行政は本当に責任を果たしているのか、問いたかった
撮影:滝川麻衣子
2017年度までに「待機児童ゼロ」を掲げてきた安倍政権だが、6月に発表した2020年度末までにゼロを目指す新たな子育て安心プランをもって、問題解決は3年先送りとなった。今なお、親たちは出産前から不安を抱え、生まれるや否や子どもを保育施設に預けるための「保活」に奔走する。ゆったり子どもと過ごすはずの産前産後に、なぜこんな不安に陥れられなければならないのか。
そんな中、子どもが認可保育園に入れないのは、自治体が児童福祉法24条の定める保育の実施の責務を果たしていないからとして、たった1人で市を相手取り、本人訴訟に踏み切った女性がいる。訴訟を選んだ理由を、女性は「これで本当に行政は責任を果たしていると言えるのか、問いかけたかった」と語る。
異議申し立てに杓子定規の回答
2年前の冬、都内の大学院で社会学を専攻しながら非常勤講師として働く小林絵里さん(34)=仮名=は、三鷹市役所から届いた「不承諾通知」を手に、呆然としていた。小林さんは多子世帯の共働き。4月から復帰しようと、当時9カ月の三女を認可保育園に入所申し込みをした結果がそれだった。
現在小学生の兄弟たちは、すんなりと認可保育園に入っていた。世間で待機児童問題は取りざたされてはいたが、子ども子育て支援新制度の創設や増税による財源確保など取り組みが進み、問題も緩和されているはず。さらに「兄弟が在園しているので(当時)、加点も期待できる。以前と同じように入所できるだろう」と構えていたので、ショックだった。
落選した理由を三鷹市に問い合わせた。大学院の博士過程に在学していることで、研究者は就学とみなされる。入所を判定するポイントで、フルタイム就労者と6点もの差があり、勝ち目などなかったことを初めて知った。兄弟の時よりも、保育園争奪戦は激化していたのだ。
不承諾通知を受け取った翌月、小林さんは市に対し異議申し立て申請を行う。ところが現状は何も変わらず、市からは「保育園をつくる努力はしている」といった理由があっさり書かれた、教科書通りの返答の文書が1枚、送られてきて終わり。「これじゃのれんに腕押し。まったく意味がない、本気で取り組もうとしているのだろうか」杓子定規の対応に、なおさら憤りを感じた。
認可保育園と認可外の環境の差は大きかった
撮影:滝川麻衣子
その年、小林さんはまさに保育園難民を経験することになる。自宅から通える範囲の認証や認可外の保育園をまわったが、狭いスペースに月齢も年齢もごちゃ混ぜで子どもたちが寝かされていたり、当然ながら園庭もなかったり。どうしても1歳に満たない子どもを丸一日預ける気持ちになれなかった。
結局、市内の認可園が実施する一時預かりに毎朝、車で通った。1日5000円で週5日預ければ月10万円。しかも預かり時間は認可保育園よりずっと短い。「やっていけない」と、1時間300円で預かってくれる地域子育てサロンを探し出し、2カ所に交替で預けた。
1年後の2016年2月。三女の認可保育園の申し込みで、またも不承諾通知を受け取る。「さらにもう1年この生活……。保育制度が社会インフラとして全く機能していない」勤務時間も短くせざるを得ず、認可保育園へ入れた場合との差額はふくらむ一方だ。延長保育への対応や園庭など、得られる保育環境の差も大きかった。
児童福祉法24条には「地方自治体は保育を必要とする者には保育を提供しなくてはならない」とある。自治体が保育園を整備しないのは、「公務員の不作為に該当するのではないか? 法治国家なのにおかしい」納得できなかった。
「保育園落ちた」ブログを発端として、世間ではデモやSNSの拡散で、保育園に入れない親たちの動きが活発だ。しかし「行政は全然、痛くない。影響力がない」と、小林さんは感じた。
「訴訟」の文字が頭をよぎり、簡易裁判所の場所を調べてみると、意外にも自宅から近かった。「研究の延長線という感じ」で門をくぐった。
認可保育園に入れた場合と、実際に通った一時保育、無認可保育園の利用料2年分の差額は100万円以上だが、簡易裁判所で少額訴訟として請求できる上限額は60万円。請求額は自ずと決まった。心配していた費用も、本人訴訟ならば1〜2万円でできた。
小林さんは弁護士を立てずに本人訴訟を起こすことにした。訴状の書き方からわからないことがあれば「ネットで検索しました」
そうして2016年2月、東京都三鷹市を相手取り、無認可保育施設にかかった費用の一部60万円の支払いを求める訴訟に踏み切った。
潜在待機児童は80万人と予測
日本の待機児童問題は、依然として解決の兆しが見えない。
政府が5月末に発表した新プランでは、2020年度末までに保育の受け皿を22万人分、さらに2022年度末までに10万人分程度を追加する。安倍首相が掲げてきた「2017年度末までに待機児童ゼロ」の目標達成が、先延ばしされた形だ。
これまでの50万人分と合わせると累計85万人分の受け入れ体制が将来的に用意されることになるが、解決への見通しは厳しい。
厚労省によると、待機児童の数は2016年4月時点で2万3500人超。これまでカウントされなかった、育休延長者や無認可施設の利用者も入れると6万7000人超にのぼるという。
さらに表面化していない「潜在的待機児童」を入れると、これにとどまらない。京都大学の柴田悠准教授は著書『子育て支援と経済成長』で「潜在的待機児童は約85万人」と推測する。根拠は、2014年度の労働政策研究・研修機構の調査で、6歳未満の子をもつ専業主婦の約4割が「保育の手立てがないので働いていない」と回答していることだ。専業主婦人口の4割に相当する約80万人が「保育園があれば働きたい」親ということから、少なくとも80万人は潜在的な待機児童と推測した。
フルタイム同士の決戦で年長者は不利
保育園の狭き門は、多様な働き方を推進する政府の方針と真逆の実態を生んでいる。
「認可保育園の選考基準はフルタイムで働く人のためのもの。在宅勤務や短時間勤務、非常勤や就学者は蚊帳の外になっている。待遇や将来不安の大きいフリーランスや研究者が、より高い保育料の認可外を選択せざるを得ない状況」
武蔵野市に住む2児の母、高野礼子さん(42)の夫は大学院で勉強を始めた。夫が就学の場合でも、選考基準点は10ポイント以上のマイナスで計算されるため、当然のごとく認可園には入れなかった。
長男は3年間保育ママ、もう3年間は西東京市の認可外保育園まで往復1時間かけて通った。認可と認可外の費用の差額は月額3万円。次男が今年転園できた、近隣の認可園との通園にかかる時間の差は年間200時間にのぼる。
「希望するみんなが保育園に入れる社会をめざす会」(東京都)で活動する中井いずみさん(40)は、今年4月入園の選考で、4回目の不承諾通知を受け取った。長男と次男は3年間、それぞれ別の認可保育園と認証保育園で過ごしてきた。「選考は最終的にフルタイム就労者同士の決戦で、より納税額の低い方が先行される。日本社会の年功序列の給与体系では年長者が不利」と、熾烈な保活の実態を漏らした。
各国の家族関係社会支出の対GDP比の比較
出展:国立社会保証・人口問題研究所「社会保障費用統計」
それでも訴訟に踏み切る理由
今年1月、三鷹市を相手取った小林さんの訴えは東京高裁で退けられた。「市が保育所の整備などを怠ったとは認められない」との地裁判決を支持した内容だ。小林さんは最高裁への上告を見送り、敗訴が確定した。研究や就職活動にかける時間を考えると、裁判を続けることは難しかった。
「敗訴は残念です。訴訟を起こしたのはお金ではなく、保育所不足問題を解決させるトリガーになると期待をもっていましたから」
小林さんは、率直な気持ちをそう語る。
それでも「やらないよりはやったほうがよかった」と思っている。
提訴が報じられると、「気に入らないことがあれば訴訟をするなんてとんでもない親だ」とネット上の匿名の批判も耳に入ったが、それ以上に、現実社会で今回の件を肯定的に捉えてくれる人たちの声が多く届いた。
裁判所の同世代と思われる書記官も子どもを抱えた小林さんに「大丈夫ですか」としばしば声をかけてくれるなど、労いや配慮を小さなところから感じた。事情を知った周囲のママ友からも「がんばって」と、声をかけられた。
訴訟までは踏み切れなくても、同じように憤りを持った人たちの存在を、小林さんは肌身で感じた。
日本のGDPに占める子育てなど家族関連支出(政府関連サービスや現物給付)の比率は1.25%で、イギリスの3.76%、スウェーデン3.46%に比べて著しく低い。本気で待機児童問題に向き合おうとすれば、世界一の少子高齢社会で、「どこに予算を分配するか」から、真剣に論じなくてはならない。
広島大学の田村和之名誉教授は「待機児童問題については、法的な議論をもっと詰めなくてはならない局面にある。今回の訴訟はひとつの問題提起になった」とみる。
小林さんは「娘たちや次の世代のためにも待機児童問題は乗り越えないといけない。これを乗り越えられずして何が政治・政策なのか」という。日本社会を構造からつくり変えることになる道のりは、たとえ長く険しかったとしても、ひとりひとりが声をあげることで、大きな力に変えていけると信じている。