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「血液1滴、おしっこ1滴での検査は、世界的にも注目されています。ですが、診断に使えそうな検査手法はまだありません。がんは『すごく稀な病気』なので、(検査手法として)候補にするにも莫大な研究費が必要になります」
そう指摘するのは、国立がん研究センターで検診研究部部長を務める、中山富雄博士です。
日本では生涯で2人に1人が「がん」になるとも言われています。だからこそ、人間ドックでは早期発見を謳うさまざまな診断オプションが提示されていますし、ここ数年の間に「1滴で簡単にがんを調べられる」と謳う検査サービスを提供する民間企業も続々と登場しています。
ただ、新しい(最先端の)検査・診断手法が登場したときに考えておかなければならないのは、どんな検査であれ「メリット」と「デメリット」があるということです。
「がんを早期に見つけて治療できる可能性があるのだから、メリットしかないのでは?」
そう思う人は多いのではないでしょうか。
しかし、安易に検査を受けてしまうと、がんの早期発見・治療という恩恵を受ける以前に、気づかないうちに大きな「デメリット」を負ってしまいかねません。中山博士は少なくとも現時点において、「1滴で手軽に『がんの有無』を調べられる」と謳うサービスの中で、健康な人を対象に大規模に実施するメリットが大きいと言えそうなサービスはないと指摘します。
がん研究センターの中山富雄博士。
撮影:三ツ村崇志
この9月には、経済メディアのNewsPicksが、線虫を使ったがんの検査サービスを展開するHIROTSUバイオサイエンスのサービスに疑義があると報じ、大きな話題となりました。HIROTSUバイオサイエンスはこの報道に対して「事実誤認に基づく記事」として、記事中で指摘された内容に対する回答を公表。NewsPicksの記者や運営元であるユーザベース、内部情報の告発者などを相手に名誉毀損の民事裁判を提起しています。
NewsPicksの報道では、サービスの前提となった研究結果に関する疑義(不正)の指摘などもあり、仮にこれが事実であればサービスの根幹が揺らぐものです。一方で、仮に研究結果に問題がなかったとしても、上述した通り、健康な人に対するスクリーニング検査としてのメリット、デメリットがそれぞれどの程度あるのかということは、また別問題として考える必要があります。
11月のサイエンス思考では、一見すると分かりにくい「1滴でがん検診」を受ける上で注意しておかなければならない現実と、人の命に関わるビジネスをどう育んでいくべきかを、中山博士の解説と共に考えていきます。
がんの「早期発見」は必ずしも良いとは限らない
血液や尿1滴で健康に関わる情報を調べる手法の開発が進んでいる(画像はイメージです)。
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世界では今、血液1滴や尿1滴を使ってがんに限らずさまざまな健康リスクを調べる手法の技術開発が加速しています。2030年には市場規模が100億ドル(約1兆5000億円、1ドル=150円換算)を超えるとする試算もあり、 日本でも血液や唾液、尿などを使ったさまざまな検査サービスが増えています。
こういった技術は「リキッドバイオプシー」と呼ばれ、医療のさまざまな領域で活用が期待されています。
今まで大型の装置などを使っていた病気の診断や検査を血液や尿1滴程度で実現できれば、患者の負担も医療機関側の負担も軽くなります。病気の治療方針を検討するための指標となる検査データを手軽に取得する方法としての活用も考えられています。
ただ、「がんの早期診断」という観点では、2つの大きな課題があるといえます。
1つは、「がん」の治療には早期発見が重要だとはいえ、どんながんでも早く見つければ見つけるほど良いというわけではないということ。もう1つは、多くの健康な人を対象に検査を実施(社会実装)したときのメリットがデメリットを上回ることを証明するのは非常に難しいという点です。
日本では厚生労働省が、胃がん、肺がん、大腸がん、乳がん、子宮頸がんの5つのがんに対して、定期的な「がん検診」(対策型がん検診)を推奨しています。ただ、その受診率は4〜5割であり、期待したほどの効果を得られているとは言えません。
それを考えると、手軽な検査手法の登場によってがんの早期発見・治療が実現できれば、その分がんで死亡してしまう人を救えるのではないか……と期待したくなるものです。ただ、中山博士は、
「早期発見・早期治療は、がんが大きくなる手前で発見し治療をすることで、将来の発がんを減らせるという考え方です。実際、アメリカで乳がん検診を一生懸命やった結果、早期がんの発見が2.5倍に増えたという報告があります。(早期発見ー早期治療の考え方では)その後、進行がんになる人は同じくらい(事前に発見し治療した分だけ)減るはずですが、実際には思ったほど減らなかった。これがいわゆる『過剰診断』です」
と指摘します。
これは、早期に発見できたがんの中に「放置しても進行が遅く死に至らないがん」があったということを意味します。
検査や治療を受けた個人からすると、がんを早期発見したことで「事前にリスクを潰せた」とメリットを感じるかもしれません。ただ、大規模に実施した場合には、結果的に「余計な手術」になっている可能性があるのです。これは患者にとって大きな負担です。
患者数約15倍も、死亡者数は変わらず
韓国では超音波による甲状腺がんの大規模な検診が問題となった(写真はイメージです)。
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韓国では、2000年頃から人間ドックでの甲状腺がん超音波検診が流行し、大きな問題になりました。検診によってそれまでの15倍もの甲状腺がん患者が診断され、治療したにもかかわらず、甲状腺がんによる死亡者率はまったく減らなかったのです。
甲状腺がんの手術では、喉付近の組織や神経を切除するため、中には声がかすれたり、神経麻痺などの合併症が生じたりする患者もいます。たとえ発生率が1%だとしても、1万人に手術をすれば、100人にそのようなリスクがあるわけです。
また、中山博士は、
「声がかすれるだけではなく、この方々の中には年齢を重ねた際に誤嚥性肺炎※を起こす方も将来出てくるのではないかと思われます」
※誤って気管に食べ物を飲み込むことで生じる肺炎。高齢者の死亡原因になりやすい。
とも指摘します。
検査し、手術を受けた当人の中には、「甲状腺がんで死ぬリスクを手術で取り除けたのだから仕方がない」と納得する人もいるかもしれません。しかし中には、気づいていないだけでそもそも不要な健康被害を受けている可能性がある人がいることは否定できないのです。
日本では任意のがん検診(人間ドック)の受診は、個人の判断に委ねられています。厚生労働省が推奨している検診以外の検診手法を提供することも、それを受診することも悪いわけではありません。
しかし、検査を受けた後で「リスクがあるなんて知らなかった」では遅いのです。
対策型のがん検診と、任意型のがん検診の違い。
画像:がん対策研究所のデータをもとに編集部作成
「がんの疑いはあるけど、見つからない」
また、健康な人を対象に大規模にがん検診を実施する場合には、「リスクが高い」と判定されたにもかかわらず、精密検査をしてもがんが見つからない人が出てくる点も大きな問題だとされています。これがいわゆる「偽陽性」の問題です。この問題は「1滴でがん検診」を謳うサービスだけに留まりません。
「がんの疑いをかけられたけど、結局がんはなかった。偽陽性だったという人の不安をどうするのか、という点は大きな問題です。アメリカの精神科医の分析ですが、(検診でがんの疑いがあると言われた後に)精密検査で『乳がんではなかった』ことが確定したにもかかわらず、もともとナーバスな気質の人はずっとQOLが低いままだったという研究結果があります。『みんな本当のことを言ってくれないんだ』『私のがんがどんどん悪くなっていく……』と感じてしまう人がいるようです」(中山博士)
これはアメリカだけではなく、日本でもよくあることだと中山博士は指摘します。そのまま心の病になってしまう事例や、がんだと言ってくれる医師を探して検査を繰り返し、病院をハシゴするような事例もあるといいます。
「がんかもしれない……」という不安で心を病んでしまう人も。リスク判定のサービスを受ける上では、こういったリスクも考慮しておく必要がある。
kumikomini/Getty Images
検査には多額の費用がかかるのはもちろんのこと、精密検査だってノーリスクというわけではありません。
例えば、がんの検査手法として知られる内視鏡検査では、消化管の出血や穿孔などの偶発症と呼ばれる症状が発生することがあります。消化管(胃や大腸)では、1万人に1人程度ではあるものの、検査の回数が増えれば増えるほど偶発症のリスクは高くなります。
中山博士は、
「検査をやればやるほど、こういった人は増えてしまいます。私は『3病院目です』という患者に出会ったこともあります。ですので、世界では生涯の検診回数を減らしていくことが一般的なんです」
と指摘します。
ここまで説明してきたように、どんな検診にもこういった負の側面があります。
だからこそ、健康な人を対象にした大規模な検診として国(日本)が推奨しているのは、胃がん、肺がん、大腸がん、乳がん、子宮頸がんの検診(対策型検診)だけなのです。それも、がんによる死亡率などを考慮した上で、メリットよりもデメリットが大きくならないように対象年齢や検診を受ける間隔(頻度)、検査手法に至るまで細かく定められています。
もちろん、がんはこの5種類だけではありません。ただ、中山博士によると、日本のがんのおおむね半分程度は現在のがん検診のスキームでカバーできる計算になるといいます。
「検診対象外のがん」はどう防ぐ?
対策型がん検診の詳細。対象年齢や頻度、手法まで細かく定められている。
画像:厚生労働省のデータをもとに編集部作成
日本で実施されている対策型検診の対象年齢は、子宮頸がん検診で20歳以上。胃がん検診は50歳以上、肺がんや乳がん、大腸がん検診は40歳以上です。
一方で、報道などでは、芸能人が20代や30代の若いうちにがんで亡くなったり、膵臓がんをはじめとした検診対象外のがんで亡くなったりする事例をよく耳にします。
そういったがんを未然に防ぎたいという気持ちが芽生えることは自然です。
では、「1滴でがんを診断する」と謳う新しい検査手法で、これまでカバーされていなかったがんのリスクを減らすことはできないのでしょうか。
もちろん、個人で検査を受けてその人が主観的にメリットを感じることはあり得ます。ただ、それが大規模に普及したときにメリットがデメリットを上回るかは、「まだ分からない」(検証されていない)というのが実情です。
日本では「生涯に2人に1人ががんになる」といっても、「今年中にがんになる人」は健康な人の中には非常に少ないものです。若者や、希少がんであればなおさらです。
確かにニュースなどで、20代や30代という若い世代でがんになる事例が報じられることはあります。ただ、国立がん研究センターのがん統計を見ると、25〜29歳で胃がんになる人の数は10万人あたり男性で0.7人、女性で1.2人です。一方、65〜69歳では男性で同295.1人、女性で93人と、罹患率に大きな開きがあります(下図参照)。
年齢・性別ごとの10万人あたりのがん罹患率(データは2019年)。リスクの比較として、2022年の10万人あたりの年齢別交通事故による死傷者数のデータを並べている。
画像:国立がん研究センターがん情報サービス、道路の交通に関する統計をもとに編集部作成
よく話題になる乳がんでも、25〜29歳では10万人あたり7.2人です。対策型検診の対象となる40歳以上では、40〜44歳で148.9人、45〜49歳では232.9人(ともに10万人あたり)と20〜30倍の差があります。
「10万人中1桁というのは、やっぱり非常に稀なんです。その人たちを救うために大人数に対する検査をやると、どうしても先ほど説明したような負の側面が大きくなってしまいます」(中山博士)
ピンポイントでがん患者だけをピックアップする検査ができれば理想的ですが、実社会に適用する妥当性を検証するには、健康な人を対象にした大規模な検査を実施して、検査後(例えば1年以内)にどの程度の人が実際にがんになったのかを調べるような臨床研究(前向きコホート研究)が必要です。
このような臨床研究には研究資金も時間もかかり、そう簡単ではありません。
ただ、中山博士は
「サービスとして市場に出すなら、かなりセンシティブにやらなければいけない。企業には、小規模な信頼性の低いデータでいきなり一般の方に応用した場合のデメリットをよく考えてほしい。医療側はこの数十年間、デメリットを考えてきたわけですから」
と強く指摘します。
もちろん、今、デメリットよりもメリットが大きいと判断できない(未検証の)検査手法であっても、今後の研究結果次第で、推奨できる検査になる可能性はあります。
中山博士によると、海外ではまさにこういった大規模な臨床研修が進み始めており、この5年以内にそういったデータがかなり出てくるようになると見られています。国内企業の中にも、信頼性の高いデータを出すために、上述した臨床試験を実施しようと動き出している企業もあります。
また、厚生労働省の「今後のがん検診のあり方に関する検討会」では、死亡率の低下を証明するまでには長い時間がかかることを踏まえて、別の指標でがん検診の枠組みに新しい検査手法を取り入れられないか、議論もなされています。
こういった研究結果や議論の果てに、この技術がどう使われるべきなのか議論が進んでいくことが予想されます。そういった意味でも、今はまさに過渡期なのです。
アメリカ、シリコンバレーでは血液検査ベンチャーのセラノスが虚偽の技術で巨額の資金を集めた大スキャンダルがあった。健康に関わるサービスでは、企業側の倫理観も強く問われる。
Kristoffer Tripplaar/Reuter
すでにサービスとして提供されている検査に、違法性があるわけではありません。
ただそれでも、がんの性質や検査手法のエビデンスの薄さを踏まえて考えると、「1滴でがん検診」を謳う検査手法ではデメリットが大きくなってしまう可能性が捨てきれない(未検証)ということを忘れてはいけません。サービスを提供する企業側には、消費者に対して丁寧に説明する責任があるといえるでしょう。
でなければ、「人の命を救う」という看板の裏で、単に不安を煽ってお金を稼ぐビジネスを展開していることになりかねません。一方で、検査を受ける私たち自身も、その「意味」や検査の「限界」を理解し、納得した上で検査を受ける必要があるのかもしれません。