「面白いいたずら」ではなかった
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身長2メートルのジェイムズ・コミー連邦捜査局(FBI)長官は5月9日(現地時間)、西海岸のロサンゼルスに出張し、職員に話をしていた。
その瞬間、後ろにあったテレビに「FBI長官、解雇」の速報が踊った。
長官は笑って、「面白いいたずらだ」と言った。すると彼の側近が、背後をウロウロし始め、隣の事務室に移るようにと長官に耳打ちした。長官は話を切り上げ、職員らに握手をして、隣の部屋に移った。
コミー氏本人に、ホワイトハウスのトランプ大統領から電話はなかった。
ワシントンで、トランプ氏のボディガードが、7ブロック離れたFBIに、解雇を告げる書簡を届けた。しかし、受取人は約4300キロ離れたロサンゼルスにいた(米紙ニューヨーク・タイムズより) —— 。
トランプ大統領が突然、コミー長官を解雇したことは、逆に数々の疑惑や不安を膨らませ、政権の将来を危機に陥れる可能性を拡大させた。その理由は、以下の3つだ。
1. FBI長官をクビにするリスクを知らなかった
「笑える事実:ニクソン元大統領は、FBI長官をクビにはしなかった」
ウォーターゲート事件で辞任したニクソン元大統領の図書館・博物館は、コミー氏解雇のニュースの直後、こうツイートした。
「トランプ氏は、(解雇が)こんな大きなニュースになって、カンカンに怒っている」 と、MSNBCに出演したワシントン・ポストの記者フィリップ・ラッカー氏が、解雇翌日のホワイトハウスの様子を伝えた。職員のほとんどが、解雇の事実をテレビの速報で知り、「頭がないニワトリのように、駆け回っていた」という。ホワイトハウスの混乱ぶりが目に浮かぶ。
長官任期は10年、解任は1度だけ
1908年に創設されたFBIの長官が"クビ"になったのは、過去に1度しかない。司法省の下、全米にまたがる重大な犯罪を捜査し、善悪を見極めるアメリカ唯一の機関であり、捜査の中立性を保つため、議会は長官の任期を異例の10年と定め、政権交代に影響されないようになっている。
「大統領は大きな間違いを犯している。我々はアメリカ合衆国憲法の崩壊に直面している」 と指摘したのは、MSNBCに出演したリチャード・ブルーメンタール上院議員(民主党、コネチカット州)。中立と独立を保証されるべき司直のトップが、政治的思惑と取れる理由で、突然解雇されたことは、憲法への挑戦であるという解釈だ。
FBI長官の更迭が、建国とアメリカ民主主義の拠り所である憲法の軽視に直結することを知らなかったトランプ氏。そして憲法でさえも、彼をコントロールできないことに、全米が驚きを隠せずにいる。
2. ロシアゲートの影が長引く見通し
「FBI長官をクビにしたって? じゃあ、“誰が”ロシアゲートを捜査するんだ? オーーーーー??? (観客が爆笑)」 9日深夜のトーク番組で、コメディアンが国民の疑問を代弁した。
コミー長官は3月20日、下院情報特別委員会で「爆弾発言」をした。「トランプ氏の選挙陣営とロシア政府の関係について、昨年7月から捜査している」
ロシアゲートをなぜ捜査する必要があるのか、という議員からの質問に対し、コミー長官はこの時、こう答えた。
ロシアゲートに必要なのは独立捜査機関
ロシアの力を借りた?
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「アメリカが世界で輝いているのは、時に混乱もあるが、自由で公正な素晴らしい民主主義と、それを支える選挙制度があるからだ。だから、他国が民主的な米国の選挙に干渉し、破壊し、汚すのは、とても深刻な問題だ。さらに、アメリカ人が他国による干渉に加担しているのであれば、これほど重大な事態はない」
トランプ氏はこれに対し、解雇を告げる9日の書簡にこう書いた。
「(コミー氏が)別々の機会に3回、わたし自身が捜査の対象になっていないと知らせてくれたことには感謝しているが、FBIをうまくリードしていないという司法省の判断に賛成するしかない」
ロシアの力を借りて、世界最強の首脳の選挙に手を加えたとすれば、誰であれ「国賊」だが、それが大統領となれば、とんでもないスキャンダルだ。しかしトランプ氏は、“わざわざ”疑いを膨らませる一文を書簡に入れた。
一方、FBI内で信望があり、捜査を導いていたコミー氏が失脚したことで、民主党議員は「(ロシアゲートについて)独立の捜査機関が必要だ」という意見で一致。これに共和党重鎮のジョン・マケイン上院議員なども同調している。コミー氏の更迭は、逆にロシアゲートへの捜査に、これまで以上に注目が集まる結果となった。コミー氏は16日の上院情報委員会に証人として召喚されている。
3. 政権運営への「計算ミス」
トランプ氏にとって、最近は悪くないニュースが続いていた。下院で、主要な公約の1つだったオバマケア(オバマ政権の医療保険制度)を改廃する法案が可決された。5月末には、サウジアラビア、イスラエル、イタリアに、大統領として初の海外訪問を予定している。イスラム教、ユダヤ教、カトリックという3大宗教の各国を訪れ、「イスラム教の同盟国と、協力と支援の新たな礎を構築する」(トランプ氏)のが狙いだった。成功すれば、アメリカ大統領の歴史に残るはずだ。こうしたプラスに働くはずの政権運営が、コミー氏の解雇ですっかり影が薄くなった。共和党内の団結もさらに困難になった。ホワイトハウスの主要スタッフでさえ、「今回の決断は、計算ミスだ」 とこぼしているという。
津山 恵子:ジャーナリスト、元共同通信社記者。ニューヨーク在住。主に「アエラ」に米社会、政治、ビジネスについて執筆。近所や友人との話を行間に、米国の空気を伝えるスタイルを好む。