大株主として名を連ねたことが話題となった。
井村俊哉氏だ。元芸人というユニークな肩書ながら、累計損益は50億円におよび、近年ではメディアでの出演も多く、個人投資家に大きな影響を与える存在となっている。
直近の有価証券報告書(2023年6月30日時点)では、井村氏はサイボウズの株式2.08%を保有する8位の大株主となっている。
株式取得の背景については「個別企業の業績や投資判断に対しては言及することができない(井村氏)」とのことだったが、「SaaS企業全般への考え方であれば」と、サイボウズへの投資につながるSaaSビジネスに対する基本的な考え方を聞くことができた。
「まず、SaaSは最強のビジネスモデルの一つであると考えています。理由は、一過性の売上ではなくストック性を持つリカーリングレベニュー(継続的収入)、エクスパンション(既存顧客の収益拡大)によるビジネス拡大、高い粗利益率の3点がポイントです。そのような優れたビジネス構造を持ちながらも、日本のIT市場はまだ広大なポテンシャルをもっています(井村氏)」
「経営陣に改善の必要性訴えている」
作成:Next SaaS Media Primary
井村氏があげた3つの視点を、サイボウズにおいて考えてみたい。
前段で述べたようにサイボウズのクラウド売上比率は84.5%にのぼり、全体に占めるストック売上の割合が高い。加えて、この数年間のクラウド売上高は前年比20~30%台の成長を続けており、順調に収益が積みあがっている。
エクスパンションの面においては、具体的な数値としての確認ができないものの、業務プラットフォームというkintoneの製品であるため、企業内で「ユーザーがユーザーを増やしやすい」構造にある。サイボウズが運営する熱量の高いユーザーコミュニティからも製品利用が伝播していく一端が垣間見られる。
また、利益創出の観点でもサイボウズは優れた構造を持っている。一般的なSaaS企業は、AWS(Amazon Web Services)など海外クラウドサーバを基盤としてシステムを構築する例が多いが、近年では円安や値上げの影響によって原価上昇の圧力となっていた。実際に上場企業でも数ポイントの利益率悪化が見られるようになっている。
一方、サイボウズでは270万人を超えるユーザーを抱えながらも、自社でのサーバ運用が費用低下に寄与している。加えて、年間5%といった低い離職率も採用コストの低下につながっていると見られる。
KPIこそ明確に開示されてはいないものの、丹念に企業の状況を探っていくと、優良SaaS企業としての要件を兼ね備えていることが見えてくる。
井村氏は最後に「サイボウズのIRについては大いに課題があり、改善の必要性を経営陣にも訴えている」としながらも「株式市場ではIRが悪くても、業績が伸びていれば評価される例が多い」と述べている。
企業も株主を“選ぶ”側、長期的な視点もった経営へ
サイボウズの株価とTOPIXの比較。
作成:Next SaaS Media Primary
もっとも、サイボウズはIRそのものを軽視してきたわけではない。
同社は「チームワークあふれる社会を創る」をパーパスとしており、株主に対してもその一員であるというのが基本的なスタンスだ。
青野氏が一般的なIRを志向しなくなった背景には、2000年代にサイボウズの株価が10倍を超える乱高下が起きた中で「投資家が一気に離れていった」苦い経験がある。それ以降は、サイボウズの長期的な成長に賛同する個人投資家や一部の機関投資家が念頭におかれたコミュニケーションが取られている。
このような一連のIR姿勢に対しては「機関投資家としての説明責任が果たせず、投資が難しい企業(海外機関投資家)」という否定的な声もあがる一方で「上場企業でありながら短期的な市場の意向に左右されることなく、経営陣の意向を貫くことができる稀有な企業(国内機関投資家)」といった賛否を交えた評価がなされている。
筆者自身も多くのSaaS企業の分析やKPI分析を行うなかで、サイボウズにより多くの情報を開示してほしいという想いはあるが、自律的で長期的にも優れた経営ができる場合、現在のIR姿勢も「アリ」ではないかと考えている。
実際に10年といった長期スパンでは、事業転換による成長を実現し、サイボウズの株価はTOPIX(東証株価指数)を大きく上回っている。
今後も長期的に業績を拡大させ、企業価値評価にブレークスルーがあるのか? 続編では、サイボウズの先進的な経営判断の歴史、そして、今後の成長を占う上で最も重要となる「kintone」による米国挑戦の実態を「Next SaaS Media Primary」からお届けする。
※本記事は、サイボウズ及びその他のSaaS株式への投資を推奨するものではございません。
早船明夫:Next SaaS Media Primary運営/アナリスト。株式会社クラフトデータ代表取締役社長。国内唯一のSaaS企業・業界分析メディア「Next SaaS Media Primary」を運営。UB Ventures チーフアナリスト兼務(外部パートナー)。