副業や兼業、リモートワークと多様な働き方に注目がかつてないほど集まる今、複業研究家として、このジャンルの若きオピニオンリーダーとなっている28歳がいる。リクルートグループに在籍時代から、採用支援の傍ら数々の勉強会やイベントを手がけ、父親の子育て促進にも奔走する3児の父でもある西村創一朗さんだ。西村さんは副業でも兼業でもない「ボーダレスワーカー」という生き方を提唱する。その原点にあるのは、決してなだらかではなかった、これまでの道のりだ。
撮影:今村拓馬
彼女の親に3時間土下座した19歳の夏
西村さんの複業家としての人生の始まりは、大学1年生だった19歳の夏休み最後の日にさかのぼる。
その日、高校時代から付き合っていた彼女の妊娠が発覚した。
東京郊外の産婦人科を2人で訪れた帰り道、駅前のロッテリアでこれからどうするかを話した。
「周囲からはバカップルと言われるほど大好きで、当時から結婚するつもりでいた相手だったので、妊娠がわかってまずは嬉しかった。けれど、すぐその後にどうしよう、と」
10代のカップルに、現実が襲いかかる。
産まないという選択肢は皆無だったので、西村さんは大学を辞めて就職しようと覚悟した。子どもを育てていくにはそれしかない、と。
ロッテリア店内にあった求人誌には「未経験可、正社員30万円から」との求人広告があった。「これなら行けるか」。わらをもすがる思いだった。
その足で彼女の実家を訪ねた。事情を知った彼女の母親は、部屋にこもって泣いている。
「部屋の敷居をまたぐことができず、廊下で土下座をして、とにかく大学を辞めて就職して、一生懸命稼いで育てます、と頼み続けました」
3時間あまり、そうして頭を下げているところに、彼女の父親が帰ってくる。
その日は一旦解散し、週末に双方の両親も交えて話し合うことに。 「絶対に、反対されるだろうな。」 そう覚悟していた中、彼女の父親からかけられた言葉は意外なものだった。
「大学中退でよくわからない会社に就職するよりは、ちゃんと4年間勉強して、卒業しなさい」。
それこそが君の、責任であると。
その瞬間から大学生活は「しっかりと就職をして、子どもと妻を養うために使う時間」になった。翌日から日経新聞を買って、毎日ひたすら読み込んだ。
家族を養う決意をもって結婚と出産を認めてもらうと、妻の実家に同居して子どもを育てながら大学に通う生活が始まった。
撮影:今村拓馬
理想の父親になれない苦しさ
「幸せな時間のはずなのに、僕にはけっこう苦しい時期でもありました」
最初の子どもが生まれた2008年を、そう振り返る。
「学生だから遊びたいという思いはあまりなかったです。そもそも僕の幸せのハードルは低く、大学に入って学べることがありがたいという気持ちでした」
少年時代から10代にかけては、穏やかな日々とは決して言えなかった。
小学6年生の時に両親が離婚。専業主婦だった母親は、生保レディの職を得て西村さんと妹2人を育てた。しかし、慣れない仕事に母子家庭の苦労も重なり、母親はうつ病を患い働けなくなった。
生活は困窮し、生活保護を申請。西村さん自身も学校に行かない時間が長くなり、当時は高校進学もあきらめて働くつもりだった。
「自分の父親を反面教師に、いい父親になりたいと、もの心ついた頃から思っていた。それなのに、自分の力で家族を養うことができていない。自分の思い描くいい父親像と現実の自分の『父親』があまりにもかけ離れていて、つらかった」
学生なのに父親であるがゆえに、自由に自分の時間を使えない。父親なのに学生であるがゆえに、十分な稼ぎを得られず、奥さんの実家で「マスオさん状態」だ。葛藤があった。
そんな頃に、日経新聞の夕刊で、NPO法人ファザーリング・ジャパン(FJ)の創設者である安藤哲也氏のインタビュー記事を見つける。
「父親にとって大事なのはいい父親を演じることではない。父親であることを楽しんで笑っていることが、子どもにとってもママにとってもいいんだよ、と」
それを見た瞬間に「雷が頭に落ちた感覚」があった。
「父親像を自分自身に押し付けて、そうなれないことを勝手に悲観していたことに気づきました」
すぐにFJに連絡をとり、参加を頼み込んだ。学生支部を立ち上げ、働く大人であり父親でもある多くの人生の先輩たちに出会うことになる。FJは「たくさんのサンプルを、インストールする場でした」。
こうして「学生で父親」という立場は自身を構成するアイデンティティーへと進化していく。
複業は人生のチューニング
ロート製薬や日産自動車など、大手企業も「副業」解禁が話題になるなど、新卒で入った会社に終身雇用で定年まで勤めあげることがスタンダードだった日本社会で、これまでになく柔軟なキャリアに注目が集まっている。
その理由について西村さんは2つの側面を指摘する。
「ポジティブな意味では、会社でやれと言われた仕事だけをやるのではなく、やりたい仕事に挑戦する自己実現の手段としての複業。 もう一つは、年齢は上がっても給料が上がらない。だから、もう一つの収入源としての副業」
漠然とした危機感が、世の中を覆っている。年齢が上がるほどコストと収入が上がっていく昭和型の様式が機能しなくなったこことに「みんなが気付き始めた」という。
自分自身がそうだった。
新卒でリクルートキャリアに入社後、営業担当としてトップセールスを達成するようになっていたが、入社3年目で副業のブログを立ち上げ、在籍中の2015年には複業を推進するHARESを興す。
「戦えるキャリアが必要だ、と考えました。そのためにはリクルートの営業マンということに何か掛け算していかなければと」
ここにきて西村さんは「副業から複業へ」の進化の重要性を提唱している。
サイドビジネス的な副業は、お小遣い稼ぎで終始してしまう。「それ自体は決して、悪いことではない」としつつも、
「『複業』をしている人は、2つ以上の仕事を掛け合わせて、大きな人生のミッションを実現しようとしている人が多い。どれが本業というよりは、それぞれの境界が溶け合って相互作用し合い、いい効果をもたらしている『ボーダレスワーカー』なのです」
昨年リクルートキャリアを退社し、独立。現在、西村さんはいくつかの“仕事”を組み合わせた複業人生を送っている。
- 3児の父
- ライスワーク(生活の糧を得る手段)としての採用コンサルタント
- ライスワークの人材領域の事業に対するコンサルティング、マーケティング支援
- ライフワークとしての働き方改革の企業向けコンサルタント
- 個人に複業の概念を広める勉強会やイベントを開催するHARES カレッジ
「複業は、自分の人生をチューニングするための調整弁だなと思っています」
本業100%だと、次々に現れる目の前のミッションに集中していくうちに「自分自身がどうなりたいか、24時間365日を使ってどんなことを実現したいか」ということを、考えなくても生きていけてしまう。だからこそ、
「いったん足を止めて、改めて人生の意味や、仕事を通じて自分がどうしていきたいのかを、考える機会が必要」
場合によっては、目の前の仕事と人生の目的に「ズレ」があると気づくかもしれない。複数の仕事を組み合わせる複業は、そのズレやモヤモヤに向き合うきっかけであり、それを調整する場にもなり得る。
昭和型人生の崩壊後に
不登校になり、高校進学も諦めようとしていた中学3年の冬に、担任教師が、西村さんを呼び出した。担任教師が「授業でやったのを覚えているか」と引用したある言葉は、今でも西村さんの指針になっている
「国家が君に何をしてくれるかではなく、君が国家に何をできるかを問うてほしい」(ジョン・F・ケネディ)
最近では50代の人も「今のうちに何か見つけたい」と、複業人生を目指して西村さんを訪ねてくる。「シングルキャリアで定年まで働き続けて、その後の人生は家でテレビを見ているだけ。そういう生き方の限界に気づいているのは、若い世代だけではない」。
昭和型の制度に支えられた生き方は、すでに崩壊している。「今は、大きな政府から押し付けられた人生モデルを生きるのではなく、個人のボトムアップが国をつくる」と、西村さんは思っている。個人が主体的に人生を選ぶ自由もリスクも引き受ける生き方のひとつが、複業という働き方である、と。
西村創一朗:複業研究家、HARES(ヘアーズ)CEO。首都大学東京法学系卒、2011年リクルートキャリア(当時リクルートエージェント)入社。中途採用支援、人事・採用担当の傍ら、2015年に複業の普及や育児と仕事の両立を目指すHARESを設立。2017年に独立。1988年生まれ、3児の父。